第62話 祈り
空を裂くように汽笛が響いた。
アーゼル共和国を北から南へつなぐ列車が、ゆっくりと駅に姿を現す。
ノースフィアの外れにある小さな駅から、イファは朝一番の列車に乗っていた。
あの時はまだなかった列車の車窓から見える風景は、
どこか懐かしく、けれど確かに変わっていた。
見捨てられた街と呼ばれていたアルメリアには、
折れていた街灯の跡に、新しいランプが灯っていた。
人々が暮らしていた住宅街は、まだ多くが更地のままだが、
それでも風に揺れる草花が根を張り、小さな工房や食堂がぽつりぽつりと開店していた。
「……少しずつでも、戻ってきてるんだな」
列車の窓際で、イファは目を細めた。
アルメリアにも人は戻り始めている。
けれど、再生には、想いだけでは届かない現実がある。
すでに他の土地で生活の拠点を得た者たちにとって、元の場所は思い出の中で静かに眠るだけの存在になっていた。
しばらく列車に揺れると、線路の先にはあの町が見えてきた。
列車は静かに減速し、終着駅──ノアレに到着した。
町の広場は、あの日と変わらず静かだった。
整備された石畳には、今では祈念碑が据えられていた。
かつてルクシミウムの実験場となり、すべてが失われたこの場所が、
今では人々の記憶と祈りの場となっていた。
イファは、ゆっくりとその中心に歩み寄る。
手には、白い花束。
あの日、光とともに消えた少女──リアへ捧げるためのものだった。
「……リア」
花を添えて、イファはポケットに手を伸ばす。
そこにあった、二つの小さなもの。
ひとつは、毛糸で編まれた小さなお守り。
もうひとつは、白いアネモネで飾られた栞だった。
「……あの時、渡せなかったんだ」
小さく、独り言のように呟く。
「今日なら……ちゃんと、渡せる気がして」
毛糸のお守りを、そっと祈念碑の前に置く。
「これは、俺の母さんからだ。無事に帰ってきて、って……」
一瞬、言葉に詰まり、それから、静かに続けた。
「……でも今は、
リアの祈りが、ちゃんと世界に届きますように、って」
続いて、アネモネの栞を添える。
「こっちは、ミナからだよ。言葉にできないなら、形にすればいいって……」
白い花が、風に揺れた。
「……ちゃんと、届いてるよ」
それは、誰に向けた言葉だったのか。
リアに。
町に。
それとも、自分自身に。
イファは、深く息を吸った。
風が吹き抜ける。
そのときだった。
「いつも、背後から現れますね。あなたは」
足音がする方へ振り返ると、一人の男が立っていた。
「……久しぶりですね」
少し痩せたようにも見える男の姿。
セリオ・ヴァイス。
かつてリアを兵器として扱った男。
サンティスを殺し、ノアレを沈黙の町へと変えた男──
イファはセリオの前にただ静かに立っていた。
セリオの手にも、綺麗な深い青色の花が握られていた。
「今日、ここであなたに会えると思っていました。……償いという言葉は、あまり好きではないのですがね。それでも、少しでも彼女や……彼の意志を継いでいけたらと、今は思っています」
「サンティス博士の……?」
セリオは頷いた。
「私は今、ルクシミウムの“癒し”の力を研究しています。ここであの子が見せてくれた希望。サンティスが信じていた可能性……今の私には、それだけが救いなのかもしれません」
風に、遠くの鐘の音が重なる。
イファは目を伏せ、ゆっくりとアネモネの花束を地に置いた。
「リアは、あなたを恨んでいなかった。ただ……選びたかったんです。自分の人生を、自分の意思で」
「……わかっています。いや、今だから、わかります」
セリオはイファの隣に腰を下ろし、リアの瞳と同じ色の花束をそっと添えた。
「……また、来ます」
そう言って、セリオはイファに背を向けた。
真っ青な青空の下で、彼の背に揺れる薄いコートが、風に翻る。
イファはその背中を見送っていた。
ふと、イファはポケットの中のぬくもりに気づき、小さなコアの欠片を取り出した。数年前、リアが消えたあの日に手の内に残されたものだった。
「リア……会いたいな……」
その瞬間、コアの欠片が、
そっと共鳴するように、青白い光を放った。
「……え?」
イファが顔を上げる。
祈念碑のそばに、もう一つの小さな欠片が転がっていた。
あの日、リアがいた場所だ。
その破片が、静かに──呼応するように輝き出した。
イファが駆け寄り、そっと手を伸ばす。
その欠片がイファの手に触れた時、光がイファの身体中に流れ込む。
記憶が、心が、まるで川の水のように。
──リアの記憶。想い。託された言葉。
胸の奥に、やさしく染み込んでくる。
『……イファ』
リアの声が、聞こえた気がした。
『──ねえ、イファ。この決断をした時、
本当はね、まだちょっと怖かったんだ。
でも、イファがそばにいてくれた。
強く、抱きしめてくれた。
だから、一人じゃないって思えたの。
マリナさんのあたたかな声。
カイさんの頼もしい背中。
ミナと笑ったあの日。
リゼットが焼くオルレアンの香り。
わたしは、あなたに言えなかったことが、まだたくさんある。
アネモネの花をくれたこと。星空を眺めた夜のこと。
わたしの世界には、あなたと過ごした日々があった。
それは、記録にも残らない、でも確かにそこにあった時間。
このままコアに消費されたとしても、
私が光になったとしても、誰にも奪われない、
わたしの宝物。
たくさんの“初めて”をくれたあなたへ──
わたしは、自分の人生を、選べたよ。
誰かのために命を捧げるんじゃなくて、
わたしの心で、わたしの意志で、生きて、終わらせることができた。
それが、何よりの希望だったの』
イファは静かに、目を閉じてその声を受け止めていた。
リアの言葉は、まるで祈りのように、胸へ降り積もっていく。
『──世界は、すぐには変わらない。
けれど、あなたが誰かに伝えてくれるなら、
わたしたちが灯した光が、誰かの明日を照らせるかもしれない。
ねえ、イファ。
わたしは、ここにいた。この世界で、たしかに生きた。
だからあなたにも、生きてほしい。
泣きながらでも、迷いながらでもいい。
あなたの光で、誰かの道を照らして。
きっと、光は小さくても、輝き続けるから』
光がふっと途切れ、コアは静かに沈黙した。
イファは、その欠片を握り締め、空を仰いだ。
──その声は、涙のようにやさしかった。
──その言葉は、光のようにあたたかかった。
頬にひとしずくの涙が伝う。
かつて、リアという少女がイファに伝えたかった想い。
そしてこの世界に残した、最後の祈り。
それは、時を越えて届いた、ひとひらの願い。
これが奇跡でなければ、なんだというのだろう。
イファは、そっと目を閉じた。
あの声が、たしかに自分に届いたこと。
それこそが、リアという存在の証だった。
リアが残した想いは、今も、誰かの中で生きている。
「リア、ありがとう」
白いアネモネの花が風に揺れるノアレの町で、
イファは一歩、踏み出した。
風が吹き抜けた。
空は、どこまでも澄んでいた。




