揺野さんと少し変わった僕の翌朝
絶対寝られない。そう思っていたけど、ぐるぐると感情がジェットコースターみたいになっていたからか、寝ていたらしい。目が覚めると彼女はそばのテーブルで化粧をしていた。
見ていいのかな、と不安に思うけど、別に化粧後と化粧前と大差がない気がするので、なんとなく眺める。すると、彼女が僕の起床に気づいた。
「おはよ」
「……おはようございます」
なんだか、無性に気恥ずかしくて職場よりもかしこまって挨拶をする。そのままどうしていいか分からずじっと彼女を見ていると、「化粧、気になります?」と彼女は手に持っていたチューブかなにかを見せてきた。
「いや……そういうの持ち歩くの、大変だなと思って……女性は……」
言ったはいいものの、なんだか怒られそうな気がする。女の苦労を知らないとかネットでよく怒ってる人いるし。しかし揺野は怒ることなく、「いや?」と首を横に振った。
「ただでさえ資料とか多いのにこんなの持ち歩かないけど」
「え」
「え?」
揺野は僕の真似をするように聞き返してきた。その後、くすっと笑う。
「だって、重いもん。液。普段は……ファンデーションでしょ、知ってる? あとリップと、パウダー、透明なやつ。つけてあげよっか? 丁度、今全部終わったとこだし」
「いや、大丈夫です」
「そっか。まぁ、お泊りが決まってるときじゃないと、持ち歩かないよ。重いし。コンビニで揃えるみたいな女もいるけどさ、小さいものでも、揃えたら結構かかるしさ、小分けケースもあるけど、結局邪魔だし」
揺野の話を集約すると……彼女は泊まる想定をしていた、ということになる。どこから、あらかじめ想定していたのだろう。
「え、っと、いつから……そういう、おつもりで」
問いかけると、揺野は布団に横になっている僕にゆっくりと近づき──、
「秘密」と、微笑み、まるで悪戯するみたいに、僕の手をギュっと握った。
朝に弱い僕は、朝食を食べてくるという揺野と別れた後、自分の荷物をロッカールームから持ってきて着替え、ダラダラとスマホを眺めたあと、また揺野と合流し、「お揃いのストラップでも買います?」と、温泉施設ならばどこにでも売っているようなストラップを指さす揺野にからかわれるなどして、スパからチェックアウトした。
この関係はいったい何なんだろう。確かめたいけど急激な変化が恐ろしく、昨日と同じ服を着ながら朝日を受けながら歩く揺野の後ろを歩いていると、くるりと彼女が振り返る。
「好きな人が出来たり、結婚したい人が出来たら、言ってくださいね」
「え」
「人のものに手を出すのは、嫌いなので」
「え……あ、はい」
返事をして、今僕はどっちの意味で受け取られたのか考える。好きな人、結婚したい人、のほうなのか。人のものに手を出すのが嫌いという言葉への相槌なのか。彼女はどちらで受け取ったのか。
「それまでは、隣にいさせてください」
揺野は微笑む。質問したり、どうしたいか聞かれている雰囲気はしない。宣言のようだった。
「……一人が好きだけど孤独は嫌いな、わがままな貴方だったら、私のひとり勝ちになりますけど」
「いいの?」
そんな、名前もないようなもので、いいのだろうか。揺野は「さすがに結婚ってなったら籍入れてくださいよ? そのほうが社会的にもメリットですし、貴方にもしもの時、病院とか行きやすい。ただ、そうじゃなければ……まぁ、突然名前を付けて、その圧で壊れたら元も子もないですから。安心したいなら、いくらでも名前をつけて、契約を交わしてもいいですけどね」
試すような目に、僕は「いやぁ……」と言葉を濁す。
「大丈夫ですよ。そのうち、大丈夫じゃなくしてしまうかもしれないですけど」
「え」
「奪われたそうに見えたら奪っちゃうかもしれないから」
「……え?」
「他の人からじゃなく、貴方から貴方を」
揺野は笑みを浮かべ、僕の返事を待たず歩いていく。置き去りにする気はなく、僕が追いつくのを待ってくれるようなペースだ。僕は遅れながらも、彼女の後を追った。
月曜日。僕は緊張しながら出社した。
色々あったけど、実はものすごい問題になっていて解雇されたらどうしようとか、揺野が社内での態度を変えてたらどうしようとか、揺野に休日の記憶が一切なかったらどうしよう、とか。
そして──すでに出社していた揺野が平然としていたことで、僕の不安は頂点に達した。
ある程度、会釈とか視線があれば、色々予測が立てられるけど揺野は本当にいつも通りで、何を考えているか分からない。問題になってないのはいいことだし、社内で突然親し気にされたら周りの目がある、記憶がないなら無いで、足湯やトイレでの出来事とかも無かったことになり良いことなのに、苦しい。業務に手がつかない、なんてことはないけど仕事を終わらせても終わらせても時間が進んだ気がしないし、このままだったらどうしようという謎の不安に襲われる。苦し紛れで自販機に向かうと、隣に揺野が立った。
「バレちゃう」
足湯で言われた時と同じ言葉を使われ、ぐっと喉が詰まった。何するんだこの女は──と思わず僕は揺野をはっきりと見る。彼女はうっすらと笑っていた。
「無かったことにされてたり逃げられたらどうしようかと思ってたけど……それにしてもですね……先が思いやられる。卒業したらどうなるんだろ。調子に乗り始めるって聞くけど、童貞ごと捨てられちゃったらどうしようかな」
揺野は独り言のように話す。周りに聞かれたらどうするんだとヒヤヒヤするけど、傍には誰もいない。社内で、揺野はいつも通りのオフィススタイルで、振る舞いはビジネスモードだ。なのに口にするのはとんでもないことで、頭がおかしくなりそうだった。
「な、何言ってるんですか」
「好きだって言ってる。悩んでもらおうと思って」
「え」
「どうして僕……俺? 貴方が自分のことどうやって呼んでるかわかりませんけど、どうして僕のこと、こんなに好きなんだろうって、僕は愛されるような人間じゃないのにって、思い悩んでください。そしていつの日か、どんな理由を聞いても納得しない、自分がただ、好かれて愛されたと認識した後に失うのが怖いだけって、気付いてくださいよ」
揺野宵澄は柔らかく甘い笑みを浮かべながら──僕の孤独を、揺るがしてくる。
選択肢があるのかないのか。この関係がなんなのか。曖昧なままだけど、揺野はそばにいてくれる。多分、どんな僕であっても。
根拠なんてないのに、なんとなく、それだけは確かなことのように思えた。
18歳以上の方へ
ノクターンに揺野さんと彼の話(今回の話より少しあと)を投稿してますのでよろしくお願いいたします。(本日完結済みです)揺野と彼が過ごして年が経った話です。揺野で検索すれば出てくると思います。18歳以上の方はよろしくお願いいたします。