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逃げろ、貞盛(過去編) 5

「私たちはどこで逗留するのですか」


 明くる朝、四人は海野城を出立すると千曲川沿いを西に進んだ。

 故郷の坂東では、蒸すような暑さになる刻限でも、川辺を吹き抜ける風は涼やかである。

 清めた傷が再び燃えるような痛みを放ったが、涼風がいくらかそれを和らげてくれた。


「ここから一里ほど行ったところにある国分寺だ。いまは使われていないから誰もいないが、小県郡周辺の貢馬を一旦そこに集めてから国府まで行く。それまで国分寺にいるといい」


 真樹は、大きな欠伸を放ちつつ言った。


 国分寺。

 天平十三年(741)に、聖武天皇が仏教による鎮護国家を願って、各国に建立を命じた寺院である。

 いまでこそ信濃の国府は筑摩郡にあるが、この詔が出た当時は、小県郡が信濃の国府であった。

 そのため信濃の国分寺と国分尼寺は、海野城からほど近い神川を渡った先の千曲川沿いに建立された。

 しかし、国府が移ると役人による支援がなくなり、国分寺と国分尼寺には僧もいなくなっていった。

 いまや廃墟同然だという。

 その寺院で寝泊まりしろというのである。


 神川という小川を、馬で渡ってからほどなく、それは見えた。

 百間ほどの築地塀に囲まれた僧寺と、同じように築地塀に囲まれた尼寺が、厳格な雰囲気で並んでいる。

 近くに寄ると、築地塀が所々崩れており、南大門の瓦も数か所ではあるが剥がれ落ちていた。

 中に入ると、右に僧房があり、正面には中門が構えられていた。

 その奥に金堂と講堂があるらしかった。

 確かに、人が十日ほど寝泊りするには十分なように感じられたが、亡霊やら妖やらが出そうで貞盛は身震いした。


「真樹殿、お、お主もここに滞在するのか」


「いや、ここからさらに西に二里ばかり行ったところに俺の館がある。心配するな。日に一度は馬を駆るついでに食料と必要な物を運んできてやる。井戸もあるうえに、昔使っていた寝具もある。それとも何か。妖の類が出るとでも思っているのか」


 真樹は、呵々大笑しながら不安げな三人を残して、颯爽と南大門の外へと駆け出ると、一目散に西へと去っていった。

 

 翌日から昼頃になると食料を届けに、真樹が国分寺に来た。

 ついでとでもいうように、夕餉を共にすることもあった。


 大勢の領民たちが、国分寺の南大門前に詰めかけたのは、逗留三日目のことである。

 農具やら棒やらを手に持った領民たちは、怒声を上げて騒ぎ立てている。


「何事だ」


 寝起きしている僧房から、慌ただしく出てきた好立が、乱れた衣服を整えながら境内に現れた。

 

「ここに来る峠道で賊に襲われただろう。あれはここの領民だった。その親族たちが復讐のために襲ってきたのだ。俺たちは殺されるかもしれない」


 貞盛は、先ほどから外の異様な雰囲気に気づき、ずっと農民たちの様子を窺っていた。

 彼らの声から、その意図を察したのである。

 女や子供も混じっていた。

 騒々しい叫び声が、門の内側まで届く。

 門を打ち破って、中に押し寄せかねない騒ぎであった。


「襲ってきたのはあいつらだぞ。俺たちは抵抗したに過ぎない」


 好立はひどく動揺していた。


「上等じゃねえか。全員屠ってくれる」


 将門は()()を引っ提げて境内に戻ってくると、門を内側から開けようと歩き出した。


「待て、将門。ここで争いを起こすのはよくない。きっとそのうち真樹が来て民衆の怒りを収めてくれる」


 門扉に手をかけて、今にも飛び出さんばかりの将門の肩を掴みながら、貞盛は言った。


「今回はそれでいいかもしれん。だが、これがずっと続くかもしれんのだぞ。こちらにも正当な理由があって、襲ってきた奴らを殺したんだ。盗賊を返り討ちにしたからといって、文句を言われる筋合いはない」


