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第8話 うまくいかない日




しとしとと雨が降る中、今日もリアは早く起きると、出勤前のイファにコーヒーを淹れていた。


それが最近のリアの日課になっていた。




ゆっくり、丁寧に。


豆が息をするように。




教えてもらったことを、ひとつ、ひとつ大切にして。






「いい香りだな」と言って起きてきたイファはまだ眠そうだった。


イファは、コーヒーの香り目一杯吸い込んで、全身に巡らせる。


雨の香りを紛らわすように。




そして、ひとくち。




「…どう、でしょうか?」




「うん。おいしい」




イファは、ふにゃっと笑う。




「…教えてもらった通りにやっているのですが。」




「まぁ、ちょっと苦い、な! けど、うまい」




「まだ、できません。」




「うまくなってるよ」




「……そう、でしょうか。」




「いつもありがとな、リア」




「……。」






朝食を済ませ、彼が仕事へ行くと、食卓に置かれている空のお皿を手に取り、台所へと運ぶ。


これも、リアの朝の決まりごとだった。




「いつもありがとうね、リア」




「……。」





──イファもマリナも、私にありがとう、と言う。





耳に馴染みはじめたその言葉は、どこかあたたかくて、柔らかい。


けれど今はまだ、指先ですくえない。


どう返せばいいのかも、どんな顔をすればいいのかもわからないまま、リアはただ、その音を胸の奥にそっとしまっていた。






袖を少しだけまくり、慣れた手つきで蛇口をひねった。


水が流れ出す。泡を立てて、お皿を一枚一枚、洗っていく。





そのとき。







カシャンッ






リアの手元から、つるりと滑ったお皿がシンクの底で割れた。


水が流れる音だけが、ひどく大きく耳に響いた。




リアは、目を見開いたまま、割れた陶器のかけらをじっと見つめる。


マリナは、ゆっくりとリアに近づき、やわらかな声で言った。





「怪我はない?」




「……はい。」




「よかったわ。リア、お手伝いしてくれて、ありがとう」




「……でも、割ってしまいました。」




「ええ、割れてしまったわね」




マリナは、優しく包み込むようにリアの手を取った。




「割れてしまったのは、リアがお皿を洗おうとしてくれたからよ。失敗するということは、挑戦したという証拠なの」




リアは黙ったまま、マリナの言葉を聞いていた。




「あなたがここに来たばかりの頃は、何も言わずに部屋の隅でただ立っているだけだったわ。あの時と比べたら、あなたはいま、こうして自分から動こうとしてくれている。私は、それだけで本当に嬉しいの」




リアの指先がわずかに震えた。




「前にパンを作った時も、うまくできなかったって言っていたわね。でも、それでも自分の手で作って、食べて、誰かと笑い合えた。それは、とてもすごいことなのよ」




マリナはそう言って、優しくリアの髪を撫でる。




「失敗を恐れる必要はないわ。割ってしまった、それが“わかった”ということは、次は気をつけられるってこと。それはもう、半分は成功していることとおなじ」




「……失敗が、成功……ですか?」




「そう。全ての経験があなたを豊かにしてくれる。人ってね、完璧じゃないの。だから、支え合って生きてるのよ」




マリナはふふ、と笑って続けた。




「だから、もし今度、私が何か失敗しちゃったら…そのときは、リアが助けてくれる?」




リアには、戸惑いながら、ちいさく、ほんの少しだけ、頷いた。




「……はい。」




「ありがとう、リア」




マリナの笑顔は、春の光のように柔らかかった。







やがて、外の雨は静かにやみ、足元の水たまりには青空がうつりこんでいる。


リアは、この春の光をそっと胸に刻むように空を仰いだ。








森では雨宿りをしていた鳥たちが羽ばたく。





「ピッ……ピッ……ピッ……ピッ……」





雨上がりの森の中に佇む、奇妙な物体。


ちょうど人が入れそうな大きさのそれは、白く光る外殻に覆われ、まるで繭のよう。


中心には淡く脈打つ青白い光が灯り、周囲を細い黒のリングが無音でゆるやかに回転している。





雨上がりの静かな森の中、


規則的な電子音とともに


一人の男の声が溶けて消えてゆく。





「もう少しだ……」







リアの胸の奥に、また、小さな光がそっと灯った。

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