第9話 言葉のかけら
「じゃあ、行ってきます」
いつも通り、紺色の制服を身に纏ったイファがドアノブに手をかけると、「あ、そうだ!」と言って振り返った。
「昨日、エディン家からたくさんの本が図書館に寄贈されたんだよ。その搬入を手伝ったんだけど、かなり古い貴重な本もたくさんあるみたいでさ。今日は天気もいいし、散歩がてら、行ってみたらどう?」
マリナは、ぱんっと手を叩き、ふわりとリアに笑いかけた。
「あら、それはいいわね。本はね、わたしたちにたくさんのことを教えてくれるわ。わからないことを調べることだって、遠い異国の文化や歴史に触れることだってね」
陽が頭のてっぺんを少し過ぎた頃、リアは町の中心へと続く石畳の道を歩いていた。
雲ひとつない青空は遠く、時折吹く風はやさしく街の屋根をなでる。
やがて町の中心にある大きな円形の建物にたどり着く。
扉をくぐると、吹き抜けの天井からは淡い光が降り注ぎ、静謐な空気と本のインクの香りが出迎えた。
静かで、どこか神聖な雰囲気。
棚にはずらりと本が並ぶ。
リアは、何を手にとっていいのかわからず、そっと本棚の間を歩いた。
すると、“雨のあとには、ありがとうが咲く”と書かれた本が目に入った。
雨に濡れた傘をさす女性と、虹が描かれた綺麗な表紙の本だった。
──ありがとう…
最近、イファやマリナからよく言われるこの言葉。
それにどう返したらいいのか、リアにはまだわからなかった。
言われるたび、胸がきゅっとする。
なにか大切なものを渡された気がして。
──本はね、わたしたちにたくさんのことを教えてくれるわ。わからないことを調べることだって、遠い異国の文化や歴史に触れることだってね──
マリナの声を思い出しながら、リアは書架を歩く。
「……言葉辞典、かな……」
ふと一冊の本を手に取ったとき、
「それ、語源の本よ。意味を調べるなら、こっちの方がいいわ」と、背後から落ち着いた声がした。
振り返ると、胸元に栞を差した厚い本を抱えた少女が立っていた。
艶のある長い黒い髪は、彼女の知的な雰囲気を際立たせる。
綺麗な顔立ちにはまだどことなく幼さが残り、リアよりも少し年下に見えた。
「……ありがとう。」
リアは反射的に言った。
そして、その言葉に自分で「はっ」とした。
少女はリアをじっと見て、唇の端だけで笑う。
「どういたしまして。……あなた、名前は?」
「リア、です。……あなたは?」
「ミナ・クローデル。ここの常連みたいなものよ。見ない顔だと思った」
リアは、ミナが差し出してくれた辞書を手に取る。
「“ありがとう”って、なんですか?」
「ありがとう?……ずいぶん、根本からきたわね」
ミナは興味深そうにつぶやく。
「辞書的には、“感謝の意を伝える言葉”だけど……たぶん、あなたが知りたいのは、それ以上の意味よね」
リアは黙って頷いた。
ミナは唇を噛み、少し考えてから、静かに言った。
「ありがとうって、簡単な言葉だけど、実はすごく深いのよ。“有り難い”──つまり、あるのが難しいほど貴重なことに心を動かされて、それを伝える言葉」
「……貴重なこと、ですか。」
「えぇ。誰かがしてくれた小さなことでも、それに気づいて、感謝できるって、思考や感情が豊かな人間だからこそよね」
リアはその言葉をゆっくりと飲み込んだ。
「……ありがとう、って言われたら、どうしたらいいんでしょうか?」
ミナはくすっと笑った。
「気になるなら、ありがとうってあなたに言う本人に聞いてみたら? 素直に、どうしてありがとうって言ってくれるのか、聞いてみるの。あなたの疑問って、きっとその人にとっても大事な問いだと思うから」
リアは、微かに首を傾げた。
「……直接、聞いてもいいのですか?」
「もちろんよ」
しばらく考え込んだリアは隣で本棚をじっと吟味するミナに向き直る。
「ミナさん。」
「なに?」
「……教えてくれて、ありがとう、ございます。」
ミナはふふっと笑った。
「どういたしまして、リア。言葉ってね、生きるための道具よ。人を傷つけもするけど、人をつなぐこともできる。生きるってつまり、誰かと関わることだもの。“ありがとう”は、その最初の一歩かもしれないわね」
ミナはまた、唇の端だけで笑う。
図書館を出たとき、空はさらに青さを増していた。
それはまるで、“知ること”がリアの世界を少しだけ鮮やかに変えてくれたようだった。
家に戻ると、マリナは木のロッキングチェアに座っていた。
お気に入りの椅子だ。
「戻りました。」
「おかえりなさい。今日はとても天気がいいわね」
「……マリナさんは、どうして、いつも私に“ありがとう”と言うのですか?」
マリナはロッキングチェアから身体を起こし、やさしく笑った。
「そうね……たとえば、リアが何かをしてくれたとき、私の心が“嬉しい”って思ったの。それを伝えたくて、“ありがとう”って言うのよ」
「……嬉しい?」
「ええ。リアが朝のお皿を運んでくれること、自分から洗い物をしてくれること。それだけで、私は一日のはじまりが、もっと幸せなものになるの」
「……でも、わたしは……特別なことをしたわけではないのです。」
マリナは春のやわらかな光の中にいた。
「大切なのは、特別かどうかじゃないの。気持ちがあるかどうか。ありがとうっていうのは、あなたのしたことが、私にとって大切だったって伝える魔法の言葉なのよ」
マリナは笑う。リアは、じっとその顔を見つめた。
「……では、ありがとうと言われた時は、どうしたらいいのでしょうか。」
マリナは、手を顎にそっと添えて微笑んだ。
「どういたしましてって返すのが素敵かしら…でも、言葉に迷ったら、こう思って。私は、誰かの役に立てたんだって。そう思えるだけで、心があたたかくなるわ。そしたら、自然と言葉も浮かんでくるかもしれない」
リアは、しばらく黙ったまま、ふと自分の胸に手を当てた。
「……はい。……わたしも、そう思えるように、なりたいです。」
マリナは、そっとリアの肩に手を添えた。
「それでいいの。少しずつ、覚えていけばいいのよ」
リアは、手に入れた言葉のかけらを大切に胸にしまった。
ありがとう。
言葉がすっと胸に落ちてくる。
瑠璃色の瞳がキラキラと輝く。
でも、
今はまだ、
少しだけ。




