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第5話 名前のない気持ち

朝の光が、そっと背伸びをする。

瑠璃色の瞳に世界がうつる。


町はいつも通りの朝を迎える。



今日も、イファは早くに仕事へ出かけ、家の中にはリアとマリナの二人だけ。


穏やかで、静かな時間が流れていた。


台所では、朝食で使ったお皿たちが泡に包まれている。

マリナの手元を見ながら、リアも一緒に洗っていた。

洗い物の音が家の中で心地よく響いていた。


食卓の上、小さな小瓶に差された白い花は昨日と変わらず、強く咲いていた。



「リアは、お花は好き?」


マリナが優しく問いかけた。

リアは、手を止め、飾られている花をじっと見つめた。少しの間をおいて、静かに口を開く。


「……わかりません。でも、綺麗だと思います。」


ふふっと笑うマリナの横で、リアは続ける。


「イファが、おつかいを頑張ったから、と言って、私にくれました。喜ぶと思うから、とも……。でも、私はたぶん、うまく、喜べませんでした。」


その言葉は淡々としていたけれど、どこか自分を責めるような響きがあった。

マリナは、ひとつ呼吸を置いて、穏やかに話し始める。


「人はね、誰かに"嬉しいな"とか、"喜んでほしいな"って思って、何かをすることがあるわ。でも……誰かに何かをしてあげた時にね、お返しをしてほしいわけではないのよ」


リアは静かに、マリナの言葉を聞いていた。


「イファはね、頑張っているあなたの姿を見て、お花をあげたいと思ったの。ただ、それだけ。あなたに何かをしてほしかったわけでも、あなたがどうしても何かをしなければいけないわけでもないわ」


マリナは布巾で手を拭きながら、続けた。


「リアが、うまく喜べなかったっていうのは、きっとイファに申し訳ないって思ってるからね。でもね、それでいいのよ」


「……期待されていたことを、うまく、できなくてもいいのでしょうか?」


「もちろんよ」


マリナは、ふふっと、少女のようにいたずらっぽく笑って言った。


「でも、もし少しでも、"嬉しい"とか、"綺麗"って思ったのなら……その気持ちを、リアの言葉で、イファに伝えてあげて。言葉にしないと、人には伝わらないから……。ね?」


マリナは、リアがわかるように、ゆっくり、丁寧に伝えた。

そんな優しい言葉に、リアはじっと耳を傾けていた。


「イファは……きっと、リアの気持ちを聞けたら、すごく喜ぶと思うわ」


その言葉に、リアはゆっくりと頷いた。


「……はい……。」


マリナはにっこりと微笑み、「さて、じゃあ次はお洗濯ね。手伝ってくれる?」とリアに声をかける。リアは洗濯物が入ったカゴを取りに行った。







太陽が沈み、町が陰ってきた頃、三人は食卓を囲んで、夕食をとっていた。

マリナとリアが作ったジャガイモのドフィノワの香りが部屋にふんわりと広がっている。


そのとき、不意にイファを見てリアがためらいがちに言葉をこぼす。


「……お花、とても綺麗です。」


イファは手を止めて、びっくりしたようにリアを見た。

そして、少し顔を赤らめながら、照れたように笑って言った。


「……そっか。よかった」


小さく言葉を落とすと、カップに入っていた水を飲み干した。

そして、さっと席を立ち、台所へ逃げるように歩いていった。


その背中を見て、リアは不安そうに眉を寄せ、「……よくなかった、でしょうか。」と、ポツリと、つぶやく。

マリナは微笑みながら、リアに伝えた。


「いいえ、あの子、すごく、すごく嬉しかったのよ。きっと、ちょっと、照れているだけね」


ニヤリと笑ったマリナの言葉を聞いて、リアは、ほっとした。


「……伝えるって、むずかしい。」


「ふふふ。そうね。でも、ちゃんと伝えようとしてる。それだけで、素晴らしいことなのよ」


リアは、そっとうなずいた。




遠くでフクロウの鳴く声がする。

月が輝く。



リアは、なんだか、胸のあたりがあたたかくなり、食卓の上のアネモネを見た。



この気持ちは、なんだろう──

分からない。

でも、心地いい。




ほんの少し、胸の奥が、ぽうっと灯るようなあたたかさだった。




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