第3話 町のひかり
翌朝、ノースフィアの町はゆっくりと目を覚ました。
軋む床板。
湯気のたつ鍋の音。
庭の小さな花を揺らす風。
静かに、穏やかに、たしかに生きている町の音。
イファは紺色の制服のボタンを留めて、朝の支度を進めた。
深緑の瞳は誇らしげに輝き、正義と責任感に満ちた顔だった。
玄関で靴を履いて、いつものようにマリナに声をかける。
「行ってくる」
「ええ、気をつけてね。帰りは夕方かしら?」
「うん。今日は、市場の巡回のあと、頼まれていたカリナさんの畑の柵の修理。あ、あと、役場に書類出すやつも」
マリナの声に応えるイファの背に、リアの視線が静かに向けられる。
彼女は、部屋の隅で黙って立っていた。
彼女を置いて、時だけが、先へ進んでいく。
その場に置き去りにされたように、立ち尽くしていた。
それに気づいたマリナが、やさしく言った。
「リア、ちょうどいいわ。おつかいを頼まれてくれるかしら?」
リアは、ゆっくりと頷いた。
「市場でね、ハーブを買ってきてほしいの。イファ、途中まで案内してもらえる?」
イファは自慢気に笑うと、リアはそんな姿を見つめ「……よろしく、お願いします。」と、ためらうようにそっと声をこぼした。
町の外れにある家を出て、ゆるやかな坂道をくだっていくと、町の中心へと続く石畳の通りに出た。
パンの焼ける匂い。
子供たちの笑い声。
色とりどりの布が風にはためく。
ノースフィアの町は、リアにとって、全てが新鮮で眩しかった。
「おーい、イファ!」
「また昨日、うちの子が迷惑かけたんだって?ごめんなさいねぇ」
「あの荷物、うちの倉庫まで運んでくれたって聞いたわ。さすがねぇ!」
通りを歩くだけで、何人もの人が声をかけてくる。
イファは照れくさそうに笑いながら、それでも一人ひとりにちゃんと返事をする。
リアは隣で、その様子をじっと見ていた。
「……たくさんの人があなたに声をかけてくる……」
「俺たち警備隊の仕事は、町の人たちと関わることが多いからな」
イファはぼりぼりと頭をかきながら続ける。
「それに、親父は昔、軍にいてさ。ちょっとだったけど、この町の駐屯軍にも……。まぁ……困ってる人がいたら手伝う、それが人として当然のことなんだって幼い時から親父に言われてきたんだ」
やがて、見張り塔のある小さな詰所にたどりつく。
イファはリアを連れて中に入った。
「カイさん、おはようございます」
「おー、イファ。今日も早いな……おっと、その子は?」
やわらかく笑いながら、カイが顔を向けると、リアは咄嗟に視線を揺らし、イファの背にわずかに身を重ねた。
まるで、見知らぬ世界からそっと隠れるように。
イファは、その様子に気づくと、やわらかく言葉を継いだ。
「リアっていいます。昨日、森で倒れているのを見つけて……しばらくうちで、母さんの手伝いをしてもらうことになりました。あんまり、記憶がないみたいで…」
カイの表情が少しだけ曇ったが、すぐに口元をほころばせてリアに向き直った。
「そうか。よろしくな、リアちゃん。俺はカイ・ロウェル。ここで警備隊長をやってる。困ったことがあったら、なんでも言ってくれ」
リアは一瞬だけ言葉に迷いながら、小さくうなずいた。
「……はい。ありがとうございます。」
カイはにっと笑って、イファの肩を軽く叩いた。
「まぁ、お前がついてるなら心配いらんな!」
「はい!しっかり守ります!」
「今朝のお前の担当は……市場の巡回だったな」
「はい、リアが市場に行くので、巡回ついでに連れて行ってもいいですか?」
「もちろんだ、市場の通りはもう人が増えてきてるからな。リアちゃん、最初は人の多さに驚くかもしれないが……きっと、いいところだって思えるよ。イファ、気をつけて行ってこい」
リアは小さく息をのんで、肩をすぼめるように立ち止まっていたが、イファがにこやかに歩き出すと、ゆっくりとその背を追った。
「……リアも、もっと町の人や暮らしに慣れていけたらいいな」
イファは少し照れたように、それでもまっすぐに言った。
「誰かの荷物を運んだり、道案内したり、子どもをあやしたりするのも、ぜんぶ俺の役目なんだ。それが俺たち、警備隊の仕事。だから、リアが困っていたら、俺が助ける」
リアは黙ったまま、淡々とイファの言葉を聞いていた。
市場までの道すがら、イファは、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「おれ、十五歳の時にこの町に越してきたんだ。もう三年も経つんだな……」
「ノースフィアは、小さいけどいい町だよ。戦争もないし、みんな穏やかで。田舎でさ、決して裕福ってわけじゃないけど、食べ物も水もちゃんとある」
リアは、ただ、まっすぐに目の前の町を見ていた。
「でもな……世界は、全然ちがう」
リアがちらりと横目で彼を見る。
「俺たちが住むアーゼル共和国の隣国、ヴァストラ帝国。聞いたことあるか?」
「…いいえ…。」
「…そうか」
イファは少し口をつぐみ、それから、ぽつりぽつりと語り始めた。
「昔、その二つの国が戦争を始めた。科学技術が進歩しているアーゼル共和国と、巨大な軍事力を持つヴァストラ帝国のぶつかり合い。どっちも譲らず、いくつもの町が焼かれた。何百万って人が、死んだんだ」
「今は戦争ってほどじゃない。でも、裏では技術を盗んで、兵器を作って……。町によっては、飢えや病気に苦しんでるひとたちもいる…ノースフィアは平和だけど、外の世界は、いつ崩れてもおかしくない」
リアはそれを聞いても、ほんの少し俯いて目を伏せたまま、言葉が通り過ぎていくのをただ静かに待っているようだった。
「……話しすぎたかな、ごめん」
イファが気まずそうに目をそらし、二人の間を風の音だけが駆け抜けていく。
すると、「……あれが、市場?」と、リアが指差して聞いた。
そこには、カラフルなテントが並ぶ賑やかな通りが広がっていた。
果物の甘い香りが鼻をくすぐる。
呼び込みの声が飛び交い、色とりどりの花が並ぶ。
混ざり合った色と音。
この世界の鮮やかさに、圧倒されるように、リアはそっと足を止めた。




