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第2話 灯る家

朝霧の森を抜け、ようやくノースフィアの町が見えてきた。

小さな田舎町だ。


イファの腕の中の少女はまだ目を覚まさない。




彼の住む家は、小さな丘のふもとにある古い家だった。

壁は少し色あせ、屋根もところどころ歪んでいたが、庭の木には果物が実り、小鳥の声が響いていた。


イファは、家の前で一つ呼吸をして、ドアを開ける。


「あら!早かったわね……」


穏やかな笑顔が、一瞬で変わる。

イファの母、マリナはほとんど目が見えない。

白く濁ったその瞳は、ぼんやりと光を感じる程度で、視野の一部は完全に失われていた。


だがそのぶん、耳も鼻も鋭く、息子が誰かを連れて帰ってきたことにすぐ気がついた。


「まあ…女の子かしら?」


マリナが笑顔で迎えると、イファは申し訳なさそうに頭をかいた。


「森で倒れてたんだ。冷たくなってて……。俺……ほっとけなくて、それでっ」

「まぁまぁ……それは大変だったわね。わたしのベッドを使って。まずは、あたたかいお湯を沸かしましょう」







それから数時間後──


布団の上で、少女はゆっくりと目を開いた。


「……ここは?」


「よかった…目が覚めた」


椅子に座っていたイファが、ほっと息をついた。


「大丈夫か? 体は……痛いところとか、ない?」



少女はしばらく天井を見上げていたが、やがて身体を起こし、小さく首を振った。


「私の名前は、リア。名前しか…わからないのだけれど。」


その声には抑揚がなく、どこか遠くから響いてくるようだった。

均一な声を際立たせる瑠璃色の瞳と銀色の髪。触れたら壊れてしまいそうな儚さを纏っていた。


イファは、言葉を失っていた。時が止まったように。




「……記憶が……ないのね」


マリナが優しく問いかけると、リアはこくりと頷く。


「どこから来たのか、何をしていたのかもわからない…。ただ…助けてもらえるような人間じゃない、そんな気がします。」


イファは思わず、目を見開いた。ひとつ、ゆっくりと呼吸をする。


「……朝、真っ青な顔で森で倒れてたんだ。まだ、夜は寒いし……。本当に、生きててよかった」


イファの話を聞いても、リアは身じろぎもせず、ただ黙ったまま。

瑠璃色の瞳が、イファの深緑の目をじっと見つめる。



その瞬間、イファの胸の奥には、静かな水面に小さな波紋が広がるような感覚が残った。



「もう十分です。これ以上、あなたたちの世話になるわけにはいかないので。」


布団から立ち上がるリアの表情は依然として変わらず、淡々と言葉を紡ぐ。

彼女の落ち着いた声を聞いて、イファは、吸い込まれそうな瞳から目を逸らした。


「……でも……記憶がないんじゃ、帰る場所もないんだろ……?」


リアは答えない。

何を思って、何を考えているのか。

彼女の表情は静かな夜の海のようで、イファにはわからなかった。



リアはぺこりと頭を下げ、ドアの方へ歩く。


そのとき、ふわりと漂うスープの香りがリアの鼻先をくすぐった。

キッチンからは、鍋の音が心地良く響いている。


「……まあまあ、シチューができてるの。あったまるわよ。食べていきなさいな」


リアの足がわずかに止まる。


「イファの大好物なの。あなたの分も作ってしまって、たくさんあるのよ。食べきれないから……ね?」


やがて、木の食卓に三つの皿が並んだ。

リアは黙ってスプーンを口に運ぶ。甘く優しい味わい。



「……おいしい…」



とろりとしたスープが、舌に触れると、じんわりと体の隅々へ運ばれていくような気がした。

じゃがいもと人参がほくほくで、肉もやわらかい。そして、なにより、あたたかかった。


リアがぽつりとこぼした言葉に、イファの口角が上がる。マリナも穏やかに微笑んだ。


「冷えた体には、あたたかいシチューが一番ね」


マリナの声には、陽だまりのようなやさしさがあった。


「私の目はね、数年前に不自由になってしまってね……今はぼんやりとしか見えないの。だから、一人ではできないことも多くて、イファに助けてもらいながら、なんとか暮らしているわ」


「……」


「でも、イファは毎日働きに出てくれているから、昼間はこの家でひとりなの。もし、あなたが手を貸してくれたら、私は嬉しいんだけど……どうかしら?」


リアはぴたりとスプーンを止めた。

眉ひとつ動かない。

呼吸をしているのかすら、心配になってしまうほどに。


「記憶が戻るまで、さっ…」


イファが声をかけても、リアは俯いたまま、ただ、沈黙を貫く。


「体調だってまだ万全ってわけじゃないんだ。何か怪我してるかもしれないし…」


イファはほんのわずかに間をあけて、また、言葉を続ける。


「それに、一緒に飯も食ったからな! ……もう家族みたいなもんだ」


何も問題はないだろ、と言いたげにニカっと笑った。


「……」


リアは、返事はしなかった。

しかし、拒絶もしなかった。



ほのかに甘いシチューは、彼女の冷たい身体をあたためる。

彼女にとって、人の温かさは未知のものだった。



ただ、ゆっくりと。



彼女の胸の奥の、何かがほんの少し、灯った気がした。




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