田上昌平「異世界、か」
「はぁ、情けないな……」
隣りを歩く親友が、くたびれた様子でため息をついた。『情けない』とはこいつが使う自己嫌悪語彙の中で最上級だ。
「今更だろう。そもそも、楓にその方面で勝とうとすることに無理がある」
「昌平は諦めたんだろうけど、俺は諦めが付かない」
治樹の心中は複雑なようだが、現実を見ることにかけて楓の右に出る者はいない。物心つくころにはそうだったのだから、これからも変わらないだろう。無論、治樹の気持ちも分からないではない。大量失血で何日も生死の狭間を彷徨ったくせに考え事は冷静だし、恨み言の一つも言わない。楓を見ていると、己を顧みずにはいられないのだ。
怪我人を疲れさせてはいけないと、俺たちは楓の寝かされている家を離れた。そのまま西洋風の家々を縫って、舗装されていない小道を進む。恐ろしいことに、この道には慣れてしまった。
楓が担ぎ込まれたのはどうやら、俺と治樹に水をくれた少女・サラの家らしいが、家族らしき人影は見たことがない。サラは最初、俺たちと同じくらいの歳かと思ったのだが、西洋人風の顔立ちであることを考えると、もっと幼いのかもしれない。どちらにしろ、男二人は置いておけない。
あの日、楓の手当てが一段落したところで、俺が声をかけた村人に手招きされた。金髪の中年は、ざっと見渡した限り村で一番大きな屋敷に俺たちを泊め、服をくれた。俺の着ていたユニフォームでさえここでは悪目立ちするのだ。治樹の剣道着(血みどろ)は尚更目立ったので、ありがたかった。
楓の回復を待つ間、何もしなかったわけではない。様子見は交代でしながら、空いている方は村の労働(驚くことなかれ、水汲みや牛馬の世話だ)を手伝った。言葉の壁はあっても、身振りである程度は意思の疎通が図れるらしい。数日間の努力の結果、村人の俺たちを見る目は、今のところ大凡暖かい。しかし手伝えるのが単純な肉体労働ばかりで、楓は目を覚まさず、見知らぬ土地だ。疲れは溜まる一方だった。
それが頂点に達したのは、治樹があるものを発見した時だった。
ここに来て二日目の宵、サラが楓の包帯を変えるから出て行けというようなことを言ったので、俺たちは村長の家(と、勝手に呼んでいる)に戻った。しかし手持無沙汰だったので、納屋に箒があるのを見つけて履き掃除を始めた。手分けして俺は居間、治樹は書斎らしき部屋を担当したのだ。
「昌平、来い!」
居間の床を一通り履き終えた頃合いに、遠くで叫び声が聞こえた。日本語で叫ぶと聞く人に恐怖心を抱かせる危険性があるから諌めようと、埃を始末してから書斎に向かった。
本棚の立ち並ぶ書斎の中央には、重厚な机が置かれていた。その上に広げられた半畳ほどの紙を、治樹は食い入るように見詰めていたのだ。もはや意外でも何でもないが、羊皮紙だ。ぱっと見で分かる、地図が描かれている。ラグビーボールを細長くしていくつも並べたような形に書かれているところをみると、世界地図のようだ。
俺も思わず呟いた。
「……まさか架空の地図じゃないだろうにな」
日本列島がないのは、このさいどうでもいい。略されることもあるだろう。しかし、ユーラシア大陸もなければ南北アメリカ大陸も、アフリカもない。代わりにあるのが、見覚えのない形の大陸、島。
空想小説好きの村長が描いてみました、などといった趣ではない。おそらく村長は、例の金髪中年だ。レオンと名乗っていた。アメリカ映画で主演を張っていそうな男が、ファンタジー小説を元にこそこそ地図作成――あり得ないな。シュール過ぎる。
「壁に掛けてあった。この薄い線はおそらく、国境だ」
細かく書き込みがされていたが、読みようがない。仮名や漢字と違うのは当然にしろ、アルファベットともかけ離れた字なのだ。
こうなると、治樹の推理は速い。
「書き込みの量から察するに、この村は、この大陸のどこかだ。斜めがかった書体のを国名だとすると、この世界にも複数の言語があるんじゃないかな」
「何故そんなこと分かる」
「俺たちがあまり警戒されていないことからも考えたが、語尾の形だ。この地域、皆同じだろう?」
中東に『~スタン』が多いようなものか。しかしそうなると、改めて非現実的な現実が真に迫る。
「異世界、か」
「多分ね」
自分から言い出しておいて、治樹は『多分』と誤魔化した。他に言いようもないが。
もう読み取れることがなかったのか、あっても自信がなかったのか、治樹は沈黙した。
「では治樹、ここを異世界と仮定しよう。便宜上、“地球”は俺たちが元いた世界を指すことにする。こちらの世界は何と呼ぼうか」
「適当でいいだろう。世界に名前をつけるとか、大それたことはしたくない」
治樹はどういうわけか、目立つことを嫌う。文武両道の天才は放っておいても目立つが、その分そつのない言動で周囲に溶け込もうとする節があるのだ。
「了解。第一に、何故俺たちがここにいるのか」
「それが分かれば苦労しない。けれどこの状況自体は悪いものではないと思うよ。あのまま倉庫に取り残されていたら、仲良く死んでいたかもしれない。……楓の事は例外として」
「いや、あいつは大怪我をすることより、目の前で他人に死なれる方を気にする。俺たちとしては遣り切れないが、楓にとっては良かったんだよ」
これは自分への言い聞かせでもある。もしあの瞬間に戻れるとしたら、強引にでも立ち位置を変えただろう。だがこう思うのは既に、楓の強さを冒涜することだ。それを楓は何よりも嫌う。
「よく分かってるんだな」
「幼馴染だからな。本題に戻すが、こちらの世界の文明はどうだろう」
どうやらからかいたかったらしい治樹は話題を流してやると不満顔だが、考え事をする時の癖(左手で蟀谷を触る)を出して俺の質問に答えた。
「中世くらいだろうか。ここはヨーロッパのような街並み、人。でもこんな田舎にも本がたくさんあるし、朝から晩まで農作業をしてようやく暮らしが成り立つような生活には見えない」
「豊かと言っていいのか?」
「製紙・印刷技術や農耕技術が発達しているのかもしれないね。他国がどうなのかは分からないけれど」
「そういえば、本は活字だったな」
冷静に話し合う俺たちが行っていたのは実は、あるいは現実逃避に他ならなかったのかもしれない。日本に残してきた友人、家族、安定した暮らし、将来の見通し……すべてを考えないようにするための。
何はともあれ、楓の意識が戻ったのは喜ばしいことだ。頭がしっかりしているなら尚更良い。(同じ高校に進んだとはいえ、俺の賢さは治樹や楓とは隔たりがある。)勿論頼りきりになるつもりはないが、賢くて気心の知れた存在は心強い。多いほど良い。
治樹と横並びになったまま、村の中心にある井戸に向かった。水汲みは重労働だが、生活に欠かせない。しばらく世話になる以上、可能な限りは村人の手伝いをしたい。
道中で不意に、治樹が足を止めた。つられて俺も立ち止まる。
「昌平」
「なんだ?」
「死ぬなよ」
真剣な表情の治樹に、突然なんだとは茶化せなかった。
何の前触れもない世界移動。
閑静な森を歩いて突然現れた巨大狼。
言葉の通じない人々。
生死を彷徨った楓。
すべてが現実だ。右も左もわからないこの世界で、俺たちは生きていかなくてはならない。
(桜、死んだらすまない)
頼りにできるのはもはや、己と二人の友人だけだった。