第2話 死の直前
魔獣の咆哮が、密林の湿った空気を震わせた。
地面の黒土が跳ね、草の葉がざわめく。棘を背に並べた獣の身体はしなやかで、筋肉が波のようにうねっている。
カイは両手で剣を握り締めた。重さが腕に食い込むが、離せば命を失うと直感していた。
獣の目がぎらりと光り、次の瞬間には視界の端から消える。あまりの速さに息を飲む。
風切り音が耳元をかすめ、反射的に剣を横に構えた。
金属と骨がぶつかるような鈍い衝撃。腕が痺れ、足元の土に深く踏み込んだ跡が残る。
だがその防御はかろうじて一撃を逸らしただけで、獣は距離を取って再び低く構えた。
「……速い……」
息が浅くなり、心拍が上がる。額の汗が目に入り、視界がぼやけた。
その瞬間、先ほど現れた半透明の画面がふっと浮かび上がる。
【アーカイブ:爪撃】──先ほど剣士が受けた攻撃の軌道と力加減が、鮮明に映像のように記録されていた。
(これ……使えるのか?)
考えるより早く、体が動く。
剣を持ち直し、獣の突進に合わせて同じ軌道を模倣する。
金属が肉を裂く感触。獣が短く悲鳴を上げ、背の棘を逆立てた。
だが、深くは斬れなかった。
獣の防御は厚く、傷は浅い。それでもカイは確信する──この能力は攻防の両方で使える。
数合の攻防の末、背後でうめき声がした。
振り返ると、先ほどの剣士が必死に体を起こそうとしていた。片手には血に濡れた剣、もう片方は震えて地面を掴んでいる。
「……逃げろ……森を……出ろ……」
その声は掠れて、ほとんど聞き取れない。
カイが近づこうとした瞬間、剣士の肩越しにもう一体の魔獣が姿を現した。
こちらは体格が二回り大きく、口元から白い煙のような息を吐き出している。
周囲の空気が一変した。
湿度が増し、土の匂いに焦げたような匂いが混ざる。
葉の影が揺れ、遠くで雷鳴が小さく響いた。
(……何だ、この感覚……)
耳の奥で風のささやきが聞こえたような気がした。
「……力が欲しいか?」
低く、しかし透明感のある声。
カイは反射的に振り返った。そこには、人の形をした淡い光の影が立っていた。
肩までの髪がゆるやかに揺れ、瞳は水面のように澄んでいる。
その存在は、森の木々や大地、空気そのものと溶け合っているようだった。
「お前……何者だ……?」
「私はアルヴァ。森羅万象より生まれし精霊……この森を見守る者だ」
声は不思議と頭の中に直接響いた。
獣の唸り声が再び近づき、アルヴァの輪郭が揺らめく。
「契約すれば、お前に力を貸す。だが……この契約は永遠ではない。六十日後、私は消える。それが精霊の理だ」
「六十日……?」
「そして、契約者が死ねば、私は三日後に消える。──選べ。今ここで死ぬか、私と共に生き延びるか」
迷う余地はなかった。
カイは頷き、手を差し出す。アルヴァの細い指が触れた瞬間、胸の奥で光が爆ぜた。
風が全身を駆け抜け、視界が一気に鮮明になる。筋肉が軽くなり、耳が遠くの葉擦れまで拾い取る。
獣が跳びかかってくる。
カイはアーカイブ画面に表示された「爪撃」を選び、アルヴァの風を纏わせる。
剣が弧を描き、風の刃と共に獣の首筋を切り裂いた。
鮮血が舞い、重い音を立てて獣が倒れる。
息を整える間もなく、もう一体の獣が唸り声を上げた。
「……まだ終わってない」
アルヴァの声が冷静に響く。
カイは剣を構え直し、迫る影に目を向けた。
森の奥から、さらに複数の気配が迫ってくる──。