二、思わぬ再会
昔から、甘いものには目がない。さすがに毎回というわけにはいかないが、筋トレで特に追い込んだ日には甘いものを買って、家で食べる。自分へのご褒美というやつだ。前回の休みの時、ちょうどジムからの帰り道に洋菓子屋ができたので、これは通うことになりそうだと思っていた。
「……お」
チーズケーキの焼ける香ばしい匂いにつられ、ショーケースに並んだものを指差す。同じものを控えめな様子でそっと指す手がもう一つ。
「「あ……」」
店に入った時は気づかなかったが、じっくりとショーケースを眺める先客がもう一人いた。以前家の前で会った隣に住む女性だ。
「あら、カップルですか?」
「違います」
「……」
さすがに否定する声が被るほど、息は合っていなかった。
***
「すみません、譲っていただいたうえにお茶までお誘いいただいて……」
「気にしないでください」
ベイクドチーズケーキは残り一切れだった。ちょうど焼き上がった一ホールは予約のお客さん用だったらしく、新しく焼くにはしばらく時間がかかるということで、彼女に譲り俺は隣のレアチーズケーキに変えた。甘いものかつタンパク質なことに変わりはないので、十分許容範囲だろう。譲ってもらったのが申し訳なかったのか、ぺこぺこと頭を下げるので、いったん落ち着かせようとお店の二階のイートインスペースで一緒に食べることを提案した。我ながらキザなお茶の誘い方だと思う。
それよりも俺が彼女に威圧感を与えていないか気になっていた。陸自でも下士官でもないが、一般人より筋骨隆々なのは確か。もちろんはち切れんばかりの筋肉が好きなタイプもいるだろうが、いかにも人見知りそうなこの女性にはきついのではないかと思っていた。せめて言葉尻だけでも不必要に警戒させないようにと心がけているつもりだが、果たして。
「この間は、すみません。名前を名乗っていなかったと後から気づいて……」
「あぁ、そうだったんですね」
「柏、真鈴といいます。えっと……」
そこまで言って彼女がポーチをごそごそとしだす。その仕草には俺よりも年下、どこか学生っぽさがあった。近くには大学もあるし、利便性とセキュリティを考えていいところのマンションを親にあてがってもらえたのかもしれない、と思うと納得がいった。とすれば、学生証でも出すのか。学生ならそれはそれで身分を知っても申し訳なさが募るだけだし、止めようとしたが。
「……あ、すみません。なんでも、ないです」
結局ごそごそするだけして、彼女は何も出さなかった。ほんの一瞬、ファスナーの開いた財布から見慣れない夜空色のカードが見えた気がした。どこかのポイントカードだろうか。
「すみません、……身分を証明できるものがなくて」
「気にしないでください。信用してないわけじゃないですし」
「あの、今年で二十歳です。あなたの方が年上、ですよね」
「はい。二十五なので」
俺も自衛官の身分証明書を出して自己紹介する。下市玲央、二十五歳。2020年生まれ。自衛官という三文字を見て、彼女が一瞬納得したような表情を見せたのを俺は見逃さなかった。
一方彼女は二十歳。つまり2025年生まれ。俺も五歳だったから記憶は当然ないが、とにかくいろいろ起こった年だということは聞かされて知っている。大きなパンデミックがあったとか、政権交代したとか。一番変化があったとみんなが口を揃えて言うのは、「超能力」という科学の一分野らしいものが明るみに出たこと。なんだかんだあってロステク、つまり失われた技術になってしまい、超能力が具体的に何かを知る人はほとんどいないと聞く。
「怖がらせてはいないですか」
「……えっ」
「仕事柄、よく鍛えるので。上背もありますし」
「い、いえ、……そんなことは、全く」
少し遠慮していると分かる。ある程度怖がるのは当然と思っている。父親と娘ほどに背丈が違うのだから。
そして俺の中に、違和感が残った。こんな控えめでおしとやかで、遠慮がちな人が、夜職なんてするだろうか?偏見なのは分かっている。自衛隊に筋肉バカからゴリゴリの頭脳派まで多様な人材が揃っているように、夜が主戦場の人だっていろんな人がいておかしくない。だが、こんなに控えめで、上客なんて取れるのかと素直に思ってしまったのだ。公務員と違って、夜職は客が取れなければ終わりだ。自分の給料に直結する。
「……怖い人は、他にたくさんいるので」
「えっ?」
「い、いえ……なんでもありません」
「何か、そういう経験を?」
「……」
公務員に向かってどやす人間がいるように、夜職が相手にする客層も良いとは限らない。本気で嫌がっているのを勘違いして、自分さえ気持ちよければいいと考える人もいる。そういう人に対面した時、この子が確固たる意志を持って抵抗できるとは、思えなかった。
「……お金を、稼ぎたいんです」
「は……?」
「自立、したくて……何かスキルを持っているわけでもない私ができることがないか、ずっと考えています」
「それで、夕方に家を出て朝帰りするような仕事を……? あ、いや、気持ち悪いのは承知で」
「……悪いことなのは、分かっています」
それでようやく察した。彼女がやっているのは、ちゃんとした店の夜職ではない。公園やその近く、ちょっと暗がりになったところで援助交際の相手を求める、いわゆる「立ちんぼ」であると。実際に相手がやってきて、それらしいことをしたのかまでは分からない。が、この手の女性を好む下劣な人間がいてもおかしくない。
なぜそんなことをわざわざ俺に言ってきたのか。罪の意識もあることからして、止めてほしいのだろう。お金がないとこの先暮らしていけない、だからお金が欲しいと言いながら、今自分のしていることが犯罪だとも分かっている。俺は他人からいつも褒めてもらえるほど善行ばかりしてきた男ではないが、後ろ指を指されようとも自分が正しいと思った行動を起こす覚悟はできている人間のつもりだ。自衛官になるとは、そういうことだから。
「……分かった」
「……っ!」
「伝手はあります。裕福な暮らしはできないですが、安定はすると思いますよ」
彼女の顔がぱあっと明るくなる。そんなに簡単に俺を信用していいのか、とむしろ心配になった。そうやって真っすぐ他人のことを信じられるからこそ、自ら体を汚すような真似はしてほしくないとも思う。
「……食べましょうか」
「……っ! はい……!」
結局話すばかりで、せっかく買ったケーキにお互い口をつけていなかった。彼女もむやみに夜の街に繰り出すのはやめて、働き口をあてがってもらえるまで大人しく家にいるから、いつでも訪ねてくれて構わないと言ってもらい、あとはつつがなくお茶をして解散になった。