11
「なんだこれは―――」
知らずに鷹裕の口調はきつくなっていた。
「な、なんでもありません」
蓮見の答えに、鷹裕は視線をきつくして今一度聞いた。
「なんでもないわけないだろう。これはなんだと聞いている」
腕を引こうとする蓮見の腕をなおも掴んだまま鷹裕は睨む。すると蓮見は顔を背けた。
「なんでもありません……」
さっきと違って消え入りそうな声だった。
「蓮見」
「離して下さいっ」
蓮見は思いきり自分の腕を引き寄せると袖を隠し、今度は強い眼差しで鷹裕を見つめた。睨むと言った方がいいかもしれないその眼差しに鷹裕は微かに怯んだ。この蓮見の表情も初めて見る顔だった。その顔を見たら腹に残る痣も聞き出そうとしていたのに聞けない雰囲気になった。
蓮見の顔には鷹裕に絶対に踏み込ませないという意志が見えていた。諦めた鷹裕は表情をゆるめると蓮見に言い渡した。
「とにかく体調が戻るまでは休め。いいな。」
そのまま病室を後にした。
鷹裕は会社に戻って仕事の残務処理をした。部下は帰らせたがすでに夜も深い時間になろうとしていた。デスク以外の電気を落としているために部屋は薄暗い。
数日前にここで蓮見に話したことを思い返して苦い思いになる。やはり言うべきではなかった。あのことが今回のことに直接繋がっているわけではないが、蓮見の体調に負担をかけたのは事実であろうと思う。
インターネットで『溶血性貧血』を調べた。多くはステロイド剤を服用して完治するようだった。だが、
「もう無理はさせられないな」
鷹裕は誰もいない部屋で一人呟いた。蓮見の変わりを探さないといけないだろう。残りの二人の秘書にはそれぞれ現在の担当の仕事がある。
新たに蓮見の代役を見つけないといけないだろう。そこまで考えて鷹裕は深く溜息をついた。なんだかんだ言っても蓮見とは初対面ではなかったし、自分の後輩だという気安さもあった。
そして変な話だが昔から憎み続けていたせいで逆に身近に感じていたのかも知れない。人付き合いの苦手な鷹裕でも蓮見には気軽に何でも命令できたし、蓮見に対してきつく当たってはいたが蓮見はそれなりに良くやっていたと思う。
蓮見が研究畑で勉強して、ここへもそのつもりで入社していたのはわかっていた。人事もそのことをわかって採用したのだし、鷹裕が蓮見を自分の秘書に無理矢理押したのはもちろん我が儘だ。
元々人事は反対したのだが、蓮見がこの会社に入社に居ると知って、これは運命だと鷹裕は思った。このチャンスは復讐のためのものだと思ったのだ。目の前に現れた蓮見を逃したくないと思って無理矢理自分の秘書にして手元に置いた。
自分の目の届くところに置き、どうにでも出来るようにしたかったのだ。だがよく考えてみれば、それが何を生むというのだろう。けっきょくは母親から向けられた気持ちをそのまま蓮見に向けようとしたに過ぎない。
唐突に伯父の言葉を思い出した。
『鷹裕、母親の感情に毒されるんじゃないぞ。礼子さんも可哀相だと思うがあの人の考えは妄信的過ぎる。すでに冷静な判断が出来なくなっている人だ。お前をあの人に任せたのは失敗ではなかったかと思っているよ』
そうなのだ。
事実は事実としても大半は母親の妄想に過ぎない。それをいくら毎日のように聞かされたからと言って、そのまま蓮見にぶつけるのは間違っている。
(わかっている……)
「わかってるさっ」
だが、鷹裕自身もそれを何かにぶつけないと平静を保てなかった。立派だと思っていた自分の父親が不倫の果てに心中だなどと。
だがそれを何も知らない蓮見にぶつけるのは理不尽なのだ。なんて子供っぽいことを……気づけば今までの自分が恥ずかしくなる。蓮見を解放してやらなければならない。気づけば鷹裕は蓮見の今後のことをあれこれと考えていた。
病室の天井を睨みながら蓮見はこれからどうしたものかと思案していた。病院側からも説明があり、検査の結果が詳しく出るまでは入院するように言われたが、とんでもない話だった。
毎日の鷹裕のスケジュールは、残業などと言う生やさしものではない。帰宅時間はもとより、昼食や夕食も接待以外はカットされることも多く、オーバーに言えばわずかな睡眠時間を除けばすべてが仕事で埋め尽くされている。
自分がこうしている今も鷹裕は仕事に追われている訳で、自分だけがのんびりしているわけには行かない。
「ぁ、明日のスケジュール……」
唐突に思い出した蓮見は手を伸ばして携帯電話を探った。スーツは掛けられてあり、身につけていた小物も置いてある。携帯電話は電源が切られていたが、ここは個室なので使っても構わないだろう。
もし駄目だとしても今は非常事態と目を瞑って貰うしかない。まだ点滴につながれた不自由な体だった。鷹裕の携帯を呼び出すと、余り間をおかずに相手が出た。
「どうした」
いつもの落ち着いた鷹裕の声だった。
「あの、すみません……」
言いかけた蓮見の言葉に電話の向こうで鷹裕が低く笑った。
「……?」
「おまえは『すみません』が口癖なのか?俺に対して必ず一回は『すみません』と言うな」
「すみません……ぁ、そうじゃなくてですね」
「なんだ」
「明日なんですけど」
「明日?」
「明日の予定です」
「あぁそれならさっき滝沢に確認させたぞ」
滝沢というのは三人の中で一番年上の主任秘書の名前だった。
「…………そうですか……」
蓮見は急に自分の居場所がないような気がしてきた。もともと自分は畑違いで、秘書としての知識や能力はゼロに近かった。滝沢の方が長年選任秘書として能力が高いのは誰の目にも明らかだった。急に黙った蓮見に鷹裕が溜息をついて話しかける。
「そんな心配はしなくていいから、今は体のことを考えろ」
鷹裕の言葉に蓮見は急に不安になる。
「やっぱり、もう僕は必要ないですか」
「何を言ってる」
電話の向こうで鷹裕が聞き返した。
「たいした仕事は出来ないで失敗ばかりで……足手まといで。しかも…………この間の話し……僕の顔も見たくないですよね……僕は目障りですよね……」
女々しいと思いながら、涙声になるのを蓮見は止められなかった。