揺野さんと足湯
足湯は建物の屋上にあった。ぐるりと外の景色を眺められるような、ぐるりとした輪のようになっていて、底面にライトが埋め込まれ、蛍のような淡い光が水面を照らしている。柵の外はさっき揺野と行ったファミレスのある建物や、観光用のホテル、高層オフィスビルの夜景が並び、カップルたちは写真を撮ったり、景色を眺めながら談笑していた。
確かに、一人だと浮くな、と思う。それに照明が絞られているので財布やスマホが盗まれても気付きづらいし、一緒に来てほしいというのもうなずける。
別にただ、僕が勝手に自意識を暴走しているだけで揺野に他意などない。揺野は「入りましょ」と、僕にタオルを差し出してきた。
「タオル?」
「そこにあったので。入った後に、足拭かないと転んじゃう」
「ああ、ありがとうございます」
じゃう。転んじゃう。ふいに、バーベキューで「死んじゃう」と言っていたことを思いだした。駄目だ、とすぐに記憶から消す。今、彼女は浴衣姿だ。朝はシャツとジーパンと、服装そのものに女性らしさは無かったけど、今は、あるわけで。
というか彼女は風呂上りなわけで。
変に落ち着いたせいで気にならなかったことが気になりだし、僕は夜景に意識を逸らす。ホテルの明かりはほぼ全室ついていた。
「あそこのホテル、会議とかの人が使うらしいので、あの照明は残業由来かもしれませんね」
揺野が呟く。あんまり聞きたくなかった。実際、その通りなんだろうけど。
「ですね」
二人で足湯の座面に腰掛けた。僕は靴下を脱ぎ、ズボンを少しだけまくって足湯に自分の足をつけた。これくらいなら抵抗は感じない。最初から温泉に入らず足湯だけで良かったんじゃないかと思うけど、普通に汗をかいていたから必要だったと自分を納得させる。
「よいしょ」
一方で、揺野も靴下を脱いでいた。布地からかかとを出していくのが妙にゆっくりに感じられ、ぐっと喉の奥が詰まる。
「なんです?」
揺野に問われドキリとした。見ていたのが完全にバレた。変に思われた。どうしようと言い訳を考えていれば「よいしょくらい言ったっていいじゃないですか」と不機嫌そうな反論が飛んでくる。
「え、あ、いや、そういうつもりはなく」
「本当に? 老化……みたいなこと思ってません?」
「あんまり言いたくないですけど、こっち年上ですから……」
「あぁ、確かに……」
揺野は納得する。なんだろう、僕は年上に見られてなかったということか?
「まぁ……頼りにならないですし、色々教わってる立場ですから、忘れて当然ですけど……男気とか男らしさみたいなのもないので……あれですけど」と、少しおどけて見せれば、揺野は「男の人だとは思ってますけどね」と、僕の足元を見た。
「男の人の足だし」
「え? あ、まぁ、まぁ」
「毛の感じも違う」
「毛?」
「ここ、生えてる」
湯の中で揺野の足が僕の足を示すようにくるりと動く。
「骨、ごつごつしてる」
「鍛えてないから、運動とか、しないし」
「へー私の足と違う。こうなってるんだ」
揺野は僕の足をじっと眺めている。馬鹿にしたりでもなく、あくまで自然に観察しているようで、居心地が悪いというよりむず痒い気がして、太もものあたりがざわざわした。
「ぴと」
揺野が淡々と呟き、僕のつま先の側面に、自分のつま先の側面をつけた。「あ、触った感じ違う。かたい」と興味深そうに言われた。
「ね?」
至近距離で彼女が目を合わせてくる。足で感じる彼女の、触れたことのない皮膚の質感や、ギリギリ体温なんて感じることなんて出来ないはずの互いの太ももの距離感に、下腹部がじんと痺れてギュッと血が集中するような錯覚に陥る。
絶対だめだ。そう思っても無理だった。
「……」
「どうしたの?」
黙り込んだ僕の顔を揺野が覗き込んでくる。近い、と思ったが暗がりだから顔を見るためだろう。顔を見られるのも嫌だけど、彼女の視線が下に落ちることはもっと避けたかった。
暗がりだからなんとかならないだろうか。ギリギリ分からないかもしれない。甚兵衛や浴衣だったらまだなんとかなったのだろうか。甚兵衛や浴衣なんか僕が着ても滑稽なだけだし、と結論付けたのが悪かったのか。よく分からない。頭の中がぐるぐるしている。「まぁ、まぁ、まぁ、別に」と誤魔化していれば彼女は僕を試すように見た後、首を傾げ、視線を落とした。
バレたかもしれない。喋れなかった。タオルを握る手に力がこもる。生きていたくない。
うつむいていると、揺野は僕の手に触れた。突然のことで反射的に動かそうとすれば、ぎゅっと手を握られる。
「行きましょ」
「え」
「部屋、あんまり、人に見られないほうがいいんですよね?」
「え、あ、いや、部屋ない」
「さっき言いませんでしたっけ? お風呂から出た後、フロントで聞いたら部屋空いてたらしくて取ったって」
そんなこと聞いてない。でも、揺野が嘘をつくとも思えないし、記憶力は揺野のがいいだろうし、僕は僕でずっと混乱状態だから記憶がない。
「足、拭くので、あげてください」
「いや」
「バレちゃう」
揺野は諭すように言い、周りを見る。僕は言うとおりにする。揺野はゆっくりと僕の足を柔らかなタオルで包み、拭いてくれた。何だかその行為すら、途方もなく意味があるような錯覚がして、下腹部がじわじわと熱を持つ。そのまま揺野は同じタオルで自分の足をさっと拭くと「はだしのままでも歩いていいみたいですから、ここ」と言って僕の手を引いたまま立ち上がった。
「手、繋いだまま。私のちょっと後ろ歩く感じにすれば、多分大丈夫」
眼差しは仕事中と変わらない。でも、手は繋がれている。恋人つなぎじゃなく子供が親と繋ぐようなものだけど、それでも彼女の手であることは確かなわけで。
絶望と混乱がないまぜになりながら彼女に手を引かれ館内を進んでいく。
「合ってる?」
「え」
揺野がこちらを見ずに問いかけてくる。「手、繋ぐの」と続けた。手を繋ぐのが合ってるか合ってないか。どういう意味か分からない。
「手繋いだの、幼稚園……のとき、親以来だから?」
揺野は一瞬だけ僕に振り返り、笑みを浮かべる。
その笑みは、初めて見る性質のもので──無垢でありながら底知れないものを感じた。