逃げろ、貞盛 9
~天慶元年(938)十二月、小県郡神川畔~
貞盛と将門が、交差した。
貞盛は、振り下ろされた相手の太刀を防ぐので精一杯であった。
二太刀目が襲ってくる前に、急いで馬を返す。
振り向いたときにはすでに、将門はこちらに向かって疾駆してくるところであった。
貞盛は体勢を立て直すと、再び駆けだす。
一閃。
すんでのところを躱したはずが、頬に鋭い痛みが走った。
相手は余裕のある様子である。
三太刀目を振りかざしてきた。
貞盛を救おうと、真樹の配下の者が二人、将門めがけて突進してくる。
将門は怯むことなく、一振りで二人の首を宙に飛ばした。
二筋の血飛沫が、貞盛の目の前で噴き上がる。
「将門、俺の首を挙げてどうするのだ。それほど俺が憎いか。それとも朝命だからか」
呼吸を整えつつ、貞盛は声を荒らげた。
「どちらでもない」
抜き身を薙いで刃についた血を払いつつ、将門は言う。
「では何故、俺を殺す」
「坂東の地を安寧にするためよ」
「お前に和睦の書状を送ったではないか。坂東を平穏にしたいのならば、お前は和議に応じるべきだった」
「お前の父を俺は殺してしまった。もう後戻りはできん」
将門の頬が引きつった。
「まだ間に合う。俺は都で一生を送るつもりだ。お前を朝廷に訴えるつもりはない」
貞盛は、本気で将門の非を朝廷に認めさせようとは思っていない。
坂東に己の居場所はない。
将門の好きなようにすればよいと、本気で思っていた。
「騙されるか」
鬼神の如く目を見開くと、将門は手綱を振り絞った。
迫ってくる。
半ば諦めの境地で、貞盛は大刀を構えた。
将門に討たれるのも、悪くはないかもしれない。
弱気になった貞盛の耳に声が届いた。
「討たせるものか」
風車の如く大刀を頭上で回しながら、二人の間に真樹が駆け込んできた。
その背後に、好立が地に伏せているのが見えた。
まだ死んではいないようで、配下に支えられながら起き上がろうとしている。
将門と真樹が交差する。
甲高い金属音。
「貞盛、退くぞ」
真樹が将門に対峙したまま、叫んだ。
辺りを見回すと、他田の兵は将門軍に押されており、五十はいた兵が、すでに半数ほどにまで減じていた。
神川の上流で狼煙が上がっているのをちらりと確認すると、貞盛は将門に背を向けて走り出した。
真樹は、味方に撤退を呼び掛ける。
「逃がすかよ」
将門は、神川の反対岸へと逃げる貞盛と真樹を追いかけながら叫んだ。
すぐ後ろを追ってきている。
もし立ち止まれば、将門が己の首をはねるという恐怖を背中で感じた。
神川は乗馬したまま渡ることのできる浅い川である。
川の中ほどにさしかかった時、鋭い音が飛んできた。
肩越しに振り返ると、怪我を負った好立が矢をつがえているのが見えた。
風切り音。
それが何かに突き刺さる鈍い音。
身構えていた貞盛は、恐る恐る振り返る。
そこには、真樹の堅い笑みがあった。
「真樹殿、矢が……」
背に矢が突き立ったまま真樹は、
「案ずるな、構わず逃げろ」
「でも……」
川の岸に上がると、真樹はくるりと、もと来た方角へ向き直った。
「国分寺に火を放って、狼煙の合図としろ」
そう言うと真樹は、配下に貞盛を無事に都まで逃すように命じた。
将門が、こちらの岸辺に辿り着くのが目に入った。
「貞盛、お前なら大事な何かとやらで、奪い合いのない平穏な世の中を作ることができる。俺は、それに賭けることにした」
真樹はそう言い残すと、たった一騎で川を渡ってくる百騎の将門勢に挑みかかっていった。
「真樹殿!」
貞盛は後を追おうとしたものの、真樹の配下に手綱を掴まれ、逆方向へ引っ張られてしまう。
真樹の背が、みるみる遠ざかっていく。
その姿が米粒ほどの大きさになり、やがて将門勢に呑まれて消えた。
十年ぶりの国分寺であった。
境内に入る。
三人が逗留していた頃と、少しも変わらないように見えた。
他田の兵に手早く火をおこさせると、講堂、金堂、僧房の順に点火していった。
みるみる焔は大きくなり、天を衝くほどの大火となった。
ここで過ごした時間は、ほんのわずかであったが、貞盛の脳裏を次々と、この寺で過ごした記憶が掠めていった。
将門、好立、真樹、幸俊との楽しい思い出であり、己の才のなさを痛感した辛い思い出であった。
黒煙が上がる。
幸俊への合図の狼煙であった。
将門に神川のほとりで追いつかれた際、貞盛が真樹に伝えていた策である。
千曲川に合流する神川を上流でせき止め、頃合いを図って溜まった水を一気に下流へ放つ。
貞盛は燃える国分寺をあとに、千曲川を渡った。
後を追ってきていた、将門の兵が千曲川に足を踏み入れた時である。
北の山から激しい音が轟いた。
その音は次第に大きくなり、瞬く間に千曲川へと至った。
神川を流れ下った濁流は千曲川の嵩を倍増させた。
反対岸に渡り切っていた貞盛の全身に飛沫がかかる。
濡れるのも気に留めず、貞盛は対岸の将門を睨んだ。
相手の表情をはっきりと見ることはできなかったが、貞盛を追って渡河できずに右往左往している様が見て取れた。
己を信じてくれた真樹の仇を討つ。
貞盛は将門を嘲笑う代わりに、心にそう誓った。
貞盛は対岸を一瞥すると、都へと向かう若葉の生い茂る山道へと足を踏み入れた。
完
「啻率百余騎之兵、火急追征。以二月廿九日、追著於信濃國小縣郡國分寺之邊。便帶千阿川、彼此合戰間、無有勝負。厥內、彼方上兵他田真樹、中矢而死。此方上兵文室好立、中矢生也。貞盛幸有天命、免呂布之鏑、遁隱山中」(『将門記』)