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 鷹裕が自分のマンションへ帰ったのは二日ぶりだった。大事な追加融資のための資料を作成していたためだ。鷹裕は大事な仕事は絶対に部下任せにしない。最後の仕上げは自分の手で行った。

 そんな鷹裕に部下たちからの信頼は厚い。だがその煽りを食らうのはいつも蓮見だった。鷹裕に付き合い、残業どころか徹夜もたびたび。体力には自信のある鷹裕でも相当疲れるのだから、あのいかにも非力そうな男には翌日起き上がるのも相当大変だろう。

 そこまで考えて、鷹裕は一人の部屋で薄く笑った。蓮見の苦痛を考えるとき、鷹裕は少しだけ溜飲が下がる気がする。少しだけ呼吸が楽になる気がする。

 大きな窓辺で夜の街を眺めながら手にしたグラスの琥珀色の液体を飲んだ。疲れた体にアルコールが吸収されて、今夜はぐっすり眠れるだろう。明日はまた次の仕事が待っている。今日仕上げた資料を持って、グループ銀行の追加融資の説得にかからなければならない。予算は必ず獲得する。このプロジェクトには絶対に必要な予算だった。

 だがそのとき部屋のボードの上で赤く光る点滅を見つけた。とたんに不快になる、と言うよりは軽く吐き気がこみ上げる。留守電……聞かなくとも内容はわかっている。それはまるで悪魔の声のようだとわかっている。

 それでも電話をしなくてはならない。昨日留守にしていたので向こうからかかってきたのだろう。今日こそ電話しなければどんな騒ぎを起こすかわからない人なのだ。

 鷹裕の母親という人は――――――


 翌日、鷹裕は苛立ちを遠慮無く蓮見にぶつけていた。

「いったいどういうことなんだっ!!」

 昨日仕上げた資料を持って、打ち合わせに行くつもりが向こうの融資担当者のスケジュールがブッキングしていて今日は会えないという。

「次はいつなんだ!」

「それが、明日以降は担当が出張とかで早くても三日後になると言う事です」

 蓮見の言葉に、

「ふざけるなっ!」

 鷹裕は怒鳴りつけ、手にしていた資料を蓮見に投げるように叩き付けた。昨日蓮見が作成した百枚近くになる資料が、蓮見の横顔にぶつかりそのまま舞い落ちた。紙で切れたらしく蓮見の頬に血が滲んでいた。

「申し訳ありません」

 蓮見が深く頭を下げる。

「お前がきちんと先方と話を付けなかったのか」

「いえ、確かに今日の昼と」

「ならどうしてなんだ」

「わかりません」

「お前はさっき、謝ったじゃないか」

「いえ、それは……」

「自分に手落ちがないならなぜ謝るんだ」

 鷹裕の苛立ちはすでに相手の担当者ではなく、蓮見に向けられていた。鷹裕が激高すると蓮見はすぐに謝る。

(機嫌でもとってるつもりかっ)

 鷹裕はだんだんムカムカしてきた。

 昨日……

 気持ちよく眠れるだろうと思った期待はすぐに裏切られた。留守電の明かりを見て不快になりながら、それでも実家へ電話するしかなかった。二晩鷹裕が連絡を取らなかったら実家の母親がどんな騒ぎを起こすかわからない。

 だから鷹裕は仕方なく母親に電話した。その後延々と三十分以上。鷹裕は母親の被害妄想的な愚痴を聞かされ続け、最後はいつものように涙ながらの母親によって半ば強制的にいつもの言葉を言わされた。

『僕はお母さんを裏切りません』

 この狂信的な母親に毎晩電話して毎晩同じことを繰り返さなければならない。

 毎晩だ。一日でも電話しないと向こうからかかってくる。そのときに鷹裕が電話に出れないと大変な事になる。

 二年前、母親は電話に出ない鷹裕に不安症になり、雨の中行き倒れになると言う騒ぎを起こした。住んでいるマンションを母親に教えていないので、どこにいるかわからない鷹裕を当てもなく探し歩いて倒れたのだ。

 そのときは警察まで巻き込む大騒ぎになり、本家からも苦情が来た。仕方がない。二年前に鷹裕が家を出ることを決めたときに週末は必ず家に帰る事と、毎晩の電話は欠かさない事を約束したのだ。

 そうでもしなければあの家を出られなかった。たとえどんな条件を呑んででも鷹裕はあの家を出たかったのだ。まるで母親の怨念の固まりのようなあの家を。


 目の前の蓮見は今朝から青い顔をしていた。疲れすぎて眠れなかったのかも知れない。それは鷹裕も同じだが、鷹裕はこんなことくらいで倒れるような事はない。

 だが蓮見は違ったようだ。鷹裕に言いがかりのように苛立ちをぶつけられて、蓮見の肩が微かに震えていた。

「申し訳ありません。確かに約束は取り付けたのですが私の方でも再度確認しなかった手落ちです。忙しい鷹裕さんにご迷惑をかけて……」

「そんな事はどうでもいい、この始末をどう付けるつもりだ!!」

 鷹裕もそんな事を言ったところで、今更始まらない事は百も承知だ。今は予定をキャンセルされた腹立ちと、昨夜の苛立ちを蓮見に八つ当たりしているだけだ。なぜか鷹裕は蓮見に怒りをぶつけるといつも気持ちが収まるのだ。蓮見はそんな鷹裕の常に犠牲者だった。

(蓮見……弱者は踏みつぶされる運命だ。お前もいい加減気づけよ)

 鷹裕はいつもただ言いなりになるだけの蓮見にわけのわからない衝動を覚える。

「鷹裕さん……」

 そのとき鷹裕に声をかけた蓮見の体が揺らいだ。そしてそのままデスクの下に倒れ込んだ。

「蓮見!?」

 鷹裕は倒れた蓮見を覗き込んで溜息をついた。

(だから言っただろう。まったく……脆弱なやつだ)

 鷹裕は自分で蓮見を抱き起こすでもなく冷たく見下ろした。そして隣の部屋で控えている別の秘書を呼んだ。

「蓮見さんっ」

 驚く女性秘書に、

「救急車呼んでやれ」

 ただそれだけ言うと、自分も接客用のソファーに深く腰掛けそのまま横になる。

「俺も少し横になる。スケジュールがキャンセルになった。一時間したら起こしてくれ」

 秘書にそういうと、

「わかりました」

 秘書はあたふたと隣の部屋と行き来しながら他の男性秘書を呼んで蓮見を抱え上げて貰い、部屋を出て行った。そんな秘書たちの騒ぎを鷹裕は一切無視した。

 蓮見が同じビルの診療所へ行くのか、秘書たちが本当に救急車を呼ぶのかは鷹裕の関知しない事だった。

(疲れた……)

 そう感じて、鷹裕はソファーで目を閉じた。蓮見が居なければ今日の仕事は終わったも同然かも知れない。蓮見以外の秘書では役には立たなかったからだ。






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