第Ⅵ話 『壁』
夏休み最終日。
私は終わらない宿題の山と格闘していた。
時刻はAM8:00を過ぎた頃。
今頃他の子たちは最後の日に集まって楽しくワイワイやってるんだろうな。
去年の夏もそうだった、最初の目標では7月中に全ての課題を終わらせるつもりだったのだ。
だが私は宿題の山には目もくれずひたすら遊び続けた。うん、堕落三昧。
私の悪い癖だ……重度の刹那主義者。
しかも私は親が居ないのでそれを叱ってくれる人も居ない。
まさに遊ぶ事だけに適した環境。
「ふぅー」
私は大きく伸びをして机の上に置いていたカップの中のコーヒーを流し込む。
この苦さがいい。何もかも忘れさせてくれるような匂い、破滅的なまでの漆黒の色。
外から夏の暑さとともに朝日が差し込んでくる。
もう朝なのか……徹夜してるのにも関わらず山は崩れない。
私はその感情をぶつけるようにカーテンを勢い過ぎて引いた。
少しずつ数を減らしたセミの声が大きくなる。
「……あれ???」
そこで――異変に気がついた。
私は毎朝、カーテンを引いて朝日を浴びて目覚める習慣がある。
私は毎朝ここからの景色を見ているのだ。
となるとこれは面倒な事になってきた……非常にやっかいな一日が始まる予感がした。
――そこに見えていたのは灰色の“壁”。
窓を開けて体を突き出して左右を見渡す。
「……え???」
どうやら壁は私の家を包囲するように立っている。
一番高いところはこの家の屋根より高いところにある。
私は勉強をする事を忘れて外に出ると、いくら残暑と言えど外は嫌な温度に包まれていた。
――そしてそこには灰色の壁が立ちはだかっていた。
■
「うわぁ……」
包囲と言う言葉以上にぴったりな言葉が見つからなかった。
私の家は灰色の壁に包囲されていた。徹底的に、逃げ出す隙も無く囲まれていた。
どう考えても誰かの悪戯と言うわけではなさそうだ。
そもそも何人の人間が集まれば一夜でこれだけの壁を築き上げる事が出来るのだろうか。
そしてそこには一体どんな意味があるのだろうか???
「それにしても暑いなぁ……」
暑かった。取りあえず家の中に入ってこれから一体どうすればいいか考えよう。
コップ一杯の水を飲む、少し落ち着いた。取りあえず今の状況を整理しよう。
壁は家を囲むようにある。
高さは10mと言った所か、私の家にそんなに高い脚立は無いので上からの脱出は不可能。
そう言えば倉庫にスコップがあったか。
しかし一体地下にも壁が続いていた場合、どこまで掘ればいいのか全く分からない。
となると誰かに助けを求めるしかない。私は取りあえず警察に電話してみた。
『はいもしもし、○○警察署です』
「あ、もしもし実は今家が壁に包囲されていまして」
『……はい??? 壁に包囲されているんですか???』
「はい」
『……住所を教えてください』
「~~~~~~~~~~~~です。出来れば急いでください」
私はゆっくり受話器を置いた。
こんな状況なのによくもここまで落ち着いていられる物だ。
何だか以前にもこういう事があったような……。
いや壁が現れたのは初めてなのだが。
なんだろう??? なにか引っかかる。
取りあえずやれる事はやった、私は再び宿題に取り掛かろうと勉強机に座った。
――暫く勉強していると電話が鳴る。
▲
「はいもしもし」
『○○警察署です。えー、貴方の住所は~~~~~~~~~~~~で間違いないですか???』
「はい。その通りですけど」
『……今そこに居るんですけどね……
ど う 見 て も 空 き 地 な ん で す よ 』
「……は???」
『いや、だからですね。貴方の言った通りの住所には空き地しかないんですよ。
もし悪戯なら少し度が過ぎてませんか???』
私はゆっくりと受話器を置いた。
なぜだ……??? 私のいるこの場所が空き地だと???
違う。違う違う違う違う違う!!!
私はここに居る!!! 私と言う存在はここに居る!!!
「あああああああああああああああああああああああああああああああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」
私は10分以上絶叫していたのかもしれない。喉の奥が焼けるように痛い。
このまま……このまま壁の外に出れなかったら私は一体どうなってしまうのだろう。
どうしようもない絶望感と不安。そして最悪の終末が頭によぎる。
怖い。怖い怖い怖い怖い。
何という理不尽。
もしかしたら私はこの時、18年の人生の中で始めて死を意識したのかもしれない。
昨日までは何気ない一日だった。
――何気ない一日過ぎたのかもしれない何か面白い事起きないかなくらい思っていた。
「……」
納得できない。
嫌なのはこの感覚。理解不能なままに、わけのわからないまま死ぬ事が嫌なのだ。
何としても抵抗してやりたい。死ぬなら、死に納得して死にたい。
それはつまり、この状況に答えを出すという事。
訳のわからないままじゃ嫌だ。種明かしして欲しい。
「キモチワルイ」
一体どの位時間が経っただろう。
それにしても心臓の音がなんと高く聞こえるのだろう。
今まで意識した事が無かっただけか。
死を意識した途端に心臓の音がドクンドクンと一定のリズムを刻む。
どうでもいいことばかり考えてしまう。
今まで積み上げてきた物とか将来なりたかった物だとか今となっては何の意味も持たない物。
そういう意味では私は世界から切り離されたのだ。
そして壁に閉じ込められた。
他人は外の世界で自由に生きている。
しかし自分には許されない。世界がじわじわ狭くなっていく。
――あ……
●
「!!!」
瞬間、電光が頭を走る。
思い出した。
そうだ。壁を意識した気持ちは前にも味わった事があった。
子供の頃、世界は無限に広いと感じていた。
将来なんだって出来るんだって思っていたし、何処にだっていけると信じて疑わなかった。
しかし大人になるにつれ、それがどうやら違っていたのに気がついた。
実際そんなに思うようには行かないのだ。
世界に限界を感じ始めた。
どうやらそこに“何か”あるのだ。
自分と世界の間を遮る何かが――越えられない壁が。
そうだ。確かに存在していたのだ。
人間は最初おぼろげに、やがて確実に壁の存在を認識していく。壁はある。
絶対的な壁が。出口は無い。
自分がそれを壁と認識した時点で突如目の前に現れる。
やがて人間は自分の出来ない事の多さに絶望する。
その時――その時初めて人間は壁に囲まれる。
自分の出来る事が無くなっていく……自分の世界が狭まっていく。
「ああ」
私は何か安心した。
私自身この考えが全世界の人間に理解されるなんて思っていない。
むしろ笑われるだろう。
これが事実だとか、これが真理だとか主張するつもりも無い。
完全な私の思いつきなのだから。
しかし、私は私なりに謎を解いて答えを出したのだ。
勿論壁に包囲された原因だとか理由だとか、そう言った事が解ったわけではない。
最初は理不尽だと思った。なぜ私が、なぜ私だけが。
違う。そもそも死なんてものは理不尽な物なのだ。
人間は病名とか死因とか、死の原因を知りたがる。
しかしそれを得られても救われる事は無い。
それを思えば私が得た「答え」は死因などよりはるかに価値があるといえる。
「 」
今生きている奴。
死の順番待ちをしている奴、せいぜい怯えるといい。
いつかくる。この絶望に。
見渡してみろ。壁があるはずだ、ないとは言わせない。
お前には見えているはずだ、壁の存在に気づいているはずだ。
見ないふりしたって無駄だ。
いつかお前が壁を意識した時、その途端に壁が姿を現す。
いつか――いつの日か――
ぼやけていた壁が――