第11話 潜む影
爽やかな風には、微かに夏の匂いが混ざりはじめ、雲はいつもより力強く浮かぶ。
少し鬱陶しいくらいの日差しの中、リアはひとり市場へ向かっていた。
マリナから頼まれたハーブの買い物。
いつもの香草を、いつもの店へ。
それは、リアにとって日常になっていた。
市場には陽気な声が飛び交っていた。
魚の並ぶ台、干し肉の店、焼き菓子の香り。
リアは、見慣れた景色と香りに包まれる。
「いらっしゃい! あら、リアちゃん、こんにちは」
明るく迎えてくれたのは、顔馴染みになったハーブ屋の店主。
ふくよかな女性は、変わらぬ笑顔でリアに声をかけてくれる。
「おつかいね? はい、ミントとバジル。今日も香り、いいでしょう?」
リアは少し口角を上げ、小さく頷き、代金を渡す。
「……ありがとうございます。」
そのとき、リアは視線を感じた。
隣にいたのは、白い買い物袋を下げた中年の女性だった。
白髪混じりの髪を触りながら、ジロジロと彼女を見ていた。
リアが軽く会釈をすると、その女性は眉を跳ね上げ、一歩大きく後ずさる。
「……あんた、この町の子じゃないわよね? イファくんのところに住んでるって聞いたけど……」
「はい。今は……イファと、マリナさんの家で、お世話になっています。」
「……へぇ……ねぇえ……あんた、どこから来たの?」
「……森の、向こうの……。」
リアが言葉に詰まると、女性の眉がぴくりと動いた。
「──森って……あの森のほうから来たの?」
リアは、黙って聞いていた。
「……あんたさぁ……なんか変なもの、持ってきたりしてないでしょうね?」
歪めて笑う唇から落ちた言葉は、ゆっくりと、リアの胸に刺さった。
リアは、小さく息を吸う。
「……いいえ。なにも……」
女性は、それ以上は言わず、「あらやだ、そろそろお肉が冷めちゃうわね」と笑って去っていった。
リアがゆっくり顔を上げると、一部始終を見ていたハーブ屋の店主は、瞬きも忘れ、薬草の小瓶を抱えたまま固まっていた。
そして、リアと目が合うと、店主は少し困ったように微笑んで言った。
「……いやぁ……最近、ちょっとねぇ……町の人の中に、不安がってる人がいるのよ」
「不安……ですか?」
「ええ。“あの森から来た子”ってだけでね。ほら! この町は小さいから、噂ってすぐにね、広がりやすいのよ!」
リアは何も言わず、ただその言葉を受け止めた。
「でも私は、リアちゃんが毎日頑張ってるの、見てるわ。だから、またいらっしゃい。遠慮なんてしないで」
店主はヘラヘラと笑って、手をヒラヒラさせた。
リアは小さく頭を下げて、足早にその場を離れた。
──わたしは、なにか“変なもの”を、持っているのだろうか?
──怖いと思われる、理由があるのだろうか?
帰り道、ふと立ち止まると、白いアネモネの花が咲いているのを見つけた。
その花は、まっすぐに陽を浴びていた。
リアはしゃがみこみ、そっと見つめる。
「……わたしは……ここにいて、いいんでしょうか。」
誰にも聞こえないような声で、ぽつりとつぶやいた。
帰宅すると、マリナがいつものロッキングチェアで編み物をしていた。
「おかえりなさい、リア。ありがとうね、おつかい」
「……マリナさん。私は、町の人たちに……怖がられているのでしょうか。」
マリナは手を止め、ゆっくりと顔を上げる。
「……なにか、あったの?」
リアは、中年の女性に言われた言葉とハーブ屋の店主の話をした。
マリナは黙って、頷きながら、リアの話をすべて聞いた。
そして、ふうっと小さく息をつく。
「……そうね。きっとその人はね、あなたのことを知らないから、怖いのよ」
「知らないから……?」
「人ってね、自分の知らないもの、自分と違うものに、不安や恐怖を覚えるの。たとえそれが、リアのように、優しくてまっすぐな子でもね」
マリナはそっと、リアの銀色の髪を撫でる。
「でもね、リア。怖がられるのは、あなたが悪いからじゃないの。
人がわからないことを怖がるのは、どうしようもないことなのよ。だからこそ、少しずつ知ってもらうの。焦らなくていいわ。笑ったり、挨拶したり、リアが自分らしくしているだけで、きっと伝わる日が来るから」
リアはゆっくりと頷いた。
「……でも、少し、胸の奥がヘン、でした。」
マリナは、リアの手を両手で包み込むように握りながら、言った。
「それはね、リアの心が動いた証拠よ。悲しい、とか、嫌だなって思えたことは、リアをまたひとつ、豊かにしてくれたわ」
リアは、しばらく黙り込んだあと、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「……わたし、ちゃんと、ここに、いますか?」
マリナは、くしゃっと笑う。
「ええ。ここに、ちゃんといるわ」
その言葉は、リアの胸にすっと落ちた。
そして、リアの胸の奥に、名前のつけられない感情がゆっくりと灯っていく。
ほんの少しずつ。
少女の世界が、広がっていく。
──同時刻
とある町──アルメリア
“あの日”から三年。
かつて鮮やかだったこの町に、人の気配はもうどこにもない。
白い繭のような乗り物が、荒れ果てた景色の中で場違いなほど静かに佇んでいた。
そのすぐそばには、地下へと続く階段。
──アルファ・コア研究所。
壁には焼け焦げた痕が残り、黒く断ち切られたコードが垂れ下がっている。
沈黙した研究施設の奥で、乾いた金属音が響いた。
ドンッ。
こぶしで叩かれたテーブルが鈍く軋む。
「ヴァストラ帝国が軍備を拡大しているんだぞ! 我が国の未来がかかっているというのに……いつまで待てと言う!」
怒声を上げる軍服の男。その周囲を、同じ制服の者たちが固めていた。
対照的に、彼らの中心に立つ白衣の男は、ひどく落ち着いていた。
白銀の髪をかきあげ、細い指先でモニターのひとつを軽く叩く。
そこには、銀色の髪の少女が映っていた。
「……ええ。今はまだ、待つ必要があるんです」
白衣の男は、柔らかく微笑む。
けれどその声はどこか薄い。
「安心してください。私は──あの人のような失敗はしませんから」
「はっ! 検体を逃したくせによく言う!」
軍服の男が吐き捨てるように言うと、白衣の男の瞳がかすかに光った。
──感情というのは、厄介なものだ
モニターの少女を見つめたまま、彼は続ける。
「居場所はすでに分かっています。ですが……今はまだ、こちらから手を出すべきではない」
「なぜだ!」
「ここでの充填では不十分だったのです。だからこそ、自由にしてもらわないと……ね」
白衣の男は、ゆっくりと口角を上げた。




