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揺野さんのお詫び


 神経質じゃない人。


 その答えでその後に女子社員と距離ができるとか、そういうことは起きずに済んだ。しかし、万人に好かれることはできない、なんて自己啓発本やSNSのコラムにあるように、無難な回答でも結局攻撃される。というか、何も言わずとも何かされることはある。


 オフィスフロアを出てすぐにある共有スペースの自動販売機へ飲み物を買いに行くと、同じ部署の──派遣の女に「どっかの誰かさん」と言われたほうと、軽く無視された男が二人で話をしている現場に出くわした。


「あの中途さ、どこの大学出てるんだっけ」


 ぐ、と胃のあたりに力が籠った。二の腕の裏のあたりがそわそわして、太ももの当たりが妙に冷えるような錯覚に陥る。


 今どき中途採用なんかいくらでもいるのに、僕と同じような立場の女は名字呼び、派遣の女もそうだが、こうした裏の場では中途呼びだった。


 こんなこと気にしていても仕方ないし、表立って呼ばれるわけではないので心を落ち着ける。中途なのにとうっすら見下され、中途ならと都合のいい期待を受ける。そういう定まりきらない己の不安定な感じと、その道を選んだのは自分なんだからという自戒と、そう言う立場だからこそ見逃してもらっている特権も多分あって、息苦しい。


 一瞬戻ろうか悩むけど、戻りたくないという変なプライドが邪魔をして、早くいなくなってくれないかな祈っていれば「あ、あそこだよ」と、一人が僕の大学名を発した。痛みと呼ぶほどではない違和感が腹部を襲う。


「結構いいとこいってんだね」


「そうそう。勿体ない」


 勿体ない。


 派遣の女が揺野に言っていた言葉と同じ。むしろ二人は多分、世間話程度のやりとりなのに、喉が詰まった。


 どうしてうちに。よく聞かれた。就職活動中。感激とかじゃなく、面接として人間を評定するフックでだ。「ここの大学を出てどうしてうちに」そんなこと聞かれても、新卒のころも転職のころも結局のところ分からないとしか答えようがなかった。安定したいから以外にないのだから。仕事につかなければ許されないからで、そもそも小学校のころから将来の夢とかも定まってなかったし、そこにさらに「この大学を出て何故」みたいに制限がかけられると何を言えばいいんだよとしか思えない。


 居場所がない。


 主語が大きい気がするけど、いていい場所がない。下を見れば恵まれているほうだと思うけど、それはそれとして息が詰まる。


 僕は待ってるんじゃなかったと後悔を覚えながら、下の階の自販機を利用するため非常階段を使って下に降りた。最初からこうすればよかった。二人の姿を見た段階で機転を利かせていればこうはならなかったのに。


 周りに誰もいないのでため息をつきながら自販機に向かうと、ピンと背筋を伸ばした背中が見えてぎょっとした。また階を下るか咄嗟に踵を返そうとするけど、すぐに揺野は振り返った。ばっちりと目が合ってしまい、「あ、どうも」と僕は精一杯の処世術で対抗する。


「おつかれさまです」


 しかし揺野は、本当に自然に、会釈で返してきた。死のうか悩む。変に表情を作った僕が馬鹿みたいだ。いや、馬鹿だけど。揺野はそのまま自販機のボタンを押す。僕はなんとなく後に引けなくなり「下のフロアで飲み物買うんですか?」と明るい調子で聞いてしまった。殺してほしい。もう。でも沈黙も怖い。


「はい。なるべく会いたくないんですよ。全社員。あはは」


 揺野はあっけらかんと言う。そして「そっちも同じですよね」と言い当てるような目で僕を見た。


「……ま、まぁ」


「ですよね。なんかフロアの中はいいですけど、面倒くさいというか。煙草吸う人たちはぞろぞろ行ったりしてますけど」


 意外だった。そういう会社の付き合いみたいなものを揺野は上手くやっているイメージだったから。それに話を聞いていると、少し……こちらに似たものを感じる。驚いていると、「なんです?」と探るような表情に変わった。


「いや、意外で……そういうの、お好きな方だと思っていたので」


「煙草? 吸わないですよ。臭いので」


「あ、いや、あの、会社の集まりみたいな」


「いや~だって手当も出ないし、休みの日まで仕事の人のことなんて考えたくないですよ」


 揺野は少し悪だくみっぽい顔で笑った。こんな顔もするのか、と物珍しいものを見たような、見てはいけないものを見てしまったような、複雑な気分だ。


「っていうか、そういうのお好き方なんですか?」


「いや……」


 僕は首を横に振る。「ですよね」と揺野は嬉しそうにするでもなく、自然な調子で笑う。普段、派遣の女や、他の男の社員に対してと違う態度だ。でも、僕を見下しているというより話題が話題だから、な気がする。


「この間のセルフレジの迷惑料です」


 そう言って揺野は僕へペットボトルを向ける。僕がよく買っているものだった。


「……え?」


 僕が受け取るのを躊躇っていると、「だって私は、さっさといなくなりましたけど、残されたほうはたまったもんじゃないかなと思いまして」と続けた。確かにあの時、揺野は横入りをしてきた男に対して注意をした後いなくなった。でも、あのまま僕が男が会計をするのをただやり過ごしていただけだったら、後ろに並んでいた人たちからの視線は尋常じゃないものだっただろうし、正直、助かった。


 だから、迷惑料をもらうのは気が引けるし、それに年下の女の子に驕ってもらうのも厳しいものがある。相手は一応上司で、社歴も長いというか新卒からこの会社にいるらしいから、先輩だけど。変なプライドが捨てきれない。そして捨てきれないことにも、苦しい。


 躊躇いつつも、もう揺野は買ってしまったあとなので、拒否しても迷惑になるかと受け取れば、彼女は「カフェラテとかカフェオレのほうが良かったですか?」と聞いてくる。


「あ……」


 確かに僕は仕事での打ち合わせの時にカフェオレを注文する。珈琲が好きではないからだ。でも打ち合わせでアイスティーを頼むと女子社員と重なる率が高かったりして、仕方なくカフェオレにしている。


「仕事用カフェオレならこっちのほうがいいのかなって思ったんですけど」


「え?」


「コンビニで買ってるのそっちのが多いですし、飲んでるときの表情の感じ違うなって」


 そこまで見られてたのか。とりあえず僕は「あ、そ、その通りです。ありがとうございます」とすぐにお礼を言った。


「いえ」


 彼女は僕と同じ飲み物のボタンを再度押し、「よいしょ」なんて言いながら自販機から取り出す。


「一緒に戻ります? それとも、一人でのんびりしますか?」


「え、あ、ど……」


 どうしたらいいんだろう。いつもならついて行ったほうが失礼が無い、と思うけど、彼女は「全社員会いたくない」みたいなこと言っていたし。返事が出来ないでいれば、「一緒に戻りましょ、仕事の話もあるので」と穏やかに笑う。


「あ、はい」


「で、早速ですけど」


 揺野は真面目な、いつも社内でキーボードを叩いている時と同じ表情に戻り、スタスタ歩いていく。僕は彼女の後を一歩遅れて追いながら、一緒に自分のフロアに戻っていく。自販機の前にいた男の社員たちはいなくなっていた。そして、一つフロアを降りる前に感じていた胸のつっかえもいつの間にか消えていた。

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