前世
記憶と意識が続くままに自分の生涯を"前世"と称すのは少々モヤっとする。
それは俺は俺がまだ続いているのだと叫ぶ気持ちが心にあるからだ。しかしながら、死を一度経験した人間の意識の前後関係、かつ今の俺は幽霊でなく死んだ後なお別の人間として生きている────という異常事態を言語化するのなら、前世と現世。恐らくこれ以上に適切な表現はないのだろう。
さて、前世にあたる如月綾人の生涯は、聊かの頑張り、身の丈を超えた自己満足、そして何も残すものがない無意味さを以て幕を閉じたと思う。
学校で虐められていた女がいた。名前を神無月黎音という。
常日頃から、悪意と無関心が彼女を囲っていた。
直接的に手を下す人間。手は汚さないが、いつも冷笑を浮かべ見下しているそいつらの友人。虐められるほうが悪い、などの弱者救済のポリシーを持たぬ他人。そして何の主義主張も持たず、何もしない大多数の中立人間だ。そんな屑人間に囲まれた、四面楚歌というほかない状況に彼女はあった。
勿論、このように第三者面で説明を垂れる俺もまた、人の悲しみを知っていて助けずに居られるクズのひとりであることは違いない。直接的に彼女を害している人間に対しては流石に付ける薬もないが、選択を迫られるまで中立を選ぶ、リスクを取らない選択の賢さを俺は理解している。正義漢を気取ってるワケじゃなし、彼女を助けるリスクリターンが見合っていないから助けない。
無難に生きてなにが悪い? ということ。
人とは結局、生きるために何かを犠牲にしなくてはならないクズなのだ。
が……そういった小賢しい計算が出来るうえで。
どうしてか俺は虐められていた彼女の顔が好きだった。
顔立ちが美しいと思った。
笑顔を見てみたいと思った。
苦痛に歪む顔に欲情した。
俺は彼女が虐められている理由すら知らないし、知りたいとも思わない。
だが顔だけは正直完璧。
ストライクだった。
ある日、3日に一度のマイルールで屋上で授業をサボタージュしていた俺は、とんでもないものを見つける。それは屋上を乗り越え、今にも自殺せんとする神無月黎音の姿だった。
そのときもまた、絶望に染まった彼女の顔が、失望に沈んだ暗い瞳が、どうしようもなく輝いて見えた。
……今思い返しても、理由はなかったと思う。
顔を近くで見たかったのか。彼女に感謝されたかったのか。
訳も分からぬままに俺は彼女のもとに走り出した。
柵を飛び越え、今にも校舎から空へと踊りだそうとする彼女の手を掴み、力まかせに振り回して強引に位置を入れ替えた。
彼女の身体が校舎のほうへ。
俺の身体が足場のない空へ投げ出される。
(────はて、なぜ俺はこんなことをしたのか)
損得がまるで見合っていない。
自殺したいならさせときゃ良かったのでは。
好きな顔がひとつ見れなくなるだけ。
いずれ忘れ、書店で似たようなグラビアアイドルを見つければ良かっただけなのではないか。
けれど、自分でも不思議なことに────
地面に叩きつけられるまでの数瞬に俺が浮かべていたのは笑顔だったと思う。
校舎に取り残された彼女は俺を見ていた。顔には巨大な「なんで」と、「余計なことを」という怒りが貼り付いていた。
睨みつけるようなその表情に独占欲が刺激された。
こんな危うい表情、俺以外に見せたことあるのかとキュンとした。
撮影して一生モノとして残したかったが、一生はそろそろ終わるので目に焼き付ければセーフだと思った。
「ハハ……怒ってる顔も超かわいいなぁ」
そんな実に内容の無い言葉が、俺の人生を飾る最後の言葉だった。
彼女の顔が遠くなる。
天に昇っていく風を身体に感じ、人生で一番広い青空を見た。
ああ……俺は、この空が見たかったのかもしれない。
満足し、如月綾人は静かに瞼を閉ざした。
グチャ。
……そうして死を迎え、無宗教の俺は、無に帰ると思っていたのだが……。