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逃げろ、貞盛 3

 一室を与えられた貞盛は、疲弊しているにもかかわらず、気が張っているためか、なかなか眠りにつくことができなかった。


「貞盛殿、急ぎ出立の御準備を」


 障子からうっすらと太陽の光が差し込みはじめて、間もなくのことであった。

 幸俊の慌てた声に、朦朧としていた意識から覚醒した貞盛は、がばりと寝具をはねのけた。


「如何した」


「早馬の報せによれば、昨日の追手が日の出とともに峠を越し、こちらに向かってきている、とのことにございます」


 幸俊は早口に述べた。


「やはり来たか。坂東の外と言われる信濃まで追いかけてくるとは……」


 奴が追跡の手を緩めるとは思っていなかったが、ここまでは追ってこないのではないかという淡い期待が、貞盛の脳裏に少しばかりあったのである。

 苛立ちを押し殺しつつ、急ぎ衣服を改めると、幸俊に馬の用意を要望した。


「真樹殿のもとへ参りましょう。昨晩のうちに貞盛殿がこちらに逃れてきたことを伝えてあります」


 館の表に馬を曳いてきた幸俊に、貞盛は無言で頷いた。

 幸俊は、昨日と同様、二十騎ばかりを護衛として共に連れている。


(真樹殿が私を捕らえる、ということはあるまいか)


 貞盛の脳裏に一抹の不安が過った。


 他田真樹(おさだのさなむら)。なにせ、この男に会うのは十年ぶりである。

 貞盛は、全幅の信頼を寄せていいのかどうか判断しかねていた。


 海野城を出立した直後である。

 背後から、馬の嘶きと馬蹄が次第に近づいてくるのが聞こえた。追手である。


「もうそこまで来ていたのか」


 貞盛たちも、追いつかれまいと一気に加速した。

 しかし、平地では坂東平野で育った馬の方が、より速い。

 徐々に追手との距離が縮まってきた。


「貞盛!逃がしはせん!」


 追手の先頭を走る武者が野太い声を張り上げた。

 背が高く、周りに従う者よりも頭ひとつ抜きんでていた。

 ()()を腰に佩いたその男の体躯は、誰よりも逞しい。


将門(まさかど)……」


 背後を確かめた貞盛は、下唇を噛んだ。


 平将門(たいらのまさかど)。貞盛の従兄弟であり、父の仇でもあった。

 坂東における争乱の張本人のひとりであり、太政大臣に追捕使に任じられた坂東一の猛者である。

 貞盛はこれまでずっとこの男から逃げてきていたのである。


 貞盛は、目を瞑って思考を巡らせた。

 いかにこの窮地を脱するか。

 風切り音。

 迫りくる馬蹄。

 荒い馬の息。


「直に追いつかれてしまいます。反転して、迎え撃ちましょう」


 馬を寄せてきた幸俊が、声をかけてきた。

 しかし、貞盛は首を横に振ってそれを拒んだ。

 戦をしても勝ち目はない。

 かといって、この状況を打開する案を思いついているわけでもなかった。

 味方が二十に対し相手は百。

 しかも、それを率いる男は頗る強かった。


 領地問題で平氏一族が争った際、将門は百騎の手勢を率いて数千もの敵に真正面から挑みかかり、これを潰走させている。

 将門は少数精鋭の騎馬隊の扱いに長けていたのである。それも、古今東西、聞いたことがないほどの強さである。

 さらに将門本人も、喧嘩が強い。

 貞盛は幼い頃から共に過ごしてきたが、この男が他の誰かに負けるところをただの一度も見たことがなかった。

 その男が、今まさに獲物を標的とした虎の如く、背後から迫ってきているのである。


「前方に、神川という小川が流れています。そこを渡るときに追いつかれてしまえば、ひとたまりもありません。戦の御決断を」


 幸俊は焦っているだろうにもかかわらず、凛然としていた。

 貞盛は、なおも迷った。

 次の瞬間、びゅん、という風切り音がした。

 直後、悲鳴。

 海野の郎等が一人、敵の矢で射貫かれたのである。

 貞盛が後ろを振り返ると、将門の横で矢をつがえている騎馬武者がいた。


好立(よしたつ)か」


 文屋好立(ふみやのよしたつ)。将門の上兵であり、騎射の名手として、坂東一帯にその名を轟かせていた。

 一矢で二人を射貫く、と言われるほど好立の矢の威力はすさまじく、狙いも正確無比。

 貞盛とも、旧知の間柄であった。

 再び、貞盛の背後で悲鳴が上がった。

 射貫かれた者が、周りの二人を巻き添えにして落馬したのである。

 一瞬、振り返った貞盛と好立の視線が交差する。

 好立の顔に冷笑が浮かんでいたように見えた。

 狙いが己に定まるのを、背中で感じた。


「貞盛殿、御決断を!」


 幸俊は先ほどより、いくらか取り乱していた。


「駄目だ」


 迎え撃っても将門の騎馬兵が海野勢を蹂躙するだろう。

 しかし、逃げ続けていても、いずれ好立の矢で味方が順々に射殺されかねない。

 