 将門は憤怒の形相である。

 そうかもしれない。しかし、相手は真樹の領民である。世話になっている領主の民と騒動を起こすのは恩知らずというものである。

 貞盛の思惑とは裏腹に、好立すらも弓を持ち出してきて、領民に矢を射かけんばかりの勢いである。


「俺に、任せてほしい」


 貞盛は唾を飲み下すと、蚊の鳴くような声で呟いた。


「詰めかけている人数は、五十はいるのではないか。お前だけでは無理だ」


 好立はあくまで、将門と共に相手を力で捻じ伏せるつもりらしい。

 しかし、将門は意外にも、


「お前一人でいいのだな」


 と素直に門の前を譲った。


「ああ、一人のほうがいい」


 自信はなかった。

 しかし、こうすることが最善であると貞盛にははっきりとわかっていた。

 震える手に力を込めて門扉をゆっくり引く。

 一斉にいくつもの怒りに満ちた目がこちらを向いた。

 領民たちが、農具や棒などの得物を構え直す。

 この光景を後ろの二人が目にしたら、喧嘩になることは間違いない。

 貞盛は門の外に出ると、急いで扉を閉じた。


「何用か」


 貞盛は、努めて冷静を装ったが、全身が小刻みに震えていた。

 怯えが伝わったのだろう。相手が一人だけだと知ると、農民たちは再び声を荒らげた。


「よくもわしの息子を殺したな。息子を返せ」


「俺の弟もだ。仇を討ってやる」


「父の恨みを晴らしてくれる」


 老若男女が、幾重にも貞盛を取り囲んだ。

 じりじりと得物を構えて輪を縮めてくる。

 貞盛はひとつ深呼吸をしてから、


「すまなかった。あの時は我らも必死だったのだ」


 頭を下げた。

 民衆は一瞬静まり返った。

 貞盛のこの態度が意外だったのだろう。

 しかし、暫くののち、再び怒号が飛び交う。


「謝っても兄者は帰ってこない」


「罪を償え」 


「お前も死ぬべきだ」


 罵声が貞盛に降りかかる。

 それと同時に石礫がいくつも飛んできた。

 一つが腿に当たり、一つが頭に当たった。

 あえて避けなかった。

 鈍い痛みが走る。


「でもな」


 貞盛はそこで、きっ、と顔を上げて、己を取り囲む人々を睨んだ。


「でもな、先に我らの荷を狙って襲ってきたのはあいつらだ。それは、お前たち家族に少しでも楽をさせてやろうとしての行動だったはずだ。生活が苦しいからこそ、起こした行動だったのではないかと俺は思う。だから、悪いのはすべて襲ってきたあいつだらだとは言わん」


 貞盛はそこで息を継いだ。

 己でも、自身の声の大きさに驚いていた。

 さらに続ける。


「本当に悪いのは誰なのか。生活を苦しめているのは何なのか。それは朝貢の税が重いと知りながらそれを強いる役人だ。お前たちから収奪する賊を取り押さえる力を持たない役人だ。そして俺もその役人になるために京に上る。頭を下げたのは、領地を統べるすべての役人たちに代わって謝したのだ」


 民たちは黙った。

 まるで、未知のものでも見るかのように唖然としている。

 暫くすると、その沈黙を破るかのように、遠くから馬蹄が近づいてくるのが聞こえた。


「お前たち、何をしている。大事な客人だぞ」


 馬上の真樹が、貞盛と領民たちの間に駆け入ると、両の掌を広げながら叫んだ。


「よく聞け。この者は常陸大掾平国香殿の御嫡男、平貞盛殿であらせられるぞ。貞盛殿に頭を下げさせるなど言語道断。稲の収穫時期が迫ってきているというのに、このようなところで時を費やしている場合ではない。各々、村に戻り、刈り入れの仕度を整えよ」


 突然現れた領主に驚きつつも、誰も抵抗しようとする者はいなかった。

 ぶつぶつと口先で何か文句らしきことを言っていたが、ひとりひとりその場を立ち去りはじめた。

 貞盛は、民たちに何かを言うべきだと思い、口を半分開いたが、言葉が見つからなかった。



「貞盛、なぜ一人で出て行ったのだ。襲われていたかもしれないのだぞ」


 国分寺の境内に戻ると、憤怒の形相で真樹が詰め寄ってきた。


「それに将門と好立も、なぜ貞盛を一人で行かせたのだ」


「貞盛ならば、場を収めることができると思った」


 申し訳なさそうに好立が口籠る。


「お前も見ていたであろう。貞盛の言葉を聞いた領民たちから殺気が霧散していくのを」


 どうやら門をうっすら空けて、貞盛を農民たちの掛け合いを聞いていたらしい。

 将門は、貞盛が一人で民衆達を説いたことを、さも当然であるかのように言った。

 それには真樹も反論できないでいた。

 真樹も終始、己と領民たちのやり取りを遠くから窺っていたようであった。

 それならば、領主らしくはじめから出てきて騒動を鎮めてくれと思いつつ、貞盛は額から血が出ていないことを掌で確かめた。


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