揺野さんと社会的な死
揺野の後についていくと、宿泊ルームのあるフロアに辿り着いた。彼女は部屋の前で僕の手を離し、手帳型のスマホカバーのポケットからカードキーを取り出すと、扉を開け、「どうぞ」と中に入るよう促してくる。
「お手洗い、こっちですね」
揺野は部屋に入ってすぐにあった扉を開けた。
「じゃあ私は、ちょっとお腹すいたんでお土産コーナー見てきます」
そう言って、そのまま部屋を出て行った。部屋にいても絶対どうにもできないから助かった……けど。
僕は泣きたくなりながらベルトをゆるめズボンを下ろし、便座に座った。このまま出す気になれない。触るのも嫌だ。しばらく便座に座りながら貧乏ゆすりをするけど、どうにもならない。
なんでこうなったんだろう。どうして自分はこうなんだろう。情けなくて死にたくなる。早く出さないといけないのに、というかこんな状況でもどうにもならない。
絶望的な気持ちで横の壁に寄りかかる。涙が出てきそうになり、さらに自分の情けなさで死にたさが増す。普通になりたい。つくづく思う。普通になりたい。上を見てるときは自分が普通すぎて取り柄が無いって嫌になるけど、そうじゃないときは自分はなんて駄目なんだろうと思う。どこまでも中途半端。なにか特別なことが一つでもあれば違うんだろうけど僕には何もなかった。
何もないのに何かある揺野とか、仕事の出来る上司も部下も同期を見て嫉妬する。ああなれないなと思いながらああなりたいと思う。
つらい。
ずっとつらい。
自分でもこの辛さがどう癒えるのか分からない。テレビや本では相談できる人に相談するとか一人で抱えこまないこと、気分転換に運動とか結構とか筋トレとか出てくるけど、効かない。相談できる相手どころか話し相手すらいないし運動なんか続かないし筋トレなんてやりたくない。
つらい。
ずっとつらい。
こんなになって、迷惑までかけて。誰かの特別になんてなりたくないから、なれないから、せめて迷惑をかけない人間になりたかった。邪魔になりたくなかった。必要とされたいけどそんなの叶わないし、手に入らないのに求めることは醜いし、身の程知らずなのは馬鹿にされるしもちろん嫌だから、きちんと弁えていたし、弁えていたかった。でも、やっぱり特別というか、誰かに呼ばれたい、守るなんて無理だけど必要とされたいが根底にあって、苦しい。
そして自分の不甲斐なさを知るたびに、こんなんだから誰にも求められるわけないのにと思うし、不甲斐なさで受けたダメージが苦しすぎて、誰か助けて、誰かこの痛みを知って、助けてと思う。
誰も来やしないのに。
動けず、視線すらそのまま特に見たくもない一点を見つめていれば、トントン、とノックが響く。反応が遅れた。ガチャ、と扉があき、揺野が立っていた。
声すら出せない。ズボンとか履いたほうがいいんだろうけど何も出来なかった。
「お着替えと水分持ってきた──んですけど、水分いります?」
揺野は問いかけてきた。僕は「ごめんなさい」と呟く。
「なにが」
「こんな……なって」
あまりにも情けなくて、惨めだ。絶望が強く息を吸うのも吐くのも億劫で、背骨から腰あたりに力が入らず、肩甲骨のあたりが押し付けられるみたいに重い。二の腕の感覚なんてないし、自分に手のひらが存在しているかすら危うい。
「私のせいですからね」
なのに揺野は淡々と言う。
「……」
僕は視線だけ揺野に向けた。
「だって、私触っちゃったし」と、揺野は視線を合わせ応える。
「いや……」
そこでようやく声が出た。
「それに、私、上司なので、断れないのをいいことに触ったので」
「そんなことは」
「ありますよ。言ったじゃないですか。好きなタイプ誰か飲み会で聞かれて、私の答え忘れちゃいましたか?」
「……?」
「というか、安いからって理由でどうでもいい男スパに連れ込む貞操観念も倫理も緩い女に見えてるんですか? 私は」
一瞬、何を言われているのか理解が出来なかった。自分が取り返しのつかないことをした──というか女の人に自分のものを見せたことによる思考の停止も勿論あるけど、揺野の言っていることが本当によく分からなかった。
揺野がさらに「私、どうでもいい人と、夜に、それもスパで男女別休憩室がある中、ひと部屋とって、浴衣着て前に出てくる人間だと思われてます? こういう密室で。それも……そういう状態の、男の人の前で、現れるような人間だって、そう見てるってことですか」
「……なにが、言いたい……の?」
何が言いたいだけだと怖がらせるんじゃないかと、のまでつけた。無様に思う。揺野は冷えた目で僕を見下ろした。
「あんまり言いたくないんですよ。性的同意とかの話は。個人差があるので。ただ私は、どうでもいい男の部屋に泊まる女も嫌いですし、安いからどうってスパに誘う女も嫌いですし、好きでもない男の足に自分の足をくっつける女、心の底から嫌いですよ。ふしだらで」
「ふしだら」
「そちらの世代の言葉、ふしだらじゃないですか?」
「え……もっと上の世代……」
そこまで年上に見られていたのかと、急速に頭が冷えてきた。それを悟ったらしい彼女は「すみません。学生時代、男の人に自分から関わりたいと思ったことが無かったので、同い年以外の世代ワード感、いっさい分からないんです」と補足しながら、「ヤリマンとか?」とさらに怖いことを言う。
