逃げろ、貞盛(過去編) 7
信濃の夏は、終わるのが早い。
朝晩ひんやりとした空気に包まれる日が、幾日か続いたかと思うと、いつの間にか昼間でも肌寒い風が吹き始めていた。
逗留してから十日が過ぎた。
体の傷は、とうに癒えていた。
門外に轟くいくつもの馬の嘶きで、貞盛は目を覚ました。
小県郡中の貢馬が集まり始めていたのである。
望月牧から二十頭、塩原牧から十頭、新治牧から十頭、合計で四十頭が国分寺に集まった。
馬は興奮して鼻を鳴らしたり、しきりに足踏みしたりしていたが、馬の世話をする下人たちに従い一匹として暴れ出す馬はなかった。
「今年も立派に育ってくれた」
門前に並ぶ馬を眺める真樹は、嬉しそうである。
普段から馬に乗り、草を与えている真樹の横顔は、貞盛から見ても幸福そうだった。
「真樹殿も京まで来られるのですか」
「いや、俺は筑摩郡の国府までだ。それからの道程はくれぐれも頼んだぞ」
「馬を襲う賊などいるのか」
出立の仕度を整えた好立が、馬に跨ると真樹に尋ねた。
「最近はいないが、数年前、東山道と東海道で馬を盗む賊が横行していたらしい。馬は貴重な労働力であり交通手段でもある。ゆえに狙われることが多いのよ」
昼前に国分寺を出立することとなった。
真樹が先頭に立つのだとばかり思っていたが、それは配下の者に任せ、ちょうど列の中間を、貞盛、将門、好立、真樹の四人で固まって進むこととなった。
賊が前から来ても後ろから来てもすぐに対処できるように、とのことらしい。
東山道を西へ進む。
四十頭の馬を連れながらであるので、のんびりとした行軍であった。
「あのような者たちを出さないために、貞盛、お前はどのような世を作ればよいと思う」
隣を進む真樹が唐突に言った。
碓氷の峠で襲ってきた賊のことを言っているのだと理解するのに、少し時がかかった。
「それは……、わかりません」
領民たちが国分寺に詰めかけて来た日から、貞盛はずっと思案してきていた。
「戦いを専門とする集団を作ってしまえばいい。税は朝貢のためではなく軍団のために納めるようにする」
将門も滞在中、ずっと考えを巡らせてきたのだろう。
貞盛と真樹の前を進む将門は、前方に顔を向けたまま続けた。
「そして、賊から領民を守るのだ。そうすれば民が賊に身を落とすこともなくなるし、農耕に集中して励むことができる。俺はいずれ坂東に帰ったらそういう組織を作ろうと思う」
将門は誰に言うでもなく、はるか前方の山々に宣言しているようであった。
「それだけでは、賊を完全になくすことはできぬと思う」
口を挟んだのは好立であった。
「はっきりとしたわかりやすい規則を定めるべきだ。宗教ではいけない」
好立の口から宗教という言葉が出たのは、国分寺の廃墟で過ごしたからであろう。
二百年前に国分寺建立の詔が出されたが、果たして国は平和になっただろうか。
少なくとも小県郡の国分寺は廃れていた。
「領主がもっと規則を細かく定めれば、世の人々は規則のもとでは平等となり、野盗のような輩はいなくなるのではないか」
くぐもった声で、しかし、はっきりと好立が言った。
「貞盛は、どう思う」
将門が不意に首を後ろに少し回して、貞盛に視線を送ってきた。
「どちらも必要に思う」
しかし、それ以上の言葉が続かなかった。
もう一度、賊に襲われてから国分寺で過ごしてきた間に考えてきたことを、頭の中で整理しようとした。
しかし、取っ散らかったまま、それは形を取らなかった。
「統率された武士も細かく定めた規則も必要だとは思うが、その根本に、もっと大事な何かが必要だと俺は思う。お上は民から税を奪う。奪われた民は他の民から奪おうとする。こういう人から奪うという考え方そのものが間違いだと思う」
やっと言葉にしたが、それはふわふわと宙に浮いた言葉であった。
「綺麗事だな」
将門は呆れたように首を振り、前方に向き直った。
「そうかな」
右手で耳飾りに触れながら、真樹は嬉しそうに呟いた。
「真樹はすでに郡司という役に就いている。民から税を奪わねばどうやって生きていくのだ」
将門の言葉は、冷たく聞こえた。
「その通りだ。しかし、山賊から旅人を守ったり、怒り狂った民を宥めたりする役も、時には必要だぞ」
したり顔で、真樹は言い返す。
「その賊や怒り狂った民を、如何に出さないようにするかを話しているのではなかったか」
好立が真樹を睨んだ。
将門を侮辱した真樹に腹が立ったのだろう。
「規則を作るのは役人の勤めだろう」
貞盛は、なぜか真樹を弁護していた。
結局、答えは出ない。
四人は黙り込んだ。
一行は夏の終わる峠道を黙々と進んだ。
山をひとつ越えると、集落が見えてきた。
筑摩郡、信濃国府である。
「俺はここまでだ。道中、困ったことがあれば、幸俊を頼るといい。ああ見えても三年前から馬を運ぶ手伝いをしてくれている」
背後に従って来ていた滋野の少年を指さしながら、真樹は言った。
「また、会えるよな」
貞盛は、名残惜し気な真樹を見て、寂しい心地になった。
短い間ではあったが、この男に心を寄せていたのだということに気がついた。
「ああ。京からの帰路に、また立ち寄ってくれ」
真樹は、一行に馬上から手を振って見送っていた。
「その時はもう一度相撲を取ろう」
将門は片手を上げると、振り向きもせずに言った。
「……またな」
好立も、手を不愛想に振り返す。
真樹の姿が徐々に遠のいていく。
貞盛は、いつまでも手を振って見送る真樹を、何度も振り返っては手を振り返した。