(ここまでか)


 諦めかけた時、貞盛の耳のすぐ横を前方から跳んできた矢が後ろへと通り過ぎた。

 それを目で追う。

 矢が好立の右肩に突き立つのが視界に入った。

 前方、神川の手前に三十騎ばかりの兵が陣取っていた。

 その陣頭にいる男が、矢を放った男だろう。

 艶やかな長髪を靡かせ、耳にいくつもの飾りが光っているのが遠目からも見えた。


「貞盛―!」


 端正な顔立ちで、一目では女に見紛いそうな男が、こちらに向かって手を振っていた。


「真樹殿!」


 無邪気な笑顔を浮かべている他田真樹に、貞盛が呼び返した。


「久しぶりだのお。変わりないかあ」


 眼前の真樹は、抱きつかんばかりに貞盛を歓迎した。


「ああ、昔のままだ。真樹殿も元気そうだな」


 ここ数日、いや数か月、もしかすると数年もの間、緊張し氷結したようであった貞盛の心は、久方ぶりの友との再会に、一気に氷解するようであった。


「そうかそうか、貞盛は達者だったか」


 真樹はそう言うと、ぽんぽんと貞盛の肩を叩いた。

 しかし次の瞬間には、凍てつくような眼差しを貞盛の後方へと向けていた。


「お主も久しぶりだの、将門」


 弓を傍らにいた従者に手渡しながら言うと、真樹は馬を前進させ、背中に指した()()を鞘からすらりと抜いた。

 その顔には、どこか不敵なものが混じっている。

 百人の郎等とともに追いついていた将門が、これもまた口角を吊り上げつつ、腰に佩いた反りのある()()をさっと抜き放った。


「他田真樹―!お前はそっちにつくのだな」


 将門の大音声が河原一帯に響き渡る。


「お主は、十年の間にすっかり変わっちまったようだな」


 ()()を頭上で器用にくるくる回しながら、真樹がさらに馬を進ませた。

 貞盛がその後に続く。

 向かいにいる将門と、痛みに顔を歪めた好立もこちらに進み出てきた。

 ちょうど貞盛と将門、真樹と好立が互いに向かい合う位置で、両陣営の中間に対峙する格好となった。

 一陣の風。


「変わったのはこの世だ。俺は、この世に合わせて己を変えているのだ。お前らが十年前に取り残されているに過ぎない」


 抜き身をぽんと肩に担ぎつつ、将門が言う。


「お主は、大切なものまで変えてしまったのだな」


 ()()を頭上から眼前に持ってくると、切っ先を将門に向けながら、真樹が言った。


「そうかもしれんが、そうさせたのも世の中だ。無駄話はもうよい。貞盛をこちらに渡せ」


 将門が、吐き捨てるように言う。


「貞盛をどうする気だ」


「殺す」


 将門が()()をさっと横に凪ぐと同時に、後ろに控えている百騎の武者が一斉に弓に矢をつがえた。


「させるか」


 真樹が頭上に()()を振りかざすと、三十の他田の手勢が、これもまた弓矢を構えた。


「貞盛は川を渡って逃げろ」


 視線を将門に向けたまま、真樹は横に立つ貞盛に囁いた。


「俺も戦う。敵を討つ策を思いついた」


 貞盛は真樹に馬を寄せて、耳元で計略を伝えた。

 真樹は黙って頷くと、空いている左手で幸俊を招いて策を伝える。


「どうやら貞盛を渡す気はないようだな」


 真樹のもとから川上に駆けていく幸俊を眺めつつ、将門が言った。


「あるわけないだろ」


「覚悟はいいな」


 将門が脇へ向けていた()()の切っ先を前方に向けるのと、真樹が頭上の()()を振り下ろしたのは、ほとんど同時であった。

 瞬間、無数の矢が宙を飛び交う。

 いくつもの鋭い弦の音があたりに起こり、いくつもの低い呻き声が上がった。


「かかれ!」


「貞盛を渡すな!」


 両者の掛け声とともに、両軍の兵が互いに向かって馬蹄を轟かせつつ駆け出す。

 貞盛も同じように、将門めがけて駆け出すと、腰の()()を抜き放った。 

 向かってくる将門の姿がみるみる大きくなり、()()()()が火花を散らした。


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