井上治樹「何故楓はこうも冷静なんだ」
当小説は、“途中から”ほのぼのします。
どうも、井上治樹です。
俺のおかれた状況を整理してみようと思います。
酷い頭痛と眩暈を感じながら目を覚ますと、何故か涼しげな格好の楓がセーラー服を木に干していた。
木です。ハンガーでも物干し竿でもなく、立派な樹木です。
見渡すと、RPGにでも出てきそうな森だった。草原も見える。隣で危ない顔色の親友がぶっ倒れているのも確認できた。
楓にここはどこかと尋ねたら、真顔で「知らん」と一蹴された。何故楓はこうも冷静なんだ。
俺たち三人は、高校の運動場の端っこにある狭苦しい木造の体育倉庫(木造にしては丈夫で、熱気が大変こもる)に閉じ込められて、死にたくないから知恵を出し合っていた。
位置的に誰も助けてくれないと分かりつつ、三人で叫んでみた。やっぱり無駄だった。
三人とも意識が朦朧とし始めたから、一人でも生かそうと楓にスポーツドリンクを飲ませたのは覚えている。楓は恐ろしい目つきで拒否したが、楓に飲ませる理由を理論的に説明したら引き下がった。
脱出口を探した昌平がくたびれて、「限界だ」と呟いたのも記憶にある。
で、なんでこんな爽やか極まりない空間にいるのでしょうか。
天国にしては日差しが厳しいです。気候も学校とあまり変わりません。
飲料なしで動き回った結果重症になった親友も、なんとか目を覚ました。
ここがどこなのかはまったく分からないが、とりあえず皆生きている。
「昌平、大丈夫か?」
「まあな」
昌平は強がりだが、いざというときはちゃんと人に助けを求める。今のところは心配ないだろう。それともう一人……。
「楓は?」
「私は無理と努力はしない主義だ。大丈夫でなければ君たちを見捨てて川に浸かっている」
「はは、酷いな。」
「知らなかったのか?」
飄々として冗談を飛ばすが、こっちは無理も努力も人一倍する人間だ。介抱してもらった分際でなんだけど、注意しておこう。
さあ、次に進もう。ここがどこなのかは分からないが、水以外すべてに困りそうなのは確かだ。
昌平は俺より疲れているし、楓は眼鏡をTシャツの裾で拭きながら欠伸をしている。じゃあ、俺が仕切るとするか。
「ひとまず、状況を整理しておこう。現実的に考えて、俺たちは倒れている間に誰かに連れ出されたんだよな?」
昌平が頷いて、
「その誰か……複数だと思うが、放っておけば危ないってのは分かってたはずだ。炎天下に置き去りにしやがって……」
と文句を言った。
楓は解せない表情だ。
「私は起きてすぐにかなり動けた。熱中症で倒れたとは思えない」
では、楓は眠らされたのか?
謎は深まるばかりだ。
さて、こんなときに打開案を出してくれるのは、大抵昌平だ。電解質が不足しているところ申し訳ないが、名案を期待しよう。
楓も同じことを思ったらしい、二人して昌平を期待顔で見ることになった。
「……木に登って、周りの状況を確認したらどうだ?」
流石、期待を裏切らない男だ。
相談した結果、一番体力に余裕のある楓に木登りを任せることにした。男として情けないと言えば情けないけれど。
当の楓は男心の機微なんて欠片も分からないから、キョトンとした顔で俺たちを見ている。
「体力の余裕も然る事ながら、私はこの中で最も体重が軽いだろう? 木の先端部まで登れるぞ」
あ、左様で御座いますか。
楓は木登りが上手かった。そこらの悪餓鬼よりもさっさと木の頂上近くまで登りきって、周囲をキョロキョロ見渡している。
その間に、こっちはこっちで確認作業と行こう。
「昌平、どれくらい歩けそうだ?」
昌平は少し考え込んだ。
「分からない」
そう言えば、熱中症で意識を失ったときは、救急車を呼べと言われた記憶がある。水を飲ませたくらいで意識を取り戻して、多分正常に考え事のできている俺たちは、本当に熱中症で倒れたのだろうか。楓共々眠らされただけなのでは――
「向こうの方に、村らしきものが見えた」
いつの間にやら、楓が下りて来ていた。『向こうの方』とアバウトに言って指差した方向は森の奥だ。森の反対側、ということだろうか。
