逃げろ、貞盛 1
紅の残照は稜線の向こうへ消えゆこうとしていた。
鬱蒼とした森。
そのさらに奥には岩壁がそそり立ち、まるで坂東平野を囲う塀のように行く手を遮っていた。
それでも貞盛は追手から逃れるために走った。
碓氷峠さえ超えれば、奴は諦めるだろう。
貞盛はその一念で、重くなりつつある己の足を前に動かし続けた。
すでに息は絶え絶えになっており、一歩前に足を踏み出すたびに倒れ込みそうになるのを必死で堪えた。
眩暈がした。
ひりつく喉。
頭を打つ己の脈動。
碓氷峠を超えぬうちに、体は限界を迎えるだろう。
しかし、追手に捕らえられれば命はない。
奴は非道な男に落ちた。かつての奴は、あのような男ではなかった。
貞盛はふと後方を振り返った。
(見つかった)
十人ばかりの馬に乗った男たちが、こちらを指さして何か喚きながら迫ってくる。
直に追いつかれてしまう。
貞盛は無我夢中で、山道から森の中へと駆けこんだ。木々に隠れながらであれば追手を巻くことができるかもしれない。
地に手をつきながら、ひたすら道のない山中を駆け上がっていった。
暫くして身を隠せそうな大木をみつけるとその影に潜った。
「どこだ。諦めて出てこい」
先ほどまでいた山道のあたりから、野太い地を這うような声がした。
身の毛がよだつ。
(ここまでか)
貞盛は、紅から紺に豹変しつつある空を見上げながら、溜息を吐いた。
先ほど逃げる姿を見られてしまったため、周辺を探索すればこの場所はすぐに見つかってしまうだろう。
貞盛は太刀を両手に抱え、瞼を閉じて思案した。
見つかるのを覚悟でさらに山奥に逃れるか、諦めて最期を華々しく飾るか。
「平貞盛殿でございますか」
囁くような小声で突然己の名前を呼ばれた貞盛は、驚きのあまり体が一瞬、宙に浮いたような衝撃を受けた。
「誰だ」
いつでもこの場から離れられる体勢を取りつつ、小声で問い返す。
「私です。幸俊です。海野幸俊にございます」
向かいの木陰から、小柄な男が顔を覗かせた。その背後に、坂東では見かけぬような小さな馬を二頭連れている。
幸俊と聞いて、暫くは思い当たる人物がいなかった。
しかし、薄明りの下に姿を現した二十歳ほどの男を見た貞盛の脳裏に、ふと過去の記憶が突如として蘇ってきた。
「善淵王の倅か」
懐かしさのあまり己の今の境遇を忘れ、思わず大きな声が出てしまった。
善淵王。またの名を滋野恒成という。
滋野氏は清和天皇の子孫であり、国司として信濃に赴き、土着した豪族である。
その子孫の嫡子が目の前の若者だった。
海野という姓で名乗ったことから、信濃の海野という地名から取って姓を変えたのだろう。
貞盛は過去に一度、京へ上る途中に善淵王のもとで厄介になったことがあった。その時、十ばかりになる嫡男がいたことを思い出したのである。
「いたぞ。あそこだ」
下の方から声がした。
どうも先ほどの己の声で、居場所を勘付かれてしまったらしい。
「貞盛殿、こちらの馬をお使いください」
幸俊はそう言うと、一頭の手綱を貞盛の手に握らせた。
困惑していると、
「御心配なく。信濃の馬は山をも駆けます」
頬を緩ませた幸俊が、ひょいと馬に跨った。
貞盛もそれに倣う。
「坂東の馬はここまで登ることはできないでしょう。追いつかれることはありません」
傾斜を駆けつつ、馬上から幸俊が声をかけてきた。
実際に背後では、急坂を前に乗馬を諦める追手の気配がした。
「なぜ、私を助ける」
馬上で貞盛は尋ねた。
「父上の命にございます。早馬で坂東の情勢はすべて伝わってきております。父上は何があっても貞盛殿をお助けする御決意にございます」
風に靡く髪が顔にかかるのを払い退けながら、幸俊は応えた。
昨年の承平七年(937)十一月、太政官符が奴のもとに送られたという伝聞が広まった。
坂東の争乱を巻き起こした元凶である、平貞盛を捕らえるよう命じたものらしい。
これによって貞盛は追われる身となっていたのである。
つまり己を助けるということは、朝廷に逆らうことを意味した。
にも拘わらず、海野幸俊と父の善淵王は己の味方になってくれるというのである。
「かたじけない」
貞盛は風に流されてしまいそうなほど、小声で言った。
「実は、真樹殿が熱心に説得したことで、父は心を決めたようです」
懐かしい名前に、思わず息をのんだ。
「真樹殿か。達者にしておるのか」
「はい。相変わらず、でございますよ」
幸俊の声はどこか弾んでいるように聞こえた。
それにつられて貞盛の口辺も少しばかり緩んだ。