8
鷹裕は週明けの初日から膨大な量の書類に追われていた。予算の拡大による見積もりや試算書類の訂正と確認。各部門からの確認や許可または訂正を求める決裁書。
それでもデスクでこれらを処理できるだけマシなのかも知れない。酷いときは移動の車の中でこれらを処理することもある。
時計を見るとすでに昼を過ぎていた。顔上げると蓮見も一心不乱に書類と格闘している。他の秘書にやらせてもかまわない仕事だが、鷹裕は蓮見に息つく暇を与えるつもりはなかった。昼食を……と思ったが、頭痛がする。週末の疲れがまだ取れていないようだった。
「蓮見」
「はい」
蓮見が手を止めて鷹裕のデスクの前に立つ。
「頭痛薬を持ってきてくれ、それから君は昼食を」
「大丈夫ですか? 今すぐお持ちします」
出て行った蓮見はすぐに薬と水を持ってやってきた。それを飲んでグラスを渡すと、
「昼食に行きたまえ」
鷹裕は蓮見を促した。
「鷹裕さんは……」
「私は今日はいい。行ってきなさい」
「でも」
「昼食の時間まで仕事をさせるほど私は鬼ではないが」
「はい……」
さんざん書類と格闘させながら言う台詞ではないが、嫌味もこめてわざと突き放す。素直に出て行った蓮見がやがて戻ってきた。社食に向かったのではなく、ビルの一階にあるコンビニで買ってきたようだ。
書類を読むふりで横目で見ていると、たったひとつ買ってきたサンドイッチの包みを持てあましているようだ。今の自分もそうだが、余り疲れすぎると食欲も睡眠も取れなくなる。
書類に目を戻そうとしてツキッとこめかみが痛んだ。同時に目がチカチカする。思わず上を向き手をまぶたにのせた。目が疲れて余計に頭痛が酷くなった気がする。あとどれくらいで薬が効くのだろう。また微かに苛ついてくる自分を感じる。
「あの……」
例のごとく遠慮がちな蓮見の声に前を向くと、
「お疲れでしょう、少しマネージャーも休憩してください」
いつの間にか目の前に来ていた蓮見がタオルを差し出す。訝しく思って見つめ返すと、
「失礼します」といって横に廻り鷹裕の頭部と額に手を当てて上を向かせる。
蓮見の指先がひんやりと冷たいと鷹裕は思った。蓮見が蒸しタオルを瞼に乗せると気持ちが良かった。
この部屋には扉の向こうに簡易キッチンとトイレ洗面が付いている。客用のコーヒーやお茶は秘書が部屋の外から運んでくるが、鷹裕の飲むものはいちいち部屋の外へ出なくとも蓮見がこの部屋で煎れる。
鷹裕はこの部屋で仕事をしながら夜を明かすこともしばしばあるので、洗面の場所があるのも便利だった。どうやらそこで蒸しタオルを作って持ってきたらしい。
不安定にならないように椅子のヘッドレストに寄りかかった鷹裕の頭をそのまま支えてくれている。心なしか眼球だけでなく頭痛が楽になってきた気がする。心地よさに深い息をつくと、
「少しは楽になりましたか」と蓮見が声を掛けてきた。
タオルで見えないが声の位置からして鷹裕の顔を覗き込んでいるらしい。鷹裕は不意に蓮見の手を掴んだ。額のタオルを押さえていた蓮見の左手だった。蓮見が驚いた弾みでタオルが落ちる。目を向けると蓮見が目を見開いて鷹裕を見つめ返していた。
「……ぁ……っ」
「冷たい手だな」
掴んだ蓮見の指が異様に冷たかった。
「あの」
困ったような蓮見の表情に鷹裕も困惑した。なぜいきなりそのような行動に出たのか自分でもわからない。
「楽になった」
「ぁ、はい」
蓮見の手を離して鷹裕は何もなかったような顔で言う。
「食事を済ませたらどうだ、昼休みが終わってしまう」
「は……い」
蓮見はぎこちない歩き方で自分の席に戻って、小さなサンドイッチの包みを開けた。鷹裕はまた自分の書類に目を戻した。
そのとき。いきなり蓮見が席を立ち、隣接した洗面室へ飛び込んだ。何事かと顔を上げた鷹裕だがさして気にも留めなかった。ひょっとして気分が悪くて吐いたのかも知れない。
口元を押さえて駆け込んだのが見えた。相変わらず虚弱だと思うが、今日は鷹裕も気分が優れなかったくらいだ。先日のあのやりとりで蓮見なら胃に穴が空く位のことがあるかも知れない。
しばらくして、あまりに蓮見が姿を現さないことを不審に思った。他の秘書を呼ぼうかと思ったが、鷹裕は自分で立ち上がりレストルームを覗いた。扉を開けると広めの洗面台がある。髪を洗うことも出来るサイズだ。
そしてトイレの扉がある。その扉は開いていて、中でトイレの便器に凭れかかるようにして蓮見が居た。
「蓮見?」
呼びかけたが返事がない。
「どうした」
声を掛けて体を起こすとその顔が真っ青だった。半分失神している。鷹裕は蓮見を抱えて引きずるようにして部屋に戻った。ソファーに寝かせる。蓮見の顔色は青いと言うよりも紙のように真っ白だった。どうやら本格的に気を失ってしまったらしい。
先日の今日でその虚弱さには呆れを通り越す。だが今日は本当に酷使した自覚が鷹裕にもあるので許すことにする。鷹裕は外の秘書を呼びつけると、書類の残りを他の秘書に押しつけた。本来なら他の秘書がやるべきことを蓮見に押しつけたので別に問題はないはずだ。秘書をまた部屋から追い出すと鷹裕はしばし蓮見の寝顔を見つめていた。