揺野さんの上下関係
「彼女がミスをしたというのは事実ですが、同時に、そちらには、彼女のミスに対応する義務が発生するので、その初動対応が遅れた理由について、お伺いしたいのですが」
飲み会あけ、少しだけ浮ついた気持ちを押さえつけながら出社し何も変わらない揺野に安堵しつつ仕事を進め、社内で昼を食べるほど心境の変化はないので外で済ませて戻ってくると、自販機のあたりで揺野が社員の男を注意していた。
社員の男は揺野の正統な後輩にあたり、彼女より年下で社歴も短いが、普通に僕より社歴は長い。丁度彼が独り立ちのタイミングで僕が入ってきたから、そこまでの関わりはない。体育会系の雰囲気を持ち、朝夜とランニング、休日は筋トレをし、化粧水の話を派遣の女としているような、ビジネス方面ではない意識高い系の男だ。そして、先日派遣の女にスルーされた男でもある。
「だってあいつの進捗が遅れて、こっちだってキャパの問題もあるし」
「それを補うのも頼んだ仕事に入っていますよ」
「……っ」
「質問を変えます。叱責を事態収拾が終息した後に行った理由について感情以外の理由があれば、それを知りたいです。もし、理由があるのでしたら、それを考慮しますし、私もフォロー対策を立てたいので」
「……ないです。普通にヘラヘラしてるの腹が立って……笑って許されると思ってるって言うか、なんか、軽く仕様としてる感じが、反省してないって言うか……」
「まぁ、態度が悪かった場合、感情的になるのは仕方ないですが、出すのと出さないのとでは大きな違いです。最優先すべきことはその場のトラブルの早期解決と再発防止です。それに今はパワハラ等のリスクもあります。パワハラを受けたと彼女が上に訴えた場合、第三者の前で客観的な説明はできましたか? 自分はしてないと、言えましたか?」
「……」
「もし、不安に思うようなら、優先順位への意識を改めてください。特に懸念がなければ、リカバリーのみ徹底していただければと思います。私からは以上です」
「……すみませんでした」
「はい」
揺野は「では甘いものでも飲んで、仕事、頑張ってください」と懐から小さなチョコレートを渡した。なんとなく、へその上の、肩甲骨のあたりに力がこもり、喉ぼとけに靄がかかるみたいなむず痒い不愉快が襲う。
ミスをしないように努めていた。前の仕事は失敗なんて許されない、失敗はするけどしたら最後、普通に誰にも助けてもらえないから。フォローなんかされないし自己責任。その後どうなるかなんて分かったものではない。謝って許される世界じゃなかった。
だからミスなんて出来ない。そう思って今もしてる。そのかいあって、こんな風に怒られたことは無い。一応、器用にこなしていたと思う。期待を裏切らないように。特にここ最近はたるんでると思われないよう、特に気を張っていた。
そして男はミスをして、なんなら派遣の女もミスをして、僕はミスをしていないという、正直、有利な状況だけど全然優位性が感じられない。なんか、勝手に、僕はミスをしたときこう言ってもらえるのだろうかという猜疑心が浮かぶ。
部下を見送った揺野に声をかけることも出来ず眺めていると、スッと、まるでセルフレジでの一件を再現するみたいに僕の前を男が横切った。揺野の上司だ。
「指導も様になってきたな」
「ありがとうございます」
上司は無糖のブラックコーヒーを買いながら、揺野へ自然に話しかける。僕より十歳年上で、揺野とも年が離れている。どこの企業にもいるような男だ。当たり障りない、仕事の出来る男。
「そういえばチョコ食べたか? あれ新案件の奥様から貰ったやつだから気の利いたこと言わなきゃいけないんだけど」
「今、丁度指導のフォローに活用させていただきまして」
「勘弁してくれよ。あれお前にしかやってないんだぞ」
「セクハラでしたか? つい上司の親切だと受け取っていたのですが」
「何言ってんだ馬鹿」
普段、軽口を言わない上司が、半笑いで揺野にツッコミを入れる。
「取り返してきましょうか」
「お前がやったんだろうが」
「まだ間に合うかもしれないですけど」
そして揺野は、後輩らしいムーヴで応えていた。上司と二人きりのときを見たことが無かった。こんな感じだったんだ、となにかフィルターを通して観察している離人感に襲われる。僕だってこういうことをする。先輩には後輩ムーヴで、後輩には先輩ムーヴで。それと彼女のしていることは変わらないのに、そう思おうとすると、本当か、それはただの僕の希望なんじゃないかと反論が脳内で始まり、なんでそんなところに希望を見ているのか探ろうとして、最悪な気分になる。
ただ、確かなのは、揺野は自然で本物で、僕は違うということだ。
僕がしていたことは処世術じゃなく、ただ痛いだけのパフォーマンスだった。そんなパフォーマンスを、知らず知らずのうちにずっと続けていた。なんで今まで気付かなかったんだろう。
今僕は、揺野と上司と、同じフロアにいる。床だって地続きで隔たりもないのに、自分だけ急速に遠ざかっているような、それでいて自分の異物性だけははっきりしていくような、そんな感慨が強くなっていく。
「いいよ。俺もよくやった……そういえば、今やってる案件、あっちの会社は女社員連れて合コンみたいにしたいみたいな感じらしくて」
今やってる案件、他社との合同案件だ。あっちの会社と呼ばれているところは、体育会系の企業で、前職を思い出していい気分はしない。
「今の時代にですか」
「まぁまぁまぁまぁ、で、派遣何人か連れて行くと、切ったときにエージェントにチクられるのがキツいから、とりあえずうちは社員だけ連れていく感じで、他のとこも多分、それでいくだろうから」
「じゃあその後、角が立たないように、なんかやりますか」
「だーな」
揺野は上司とやり取りをしていく。主語がない会話。なんだか急速に白けてしまい、僕は逃げるようにその場を後にした。