「どう行くのが楽そう?」
「さっきの小川沿いに行くのがいいと思う。村まで迷わない上に、日陰だ」
「じゃあそうしよう。ここが安全かどうか分からないから急ぎたいけど、昌平、いけるか?」
「ああ」
で、川沿いをゆっくり進んで、楓の時計で三十分くらい経った。歩いているうちに昌平もしゃんとしてきたから、やっぱり重度の熱中症ではなかったのかもしれない。
行く先に不安がなかったわけではないが、アウトドア派の昌平と楓は自然散策を楽しんでいるようにも見えたし、俺もそこそこ楽しく思っていた。その時までは。
突然、辺り一帯が静まり返った。鳥のさえずりはおろか、虫の声も聞こえない。
いつの間にか先頭になっていた昌平が足を止めたので、楓も警戒した表情で昌平とは別の方向を向いて立ち止まった。俺はその雰囲気に飲まれただけだが、小声で昌平に、
「何が起こっている?」
と尋ねてみた。昌平は答えずに、人差し指を唇に当てた。静かに、と言いたいらしい。そこで、俺も昌平や楓と背中合わせになって前方に意識を向けた。
人間にも、危険を察知する本能はあるらしい。俺はその時何も考えずに竹刀を構えた。後で分かったのだが、昌平はバットを同じようにしていたらしい。楓はポケットに入れていた自宅の鍵(旧家なので鍵が大きい)を握ったらしい。それを武器にしようと思える発想は、どこから湧いてきたのだろうか。
そのときの立ち位置を俺と昌平は後悔し続けることになるが、この段階では当然そんなことは分からなかった。
ガサ、と叢が揺れたのは、楓の正面だった。楓は小川に完全に背を向けていたのだ。そして、叢から飛び出したその影に、俺たちは驚いた。
パッと見、狼のようだったが、よくもまあ叢に隠れられたものだと感心するほど大柄だ。虎くらいはある。その上、目が赤い。それに、口元が狂犬病のように泡だらけだ。
犬がそうするのと同じように狼は姿勢を低くし、俺が危ないと気付いた瞬間には楓に飛び掛っていた。
楓は気付いたが彼女の左右には俺と昌平、横にはかわせない。腕を交差して顔を守ることしかできなかった楓の痩身は、あっさり倒されてしまった。
確か、俺も昌平も意味を成さない叫び声を上げて狼に攻撃した。しかし、俺が全力で振り下ろした竹刀は狼の頭頂部を正確に捉えたのに、まったく効果がなかった。昌平の金属バットもだ。
狼は楓の肩口に噛み付いた。楓の悲鳴。白いTシャツに、血痕が広がる。
楓を咥えたまま、狼は森の奥に消えようとしていた。鈍器で殴りつけてくる二人の人間など、完全に無視して。
俺たちは狂ったみたいに武器を振り回していたのだが、とうとう竹刀は折れ、バットは手から離れた。
「楓ッ!」
「来るな!」
素手で追いすがろうとした昌平に対する強い叱責は、楓のものだ。昌平は思わず動きを止めた。
狼は楓を咥えたまま後ろ向きに歩こうとしている。茂みまで戻るつもりだ。
「治樹、昌を連れて逃げて!」
ここ数十分で何度も思ったことだが、情けない。一番正気に近かったのは、狼に咥えられた楓だった。そしてその声が不意に、俺を冷静にさせた。
武器が通用しないなら、人間は知恵を使うだけだ。
狼相手に力技ではどうしようもない。さあ思い出せ、目の前にいる巨大な狼を倒す方法を。
骨格は犬と同じようなものだろう。どこかで聞いたことはなかっただろうか、犬の弱点を。
閃いた。
「昌平、狼の前足を横に引けッ!」
幸か不幸か、いや不幸に違いないのだが、楓の存在が狼に前足を使い難くさせていた。爪に狙われる心配は少ない。
昌平は俺の意図を分からなかったらしいが、分からないなりに素早い行動を見せてくれた。二手に分かれてそれぞれが、左右の前足を外側に引っ張る。
犬の前足は外側には向かない。狼とてそうだろう。
脱臼させるのだ。
やはり犬と大して変わらない、キャンという鳴き声をあげると、狼は楓を放した。そのときの感触だとか、狼の様子だとかは覚えていない。ただ、楓を抱えて全力で逃げた。昌平が先導するのに従って、川の上流へ、上流へと。
腕の中でぐったりする友人に、生きていてくれと願いながら。