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第29話 囁く声


ミナとリゼットと別れた帰り道、リアは一人、家へと続く坂を下っていた。


時計台から見下ろしたあの景色の余韻がじんわりと胸の奥に広がる。



──逃げずに、自分のことをちゃんと知りたい。



少しずつ芽生えはじめた決意は、まだ頼りない灯火のように揺れていた。


そのときだった。

柔らかな風が木々を揺らす音に混じって、静かな足音が背後から近づいてくる。



「……リア」



聞き慣れないようで、聞き覚えのある声。

ただ名前を呼ばれただけなのに、どこか胸をざわつかせる。


振り返った先に立っていたのは、セリオだった。


また、穏やかな微笑みを浮かべたまま、まるで偶然通りかかったかのように立っていた。



「驚かせたならすまない」


リアは、思わず一歩後ろへ下がった。

けれど、すぐに顔を上げ、セリオを見つめる。

ミナとリゼットに背中を押されて、知りたいという気持ちが少しだけ勇気をくれた。


「……こないだ言っていた、わたしが特別ってどういうことですか?」



その問いに、セリオは一瞬だけ視線を落とした。



「リア──今の君は、自分の過去を知らない」


「……」


唇の端を上げて笑う。


「少しだけ教えてあげよう。ただし、君は自分の目で真実を確かめなければならない。いずれ、その特別さゆえに、自分の意志で未来を選ばなければならなくなるからね」


「未来を、選ぶ?」


セリオは、ふぅ、とひとつ呼吸を落とす。


「君は、サンティス博士に命を救われた」


セリオの声は低く、優しい。

けれどその響きが、どうしてもリアの不安を掻き立てる。



「君の故郷は、ノアレという町だ。……三年前、君はノアレである事故に巻き込まれ、命を落としかけていた。記憶がないのも、その影響だろう」



語る口調は穏やかだったが、その奥に潜む重さが、静かにリアの胸にのしかかる。



「──サンティスは……そんな君を救った。」



サンティス。

その名を聞くたび、忘れていたはずのぬくもりが、心の深くからゆっくりと呼び起こされる。

目の奥がじんわりと熱を帯び、呼吸がかすかに乱れ始める。


そんなリアの姿を、セリオは真っ直ぐに見つめて言った。



「──神の力とまで呼ばれた、ルクシミウムの力を使って」



「ルクシ……ミウム……」




リアの視界がぐらりと揺れる。

足元が崩れそうになるのを、必死に堪えた。



「彼は、自分の研究と想いのすべてを、君に託したんだ……そして、彼は軍の手によって命を奪われ、この世を去った」


「なぜ……?」


「ルクシミウムは、人の手に余るものだったんだ。それを制御しようとしたサンティスのような者は、時として排除の対象になる」


リアは言葉を失い、ただ小さく息を呑むことしかできなかった。


「それでも……彼は最後まで、君を信じ、大切に思っていた」


セリオの声は、どこか遠くを見つめるような響きを帯びていた。


「君と博士が共に過ごした時間は、決して長くはなかった。けれど、あの短い日々の中で、君は、多くのことを感じ、学んだはずだ」


セリオはふと目を細める。


「君にしかできないことがある。君にしか知らないこともある。……ルクシミウムは、世界を救う可能性を秘めている。私は、その手助けをしたいんだ」


そして最後に、静かに告げた。


「サンティスは、君を私に託した。……私は彼と長年、研究を共にしてきた者として、君の行く末を見届ける責任があると、そう思っている」



その時、誰にも気づかれぬまま、空の高みに何かが漂っていた。

薄い雲の切れ間に、無音の探査機が浮かぶ。


小さな黒い金属塊。


その中心では、淡く脈打つ光が揺れていた。



リアの反応──感情の振れ幅、心拍、体温、発汗。

すべてが、静かに記録されてゆく。

名もなき誰かの元へと、

静かに。

無慈悲に。



セリオはなおも続ける。


「リア……私は、君に選んでほしい。世界を救う未来を。だが、そのためには、まず、真実を知らなければならない」