「ヤリマ……」
「ごめんなさいビッチとかのほうが……国内とかだったら直接的感は薄いですかね? 穴モテとか……あ、ちなみに下品な言葉を知ってるのは性に興味があるからとか、実は性的な経験があるとかじゃないですよ。普通に、暮らしてるだけで、そういう言葉聞いたりってあるんですよ。ネットで男性がネットでチー牛とかって謗られるみたいな感じで」
揺野は仕事モードとはまた違った調子で淡々と話す。冷めた……というより分析するような淡々とした話の仕方だった。
「なので、何をお伝えしたいかと言うと、貴方のその反応の責任は、私が持ちたい、ということです」
「え……ど、どいうい」
「私が触って、そうなってくれたってことを、認識したいというか。期待をしたいんですよね」
何かのプランを説明するみたいに彼女は話す。
「ただ、貴方が、女の人に触ると関係なくそうなってしまう、電車とかで女性と二の腕があたったり、まぁ、バスでもいいですけど、前に女の人が立って、そうなるのであれば……私もその事実を受け止めます」
「いや、それはさすがにない……」
「ですよね。そういうタイプの痴漢は生理現象だって言い訳しますけど。そういう奴がいるから、貴方みたいな人が、疑われるんじゃないかって怯える。理不尽な世界だ」
「……」
「貴方は、そういう人間じゃないですよね?」
「う、うん」
「となると、貴方は、私でその反応に至った。私は、嬉しいです。許されたみたいで」
揺野は、優しく笑う。性的なものは一切感じさせない笑みだった。
「え……な、なにを」
僕が、彼女の何を許す、というのだ。そんな立場に、僕はいない。
「私が、貴方を特別に思うことをですよ」
揺野はそう言って、僕の名前を呼んだ。名字ではない、名前を。
名前を呼ばれること自体が久しぶりのことで一瞬、自分の名前を呼ばれたことすら認識できなかった。彼女は笑みを浮かべもう一度僕の名前を呼ぶ。すごく大切で、愛おしいものを呼ぶように。
「ちなみに、今すぐ手籠めにしようなんて思ってないですよ。まぁ、希望されるなら別ですけど」
「て、手籠め?」
「世代が違いましたか? 小学校の頃、風邪で休んだ時かな……時代劇でそんなようなセリフが」
「いやだからそこまでじゃない……」
「知ってる。そういえば、怖がらせずに済むと思っただけ」
さっと冷たい声で否定された。どうして、彼女は。
そんなの身の程知らず過ぎて考えたくないけど、揺野は僕を好きだという。僕なんか好かれるはずないし、好かれるようなところなんて何一つ持ってないのに。
「なんで……」
「好きだから」
真っすぐ僕の目を見て彼女は言う。淡々としているけど圧は感じない、自然な気持ちをただ伝えているように思えた。でも、そんな風に言ってもらえる理由が、僕にはない。
「どうして……」
自分でも馬鹿みたいだと思うけど、好かれる場所が僕にはないのだ。何もかも、僕は中途半端だ。
「どこが好きだと言ったところで、納得しますか?」
見透かすように彼女は僕に一歩近づいた。静かに僕を見下ろしている。
「たとえば、仕事してるところが好きと言ったとします。貴方は自分はそんなすごい人間じゃないと否定する。ほかにもっと仕事の出来る人間はいると考えて納得しない。顔が好きだと言ったとします。自分は好かれる顔じゃないと理解しない。貴方のコンプレックスを私は気にしない、もしくは愛おしいと言ったとします。でも、貴方はそれを受け入れない」
「そんなこと」
否定しようとすると同時に、彼女も「そんなこと、ない、ですよね?」と口角を上げた。
「そうやって、貴方は怖がる。今まで通りの自己評価と自己卑下に逃げる。そのほうが貴方は傷つかないから。自分なんてって否定しながら、相手を高く持ち上げるように見せかけて、誰にも迷惑かけないって謙虚な顔で、自分を好きだと言う人を簡単に傷つけてしまう──自分を守るために。私は……意地の悪い人間なので、貴方をそこには逃がさない。守らせない。自分のどこが好きなんだろうって、自分で考えてみてください。ここだなって思ったところで、合ってるとは思いませんけど……」
「……」
僕は返事が出来なかった。彼女は「寝ましょ、普通に」と僕の手を取る。
「どうせ、別々で寝ても寝れないんですから、手を繋いで寝ましょう。布団も敷いたので。心臓の音、リラックス効果があるらしいので、ほら、力入れて」
揺野は僕を助け出すみたいに手を引っ張る。「下着履いてください。着付けするから」と、彼女はトイレから出てすぐの廊下に置いていたらしい浴衣を取り出した。そうだ僕は過去最高に無様な恰好で今までいたんだ。死にたくなってきた。というか、色々あったからか、治まっている。変な感じだけど、またどうにかなるような気もしない。とりあえずすぐ下着を履いた。
「シャツの上から? 脱ぐ?」
「あ、はい」
こうしたやり取りをすると、なんだか、彼女のほうが年上なんじゃないかと錯覚する。上司だからではなく。
「じゃあ腕、軽く広げて」
「……」
「違う、もうちょい」
「……」
「身体固くない?」
「ご、ごめんなさい」
「やだ」
「えぇ……」
揺野の指示に従い、浴衣を着せてもらう。手広げてとか背中向けてとかあれこれ指示に従ううちに落ち着いてきて、いつの間にか死にたさは消えていた。