12
「蓮見、そうじゃない。もうあのことは忘れろと言っただろう?」
「なぜです? 僕は貴方に憎まれてもいい。でも今まで通り側に置いて欲しいです。今まで通り僕を使って下さい」
「蓮見……」
苛立ちとも戸惑いとも言えない鷹裕の声が蓮見に届いた。はっとして蓮見は我に返った。
「すみません、自分の勝手ばかり」
「まったくだ……俺の話も聞け。おまえには感謝してる」
「え?」
思いがけない言葉に蓮見の動悸は速まる。いったい何を言われているのか。
「おまえは慣れない仕事を今までよくやってくれた。だが今の体調でこの仕事の激務は無理だ。ゆっくり静養したらおまえの好きな部署に配置換えしてやる」
「え……?」
鷹裕の声が遠くに聞こえた。
「研究に戻りたかったんだろ?いままで俺の我が儘でおまえに無理させて振り回してきた。許して欲しい。個人的な……しかも自分勝手な恨みだ。だがもういいんだ。遠回りさせたが、退院したら必ず研究に……」
「行きたくありません!」
鷹裕の言葉を遮って蓮見は答えた。その強い調子に電話の向こうで微かに息を呑む気配がした。
「なぜ?」
しかし聞こえてきたのは穏やかな鷹裕の声だった。
「行きたくない。他の場所なんて行きたくないです。でももしもう僕が不要ならクビにして下さい……」
「蓮見」
しばらくの沈黙があった。蓮見は途端に居心地が悪くなる。今までも大して役に立たなかったのに、なんという傲慢な発言をしてしまったのか。
「すみません……」
電話口で鷹裕が笑ったような気がした。
「蓮見」
「はい……」
消え入りそうな声で答えた。足手まといでしかなかった過去の自分も、自由にならない今の自分の身体も、無くなればいいのにと蓮見は思った。
「とにかく、その身体では心配なんだよ。 まず治して……それからどうしたいのかは希望を聞いてやる」
「鷹裕さん……」
「安心しろ。 おまえの事をこっちで勝手に決めたりはしない。後でちゃんと希望を聞いてやるから」
鷹裕が宥めるようにそう言った。今まで聞いたこともないような優しい声だった。
「鷹裕さ……ん……」
「とにかく今はよく眠りなさい……お休み…………尋紀」
鷹裕は蓮見のことを名前で呼んで電話を切った。蓮見は携帯電話を握りしめて泣いた。なぜ涙が出るのかわからない。けれど涙は止まらなかった。
翌日、人事から蓮見に連絡があった。
病欠の間心配しないで療養をして欲しい、会社に戻るときは新しく希望に添うように配属先を選べること。有給や仕事のことを考えずにとにかく体調を戻して欲しいこと。その間給与は今の待遇の通りに保証すること。
「以上、真城マネージャーから伝言です。お大事になさって下さい」
事務的に告げられて、昨夜の会話が甦った。あれからいろいろな思いにとらわれて、鷹裕にお休みと言われたのにそれどころではなかった。
突然告げられた謝罪の言葉。そもそも蓮見はまだ最初に聞かされた自分の母親のことさえ整理できてはいないのだ。もういいと言われても混乱するばかりである。
そして自分の体調不良。昨日まで食事の暇さえないほどの忙しさだった。それが今日はもう会社に来なくていいと言われたのだ。昨日鷹裕もゆっくり休めばいいと言っていた。そして他の部署に行っていいと言われた。これは……
(いらないって……もういらないってことだ)
慣れない仕事で数々迷惑をかけてきたことを思い出す。失敗ばかり繰り返し、挙げ句の果てに病気にまでなった。なんの役にも立たない。
鷹裕に憧れていた。学生時代からずっと。憧れていた鷹裕に助けて貰ったあの日から更にそれは強くなって、再会したときは夢かと思ったほどだ。だがそれも……
(すべて無駄だった)
どうやら次々と鷹裕を不快にするだけの存在だった気がする。
そのとき蓮見の携帯が鳴った。鷹裕からだった。
「もしもし……」
無視など出来なくて電話に出る。
「体調はどうだ?」
「はい、大丈夫です。 あの……会議は?」
時計を見ながら蓮見は聞いた。今日は午前中から定例会議があったはずだ。
「あぁ、あと十分で始まる」
「では会議室へ移動して下さい」
秘書そのままの口調で蓮見は告げた。鷹裕が電話口で少し笑ったようだった。
「わかってる。今から行くさ。それより人事から連絡行ったか」
「はい。聞きました」
「そうかとにかく後のことは心配しないで……」
「鷹裕さん」
「なんだ」
「僕は大丈夫ですから」
蓮見の口調も諦め気味だった。鷹裕が一回決めたことを翻すことは滅多にない。
「何か希望があるか?」
忙しい中電話をくれて尋ねてくれる。もう一度だけ……そう期待を込めて蓮見は言ってみる。
「会社に戻りたいです」
鷹裕の隣に戻りたい。なぜか無性にそう思うのだ。
「蓮見……」
鷹裕の呆れたような声に慌てて蓮見は告げた。
「もういいです」
意気消沈したまま電話を切ろうとする。すると、
「ちょっとまて」
期待がまた少し過ぎった。だが鷹裕の言葉は違った、
「聞きたいことがある」
「――――――」
「どうしても気になるんだ。 その痣のことを話して欲しい。何かトラブルがあるのか?どうしたんだ」
蓮見は息を呑んだ。このことは鷹裕には関係ないはずだった。なぜ見られてしまったのかと思う。
「これは鷹裕さんには関係ありません」
慌ててそう言った。
「おいっ」
鷹裕の声が変わる。蓮見は電話の向こうに告げた。
「時間がありませんよ、もう行って下さい」
「蓮見っ!」
鷹裕の呼びかけと言うよりは、短い叫びに近い声を残して電話を無理矢理切った。そして蓮見は医者が止めるのも聞かずに、そのまま強引に病院を退院した。