第十話 『反転世界』
私は会社からの帰り道。奇妙な人間を見た。
その人間は歩いていた、横断歩道を歩いていた。
これだけ見れば当たり前のことなのだがその男の歩き方が奇妙だったのだ。
その男は後ろ向きに歩いていたのだ。
進行方向とは逆向きに向いてゆっくりと歩いていた。
それを見て私は昔、体育の時間にバック走という物をやったのを思い出した。
だが私はそれを普段の道で試したことは無かった。
勿論普通に前を向いて歩く方が早いし、何より周りから見たらただの変人だ。
だからあの人間は何を思って後ろ向きに歩いているのか不思議に思っていた。
帰宅してまず私はその事を嫁に話してみた。
「変わった人も居るものね」
娘が言う。
「そんな人に関わらない方がいいよ」
二人も驚いていた。当たり前だ。
私はその話を食卓でも使おうかと思っていたのだがその食卓でまた奇妙な事が起こったのだ。
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食卓は私、嫁、娘で囲む。
そして食べる前には『頂きます』
食べた後には『ご馳走様』
これが常識であり、我が家のルールである。
だけど
「ご馳走様」
そう言うと二人は箸を使って食事を食べ始めてしまった。
しかし私は余り気にならなかった。最初は普通に冗談かと思ったからだ。
ところが様子がおかしかった。まず箸を反対向きで使っていた。
私は何かおかしいと思い始める。そして食事を終えた二人は、
「頂きます」
そう言って席を立って、娘は自室に向かっていった。
私はさすがに笑ってしまう。
「あははは。二人して私を驚かそうとしているのか???」
「??? 何のこと???」
嫁は真剣な目で答える。私はこのときから異変に気が付いた。
娘はうがいをしてから歯を磨き、嫁は体をタオルで拭いてから風呂に入った。
寝る前には『おはよう』と言って眠りに落ちて、朝が来ると『お休み』と言って挨拶するようになったのだ。
私は二人の頭が可笑しくなってしまったのかと思い込んで、朝まで眠れずにそのことについて考え込む日々が続いていた。
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ある日の事、私は会社に行く道で異変に気が付いた。
人 々 は 皆 、 反 対 向 き に 歩 い て い た
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異変が起こっていたのは我が家だけではなかったようだ。
歩道では人々は後ろを向いては歩いていた。
しかし誰にもぶつからないし、周りの人も気にしている様子はそこには無かった。
その中を私は前向きに、普通に歩いて会社まで向かう。
「お疲れ様です」
「……あ……ああ」
仕事場ではそう言われて入社する社員まで現れた。
さらにテレビではニュースキャスターが報道を終えた後に『ニュースです』と告げる。
勿論、日常の挨拶は『さようなら』で始まり『こんにちは』で終わる。
これだけ可笑しい出来事が続くのに誰一人としてその異変に気づく者は居なかった。
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会社からの帰り道。そう言えば私が始めて異変に気が付いたのも会社からの帰り道だった気がする。
私はふと顔を上げる。もう私以外の全ての人間は後ろ向きに歩いていた。
それが日常だったように、それこそが真実だったように。
――私は考える。
「 日 常 と は 何 だ っ た か な ? ? ? 」
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日常。
今それが何なのかは全く解らなくなっていた。
全部が反転している訳ではないが、私にとってはやはりそれは可笑しかった。
そんな日常が続くにつれ、私の方が非日常であるような感覚が生まれ始めてきた。
何が日常なのだろう??? 何が非日常なのだろう???
誰が正しいのだろう。誰が間違っているのだろう。
……そうか……、そうだったのか。
今まで私が正しいと思っていたことが間違っていたのか。
彼らはそれに気が付いたのだ。
私はゆっくりと後ろを振り返る。
反転世界になってから数日。
気が付けば、私は後ろ向きに歩いていた。