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「お母さん、ただいま」

 声を掛けると母親はベッドに腰掛けてぼんやりしていた顔を鷹裕に向ける。綺麗な顔立ちだった母親は長年の精神的な患いで老け込んだように思える。結婚するまでは何を苦労することもないお嬢様だったと思えば、確かに母親は可哀想な人かも知れなかった。

「お帰りなさい、祐介さん」

 父の名を呼ぶ母に鷹裕は溜息をついたが訂正はしなかった。母親の混乱はいつものことで、いちいち訂正していたらきりがない。ほとんどは勝手に好きなように思わせていた。手招きされてベッドの側まで寄ると、腕を痛いほど掴まれた。

「…………っ」

 女の力とは思えないほどだった。

「よかった……やっと帰ってきてくれたのね……あの女のところから……」

 必死の形相で今度は縋り付かれた。

「もう、もう帰って来てくれないと思った。あの女があなたのこと離さないから、私からあなたのことを奪っていくのよ、あの女が……」

「母さん!!」

 鷹裕は母親の言葉を遮った。このまま放っておいたら延々と母親は『その女』に対して呪詛を吐き続けるのだ。鷹裕は何時間も付き合わされる羽目になる。そんなことは耐えられなかった。

「お母さん、僕は鷹裕ですよ。お父さんは……祐介は死んだでしょう」

 鷹裕の言葉に母親の動きが止まる。まるで機械仕掛けの人形が止まるような感じだった。

「死んだ?」

「死んだでしょう。僕は息子の鷹裕ですよ」

「……そう……そうよ。鷹裕さ……ん、お父さんは死んだ。あの女が殺したのよ」

「お母さん、もういい加減に止めませんか。その話は……」

「いいえ!! 何を言っているの。あなたが父親のない子になったのはあの女のせいなのよ。あの女は自分だけ生き残ったあげくに、子供まで産んで。再婚して幸せにのうのうと生きて……」

 実際はもうすでにその女性もこの世にはいないというのに母親にはわからないらしい。

「お母さん、もう休んでください」

 鷹裕は母親をベッドに寝かせた。

「手を握って」

「えぇいいですよ」

 鷹裕は母親が眠るまで側を離れなかった。

 夜中。

 鷹裕は母の悲鳴で目が覚めた。隣室へ続く扉を開ける

「おかあさん、どうしました」

 両手を伸ばす母の側に寄ると母親は鷹裕の背に腕を回してしがみついた。

「あなたが……祐介さんがいないから……」

 鷹裕は実家へ着いてから何度目かの溜息を漏らすと、

「お母さん。祐介は、あなたの夫の祐介は死んだでしょう。僕は息子の鷹裕ですよ」

「鷹裕さん?」

「そうですよ」

「そうね、鷹裕さんだわ」

「えぇ」

「あなた、いつも居ないわね」

「仕事ですよ」

「嘘よ」

「嘘じゃありません」

「あなたもそうやって私を捨てるんだわ」

「お母さん」

「あなたは私が嫌いなのよ。お父さんと同じよっ」

「お母さん!」

「いつも仕事だと言って居ないわ……あの人もそうだった。祐介さんも……。いいえ、違うわっ祐介さんは仕事だと言ってあの女と会っていたのよ。貴方もそうなんでしょっ!仕事なんて嘘なんでしょ!!」

 言いながら暴れ始めた母親を押さえつけ、脇にあったベルを鳴らす。すぐに使用人がやってきた。母親のこの様子は日常なので使用人も慣れている。

「鷹裕さま、あとは私が……」

 年配の、鷹裕が小さな時から母の世話をしている使用人が申し出て、鷹裕はほっとする。そのまま隣室に引き上げることにする。

「鷹裕さん! お母様を捨てないでっ……」

 その背中から母の悲鳴が追いかける。母親の部屋の隣室にあるこの部屋は、父の書斎だった場所だ。自分の部屋からだとこの夜中の騒ぎに対応できないので、数年前から実家へ戻ったときはここで寝泊まりしている。

 隣からはまだ母親の声が聞こえていた。昼となく夜となく、父親を恋しがり、次に恨みの言葉を吐く。鷹裕が子供の時から全く変わらない。

 ただ最近はそれが時々鷹裕本人への恨みになる。母の中ではもう父親も鷹裕もなく、その恨みと恋しさが混ざり合って過去も現在もなくただ感情だけが残っているのだ。そして父は亡く、それを受け止めるのは鷹裕一人だった。

 鷹裕は自分のベッドに座り頭を抱え、耳も塞いだ。もう楽にして欲しい。母親の感情に呑まれ、染まるのは耐えられない。母親から解放されたかった。

(死んでくれないか……)

 そんな悪魔のような言葉が浮かび、側からその言葉と自分自身を嫌悪する。吐き気がする。この家も母親も、そして何より自分自身に――――――

 もう楽になりたい……ひたすらそう思った。


 実家へ戻った土曜の夜はいつもほとんど眠れない。日曜の午後には自分のマンションへ戻り、くたくたになって眠りにつく。月曜からはまたハードなスケジュールが待っている。寝不足では対応できなかった。

 月曜。

 とても休日を過ごしたとは思えない疲れた自分の顔色に自分で呆れたが、蓮見も同様だったようで酷い顔色をしていた。そう言えばあのことを当てつけのように投げつけたことを思い出す。微かな胸の痛みを蓮見への同情などと思いたくない。その思いを打ち消すように鷹裕は朝から山のような雑務を蓮見に回した。

「これはお前が責任を持ってやってくれ、他のものには回さないように」

「はい……」

 蓮見は鷹裕の言うことに絶対に異議は唱えない。そのことを鷹裕は十分に承知していた。蓮見はなぜそこまで自分に従順なのか。昔助けてやったことをそこまで恩にきる蓮見の考えがよくわからないが、鷹裕には好都合だった。



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