第10話 風と花と、笑顔
数日が経ったある日。
いつもなら、誇らしげに紺色の制服に袖を通すイファが、今日はゆっくりとコーヒーを飲んでいた。
「……今日はおれ、仕事……休み」
イファは照れくさそうに、独り言のようにぽつりと告げる。
横目でリアを見ると、きょとんとしていて、
イファは慌ててコーヒーを飲み干し、キッチンへ向かった。
「ねぇ、イファ。今日はお家で静かに、編み物をしたい気分なの。お天気もいいし、たまには二人でお出かけでもしてきたら?」
にこやかに笑うマリナの言葉で、二人は一緒に出かけることになった。
春の光はやわらかく世界を照らし、鳥たちのさえずりはどこか浮かれたようだった。
リアは、小さなカゴを持って、イファの横を歩く。
カゴに入っているものは、マリナが持たせてくれたサンドイッチ。
何気ないことが、今日は少しだけ特別に感じられた。
向かう先は、リアが倒れていた森。
あの日の記憶は曖昧で、靄のかかったようにぼやけていたけれど、イファの「大丈夫、今日は怖くないよ。」という言葉が、彼女の心を軽くしていた。
森の奥へ、ゆっくり歩く。
木々の間を風が走り、心地よい音を立てる。
ふわりと香る太陽の匂いが、二人に春を連れてくる
小道を抜けたそのとき──
たくさんの小さな花々が、湖のほとり一面に咲いていた。
ピンクに白、黄色に薄紫。
小さく、そして強く、命を咲かせている。
水面には陽の光がきらめき、魚たちが音もなく泳いでいた。
「……きれい」
リアの口から、自然とこぼれた言葉。
ため息混じりに出たその言葉は、微かに聞き取れるほど小さなものだった。
ゆっくりと歩きながら、彼女は花の香りに顔を近づけ、そよぐ風に長い髪を揺らす。
初めて出会う、世界の美しさが、リアの中にじんわりと広がってゆく。
「……こんな場所があるなんて……知らなかった……」
「知ってもらえてよかった」とイファは笑う。
「今日は怖くないって言ったろ?」
その笑顔に心が解かれていく感覚を覚える。
二人は木陰に腰を下ろし、湖を静かに見つめた。
リアは、少し迷ったあと、静かに声を落とした。
「イファ。」
「ん?」
リアはほんの少しだけ、視線をそらしながら言った。
「……どうして、あなたは、私に“ありがとう”って言ってくれるの?」
イファは、ちょっと驚いたように何度か瞬きをして、木に背をもたせた。
「……う〜ん……」
少し照れたように頭の後ろに手を重ねる。
「なんでって……リアが、いろんなことをしてくれるからだよ。朝にコーヒーを淹れてくれたり、母さんを助けてくれたり、さ。……それが、当たり前のことじゃないって、ちゃんと、わかってるから」
「でも……私は、うまくできないことも多くて……失敗したりも、します。」
「そりゃ人間、みんな失敗するよ。でもな……」
イファはリアの目をまっすぐに見て、続けた。
「やろうとしてくれることが、うれしいんだよ」
「……うれしい?」
「そう。嬉しいとき、人って“ありがとう”って言うもんだろ?」
リアは唇を噛み、少し考える。
「……そう、なんですね。」
そして、小さな声でぽつりと続けた。
「……それなら、わたしも。
……今日、ここへ連れてきてくれて、ありがとうございます。」
イファはニカっと笑って言った。
「どういたしまして!!」
二人は景色を眺めながら会話を交わし、持ってきたサンドイッチを食べ終えた。
優しい時間が二人を包む。
木々が風に身をまかせ、陽の光は遊んでいるように木漏れ日をつくる。
リアの視線は遠く、でも穏やかだった。
しばらくして、ぽつりとリアが言う。
「……森って、怖い場所だと思っていました。」
「うん」
「走っていたんです。何かに追われてた気がする。何を探してるのかもわからずに……でも、早く、早くって。……ただ、逃げていました。たぶん、ずっと。」
リアの声は、静かで、自分自身に語りかけてるようだった。
そして、少し、寂しげだった。
イファは、ゆっくりと呼吸をしながら、ただ隣で聞いていた。
風が吹く。花が香る。
湖面はキラキラと輝き、音もなく揺れる。
鳥の影が、湖の上をすべっていく。
リアはふっと視線を下ろして、言った。
「毎日、うまく、できないことばかりです。何が、正しい、のかもわからない。でも……今はただ、こうして生きていられて、よかったって思っています。世界には、こんなに美しいものがあるって、知れたから。」
イファは、静かにリアを見つめる。リアの瑠璃色の瞳が微かに揺れていた。
「リア」
「……?」
「あの白い花はさ……よくできたからっていうのも、もちろんなんだけど……」
リアは目をぱちぱちさせて、首を傾げる。
イファはリアの吸い込まれそうな瞳をしっかり捉えて言った。
「リアが、この世界にいてくれて、うれしいんだ」
その言葉に、リアの瞳が大きく揺れる。
瑠璃色の瞳の奥で、眩い金色の光が走る。
一瞬、彼女の表情が、ふわりとゆるんだ。
「……あ」
イファが目を丸くする。
「笑った……」
リアは、少し驚いたように自分の口元に手を当てて、そして小さく、もう一度笑った。
「……なんだか、あったかいんです。ここ……」
リアは、自分の胸のあたりに手を置く。
大きく深呼吸をして、そっと視線を落とした。
「……あたたかくて心地がいい。……きっと、これが、うれしいって気持ち……。」
それを聞いて、イファもまた、そっと微笑んだ。
爽やかな春の日差しが差し込む。
風は湖を揺らし、花はたおやかに咲く。
世界は何も変わらない。
けれどたしかに、少女の中に新しい風が吹いた。




