揺野さんと朝
微かな吐息が聞こえる。頭が重い。ぼんやりしながら目を開けると僕は特に個性もないような部屋のソファに座っていた。着ているのは出社用の服だから飲み会の帰りということは、理解できる。ここがどこかは分からない。飲み会の後の記憶もない。分からないことが多い。何より分からないのは──、
下着すら纏わぬ裸の揺野がそばにいたことだった。
どういう経緯でこうなったかは一切分からない。
彼女は自分だけ服を着ていないどころか今まさに僕に裸を見られたはずなのに恥ずかしがることもなくへにゃりと笑い、僕の膝から降りた。一体これからどうすればいいんだろう。というか何を言うのが正解か、悩んでいれば彼女は僕にほおずりして甘えてくる。意味が分からない。なんでこんなこと。僕は何を求められてるんだ。相手は上司だしこんなの駄目だ。人生がおわる。でもなにかして彼女の機嫌を損ねたら今後の仕事に響くのでは。いやもうこんなことをされている時点で仕事がどうこうじゃない。動画でもとられたら。でも動画を撮られて困るのは揺野のほうじゃないか……?
いや、でも僕が脅したと思われるのか。相手は上司だけど年下の女の子だ。というかどんな立場であっても僕が責められる。
なのに揺野は幸せそうに微笑んでいた。やっぱりこんなところ見られたらまずいのは彼女のほうでは。僕はただされているだけだし。下手に喋らないほうがいいかもしれない。
「ふふ」
一方で揺野は無邪気に笑う。
なんなんだこの女は。初めてじゃないというか、僕の知らない僕を正確に把握しているみたいだ。僕が知らない間に何度かしてたということか?
だとしたらとんでもない女なのに、揺野の表情は清らかで頭が混乱してくる。
男だったら誰でもいいのか。僕なんかにこんなことが出来るのだから。そう思うと苛々してくるしやるせなさでどうしようもなくなるのに、彼女はこちらを見下してくるどころかずっと幸せそうなので、感情の行き場が消える。
なんなんだよ。
聞いてやりたいけど聞けない。
会社の人間は彼女のこのありさまを知らないのだろうか。それとも今まで僕だけ知らなかったのだろうか。考えているうちに彼女は僕を力いっぱい抱きしめる。
「──すき」
彼女が囁いたその瞬間──聞きなれながらも不愉快な振動音が額のすぐそばで響き、目を開ける。
視界に映ったのは、まさに今、起床アラームを知らせてきたスマホと、カーテン、安っぽい収納に、一応気力があったときに買った机と椅子しかない僕の部屋だった。
すべてを悟った僕は大きくため息を吐く。確認せずともわかる絶望的な感触に全て察して、起き上がらずに箱ティッシュから三枚取り出し、また大きくため息を吐いた。
死にたい。動きたくない。会社に行きたくない。
それ以外にない。
◇◇◇
流石に夢のせいで休むのは無様すぎるので、僕は絶望的な気分になりながらも出社した。
朝、ちょっとでも時間に余裕を持たせてしまえば揺野が話しかけてくるのは明白なのでぎりぎりを狙い出社し業務に集中する。変なことに気を使いすぎたせいで、会社に入る前に昼を買うのを忘れた。昼はセルフレジも混むし最悪だ。こんな調子いつまでも続けていられないし、このまま会話せず一日をやり過ごし明日からは普通にする。
誰に向けてかも分からない免罪符を胸に、いつにもなく仕事に打ち込んでいれば、運が悪いことに横の派遣の女が、通路を歩いていた揺野に話しかけた。
「揺野さん爪綺麗ですねー」
何気ない日常会話だ。僕には関係ない。
「え、何突然」
「今歩いているの見てたら、あって思って……ネイル映えそうだなーと思って。されないんですか?」
「いや……綺麗なんて初めて言われたし……」
「えー! そうだったんですか? じゃあ今度一緒に行きましょうよ~! 私の友達がやってるとこ、新規キャンペーンしてて」
わざとらしい口調で派遣の女が話す。その声があまりに煩く、つい視線がそっちに向いた。幸い、僕が座っていて揺野は立っているから顔を見ずに済んだ。ただ、派遣の女は揺野の手を掴んでいて、もろに揺野の手を見てしまった。
「爪がさー私、向いちゃうって言うか、気になっちゃうんだよね」
そう言って揺野は自分の人差し指の爪を親指にあてるようにこする。その人差し指と親指で輪っかを作る手つきが、本人は無意識とはいえ夢を彷彿とさせ、僕はモニターを前にし、なんとか仕事に意識を集中させることで気持ちを切り替える。
絶対に話しかけてこないでほしい。絶対に。あえて別のファイルを開き、別に今日やらなくてもいい入力作業をしていると、案の定揺野が話しかけてきた。
「ねぇネイルしたほうがいいと思う?」
聞こえないふりをしたかったけどタイピングの指が止まってしまった。このまま無視すれば確実に職場の反感を買うので仕方なく「いや、分かんないっすね」とだけ返事をする。
「えー分かんないって何? つけてるのがいいとかなんもつけてないほうがいいとか無いの?」
揺野は僕の回答が不満だったらしい。食い下がってきた。勘弁してほしい。というか仕事してほしい。そこまで仕事好きじゃないけど。
「いや、なにも」
「じゃあ何もつけないほうが好きってこと?
もう全部が嫌になる。無邪気な疑問も。声音も。全部。僕は半ば投げやりになって「いや、関係ないんで」と切り捨て一方的に会話を終え、僕はそのまま入力作業を再開させた。先輩にする態度じゃないけどそもそも今は仕事中だしネイルの話をする時間じゃない。そもそもこっちの意見に何の意味や価値があるというのか。そういうのは女同士で解決するものだろ。どう考えたって。
「私にはあるし」
揺野がいじけるみたいに呟く。
幻聴だと言い聞かせた。