声の調子が、ほんのわずかに強まる。



「君が何者で、なぜここにいるのか。その答えは、君の故郷……ノアレにある」




──ノアレ。




聞いたばかりのその町の名が、胸の奥で疼いた。


「あの町には、サンティスの残した研究所がある。そこに君の全てが眠っているはずなんだ」



頭がガンガンする。

思考がうまくまとまらない。

立っているのがやっとだった。



「私と一緒に来てほしい。逃げずに、向き合ってほしい。それでしか、未来は選べない。共に行こう。ノアレのシェルハイム研究所へ」



リアは、その言葉に唇を噛んだ。 


「……でも……」


迷いが、声の端に滲む。


「もちろん、今すぐ答えを出せとは言わない」


セリオは静かに微笑む。


「だが、一つだけ伝えておきたい」


一拍置くと、その声が少しだけ低くなった。


「君の存在を危険視する勢力が、既に動き始めている。軍の一部、あるいは、それ以上の存在かもしれない。彼らは君を利用しようとするだろう。君がここに留まれば、遅かれ早かれ巻き込まれていく。危険が迫っているんだ。……君にとっても、君の大切な人にとってもね」



リアは息を呑んだ。


「そんな……」


「君は特別な存在なんだ。君には、ノアレで真実を知る権利がある。もし君が私と共にノアレへくることを選んでくれたら、私が君を、そしてこの町で暮らす君の大切な人たちの身を保証しよう」


その言葉にリアは強く揺れた。

だが、今すぐには返事ができなかった。


すると、セリオはゆっくりと、リアに告げた。


「焦らなくていい。だが、準備ができたら、西の森の入り口へ来てくれ。私はいつでも君を待っている」


リアは答えを見つけられず、ただ小さく俯いた。


「……少し、考えさせてください」


「もちろんだよ。君の心が決めるべきことだからね」



セリオは柔らかく微笑んだまま、一礼をすると、その場を離れていった。

静かに消えていく背中。



遠く、雲の上の探査機だけが、無音のまま回転を続けていた。




──私は誰なの?

──私の過去に、何があるの?



残されたリアは、小さく震えながら立ち尽くしていた。


見えない鎖が、自分をゆっくり締め上げていくようだった。


心も身体も、自分の意思では動かせない気がした。




「リア!」



その声が届いた瞬間、胸の奥に張りつめていたものが、一気にほどけた。



震えていた足から力が抜け、リアはその場に崩れ落ちそうになる。



すぐさま駆け寄ったイファが、倒れそうなリアの身体をそっと支えた。


「イファ……ごめんなさい、大丈夫……」



そう言いながらも、リアの声は震えていた。



「こんな時間に、こんなところで……何かあった?」


イファの問いに、リアは小さく首を振る。

説明できるほど、言葉はまだ形になっていなかった。


リアは、重力に身を委ねるように、静かにイファの胸元に顔をうずめた。

イファは、何も言わず、そっと寄り添ってくれる。



しばらくして、リアの乱れていた呼吸が、少しずつ穏やかになっていく。


「イファ……」


ようやくリアが小さく声を発した。


イファは静かに顔を覗き込み、耳を傾ける。


「私……イファに話したいことがあるの」


イファは無理に急かさず、静かにうなずいた。


リアは深く息を吸い込むと、ゆっくりと言葉を紡ぎ出す。



「私……自分のこと、ちゃんと知りたい。ちゃんと、向き合ってみたいの。……怖いけど、でも逃げたくない。たとえどんなことがわかっても…」



その言葉を最後まで聞き終えたあと、イファはゆっくりと微笑み、リアの手をそっと包み込むように握った。


「わかった。リアがそう思えたなら、俺はいつだって隣にいるよ。どんなときでも」


その言葉が、まるで灯火のように胸に染み込んでいく。


リアの胸の奥で、またひとつ、小さな光が優しく灯った。

そしてその光は、今までよりもほんの少しだけ、強く、温かく揺れていた。



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