振り返らないと決めた朝に、私を育てた人が最後まで見送っていた
夜明けの鐘は、城壁の向こうから低く響いた。
リュカは高い天井を見上げたまま、しばらく動けずにいた。厚い石壁に囲まれた客室は、いつもと同じ静けさに満ちている。磨かれた床、重たいカーテン、壁に掛けられた古い軍旗。どれも見慣れているはずなのに、今朝に限っては、少しだけ距離のある景色に見えた。
ベッド脇の椅子に、荷物をまとめてある。
剣。替えのシャツ。手入れ用の布。
そして、首から下げた小さなネックレス。
この屋敷に似合うほど立派な持ち物ではない。けれど、これ以上は必要ないと、あの人は言った。
窓を開けると、眼下に中庭が広がる。すでに騎士たちが訓練の準備をしていた。鎧の擦れる音、短い号令、整えられていく隊列。ここは帝国騎士団の拠点であり、ローゼンの城でもある。
帝国騎士団団長。
戦争で名を馳せ、伯爵位を与えられた英雄。
その肩書きと、この静かな朝の空気は、どうにも噛み合わない。
背後で、扉がノックされる音がした。
「起きているか」
短い声。振り返ると、ローゼンが立っていた。軍装ではないが、背筋はいつも通りまっすぐで、無駄のない佇まいは変わらない。
「はい」
部屋に入り、荷物を見ると、彼は小さくうなずいた。
「それで十分だ。学院に持っていくものは多くなくていい」
食堂は、広すぎるほど広かった。長い卓の端と端に座ると、言葉がなくても不自然ではない距離になる。
朝食は質素だった。黒パンと、薄いスープ。それだけだ。
祝勝の席では豪奢な料理が並ぶこともあるが、普段の朝はいつもこうだ。こちらの方が、ローゼンらしいとリュカは思う。
どこからか、使用人たちの話し声が聞こえてくる。
「……剣を持つなら、せめて男でなければな」
「魔法も使えないなら、前に出るべきじゃないさ」
この国では、そういう考え方が当たり前のように流れている。
ローゼンは何も言わない。ただ、食器を置いてから、静かに言った。
「この国は、強い者にしか居場所を与えない。だが……強さは、剣の重さだけで決まるものじゃない。戻ってこられて、初めて一人前だ」
それは命令というより、事実を確かめるような口調だった。
食事を終えると、ローゼンは立ち上がり、特に言葉もなく歩き出した。リュカはそれに続く。ここでの朝は、いつもこうして始まる。
長い廊下を抜け、天井の高い回廊に出る。壁には歴代の騎士団長の肖像画が並び、窓から差し込む光が石の床を淡く照らしていた。何度も通った道だ。靴音の響き方まで、もう覚えている。
中庭へ続く扉を押し開けると、ひんやりとした外気が頬に触れた。騎士たちの訓練の声が、少し近くなる。
リュカは、無意識のうちに歩幅を調整する。ここを歩く速度、扉を開ける順番、剣を手に取るタイミング。どれも、何年も繰り返してきた動きだった。
最初に剣を握った日のことは、もうはっきりとは思い出せない。ただ、気がつけば、毎朝こうして向かい合っていた。
裏庭の訓練場は、城の規模に比べれば小さい。だが、石畳には無数の傷が残っていて、ここで積み重ねてきた時間の長さを物語っている。
ローゼンはいつもの位置に立ち、リュカを見る。
「始めるぞ」
その一言で、リュカは自然と剣を構えた。
何度も、何度も繰り返してきた動き。
肩が下がれば直され、踏み込みが甘ければ言葉が飛ぶ。
「肩が開いている」
軽く刃の軌道を正される。
「前に出すぎるな。無理に攻めるな」
短い言葉。正確な動き。
それはいつも通りで、そして――今日で最後だった。
しばらくして、ローゼンは一歩引いた。
「……もう、俺が横にいなくてもいいな」
その声は、城の石壁に吸い込まれるように静かだった。
リュカは剣を下ろし、少しだけ考えてから言った。
「今まで、ありがとうございました」
ローゼンは何か言いかけて、やめた。その視線が、リュカの胸元に落ちる。ネックレスに、ほんの一瞬。
「……それは、大切なものだ。失くすな」
「はい」
彼は、どこか遠いものを見るような目をしていた。
城門へ向かう道は、朝の光で白く照らされていた。
中庭から外郭へ抜ける回廊を進むと、門番たちが敬礼する。ローゼンは軽くうなずくだけで歩みを止めない。その背中は、何度も戦場を越えてきた人のそれだった。けれど今日は、鎧を着ていない。いつもの黒い外套だけが、肩に掛かっている。
城門の前には、学院へ向かう馬車が一台、すでに待っていた。御者が手綱を整え、荷を積み直している。
リュカは、歩幅を合わせるようにして、ローゼンの半歩後ろを歩いた。訓練場へ向かうときと同じ距離。いつもの位置。変わらないはずの並びなのに、門の影が近づくにつれて、足元が少しだけ重くなる。
門前で、二人は立ち止まった。
ローゼンは周囲を一度だけ見渡し、それからリュカを見る。いつもより、少しだけ視線が長かった。
「……馬車に乗ったら、振り返るな。行くと決めたなら、歩き続けろ。余計なことは考えなくていい」
それは命令というより、背中を押すための言葉に聞こえた。
リュカはうなずいた。
「はい」
ローゼンは、少しだけ言葉を探すように黙ってから、続ける。
「この国は、強い者にしか居場所を与えない。だが……強さは、剣の重さだけで決まるものじゃない。戻ってこられて、初めて一人前だ」
リュカは、その意味をすべて理解できたわけではなかった。それでも、頷くことはできた。
「生きて、帰ってきます」
ローゼンは一瞬、何か言いかけるように口を開いた。けれど、結局それ以上は言わなかった。代わりに、リュカの胸元へ視線が落ちる。ネックレスに、ほんの一瞬。
「……それは、失くすな」
訓練場でも、同じことを言われた。
リュカは、もう一度だけうなずいた。
「大切にします」
御者が、控えめに咳払いをする。出発の合図だ。
リュカは一歩下がり、門の外へ向かう。馬車の踏み台に足をかける前に、少しだけ迷ってから、振り返らずに乗り込んだ。
扉が閉まる音がする。
馬車が動き出す。石畳を叩く音が、一定のリズムで遠ざかっていく。
リュカは、言われた通り、振り返らなかった。
城門の前で、ローゼンはしばらくその場に立っていた。外套の裾が、朝の風にわずかに揺れる。
――あのネックレスは、よく似ている。
昔、確かに、あの人に贈ったものと。
同じではない。そう思っている。思っているはずだ。形も、細工も、細部を見れば違う。それでも、なぜか目が離れない。
「……本当によく、似ている」
独り言のように呟いてから、ローゼンは視線を落とした。
戦場では、何度も選択をしてきた。誰を前に出し、誰を下げ、どこで踏みとどまるか。
けれど、この十年で選び続けてきたのは、ただひとつだけだった。
――生きろ。
剣を持て。
魔法がなくても、前に立て。
誰かのためじゃない。自分のために、立っていろ。
門の向こうで、馬車の音はもう聞こえない。
ローゼンは、ゆっくりと踵を返した。
そして彼は、まだ知らない。
あのネックレスを身につけて城を出ていった少年が、
かつて自分が愛した人の――そして、自分の娘であることを。




