揺野さんと着替え
脱衣所兼ロッカールームで荷物を片づけ、温泉に入った僕は地獄のような洗礼を受けた。普通に考えればスパなんか行く男は身体に自信がある男なわけで。
男湯の中は、女を連れてきているのが一人でいても分かるような男か、大学生の男グループしかいなかった。観光に来たらしい老人たちにまぎれ、身体を隠すように肩まで浸かって、温泉の効能に関するパネルを眺めていれば、今度はある程度酒が入っているような人間たちがやってきて、追われるよう脱衣所に戻った。見られるわけない、みんな着替えてる、と思えど馬鹿にされてるんじゃないかとざわつく気持ちが抜けない。前の仕事の嫌な記憶があるからかもしれない。社員旅行というか単独の出張はなかったし、温泉系だと何となくそのまま男湯へみたいなことがあり、馬鹿にされた。鍛えろとかはまだいいとして、もう普通に自分の身体だから分かり切ってるようなことを言われ、笑われてで。
外での入浴に抵抗があったはずなのに、揺野とスパというそれより大きな、ほぼトラブルレベルのイベントにすっかり忘れていた。
今日だけで、メンタルの振り回され具合が酷い。疲れてるはずなのに逆に目が冴えてきた。今日眠れないかもしれない。家に帰ったほうが良かったか悩むけど、家に帰ってたら帰ってたで、確実に揺野の誘いを断ったことに悩んでいて寝られなかった。どっちみち、寝れなかった気がする。
普通、温泉に入ればスッキリするはずなのに自己嫌悪に陥りつつ、揺野に指定されていた椅子に座って窓の景色を眺めていると、トントン、と肩を叩かれた。バッと振り返れば、浴衣の揺野がいた。
「お待たせしてすみません……」
「いや、全然」
申し訳なさそうにする揺野に首を横に振る。揺野は淡く、少し暗めの水色で、落ち着いた柄の浴衣を着ていた。化粧を……落としているのだろうが、普段と変わらないというより、幼く見える。高校の頃、教室でよく見ていた女子みたいな感じだ。
「館内着どうしたんですか?」
揺野は不思議そうに僕を見る。
「いや、サイズどれか分かんなくて……」
正直どれを着ていいか分かんなかったし、甚兵衛も男物の浴衣も僕が着ると滑稽に見えるだろうと、着替えなかった。
「甚兵衛はまだしも、浴衣サイズひとつですよね?」
「着方わかんない」
この話、やめたい。しかし彼女は「持ってきてくれたら着付けしますよ?」と爆弾発言をしてくる。
「え」
「貸出、そこでしてるし」
揺野は行こうとする。着付けなんか、無理だ。僕は慌てて「いや、脱衣所、男女で別れてるじゃないですか、着付けの場所ないですし」と止めた。揺野は「ああ、そうですね。私犯罪者になる」と納得したように足を止める。そこまで気づかなかったのか。天然か。何が起きてるんだ。戸惑っていると彼女は「部屋借りたらいけますけど」と付け足す。
「いや、勿体ないですよ。着替えの為だけに部屋借りるなんて」
揺野は言ってる意味を分かっているのだろうか。部屋借りるなんて、僕が言えば確実にセクハラで捕まる。というか、誘ってるととらえられかねない気が……。なんでこんな無防備なんだろうか。付き合ったことが無いみたいに言っていたけど、彼女は付き合うに至らないだけで、もっとこう、色々慣れているのだろうか。
「あのされてるんですか普段」
……僕は揺野に問いかける。
「え」
「着付けとか」
「いや、ないです。そこに書いてあったんで、見様見真似というか」
「え、じゃ、じゃあ着付け無理では」
「でも、男性の着付けってたぶん、胸が無いってだけですよね? 違いって……」
無垢な目で返され、より一層どうしていいか分からなくなった。
「え、男のしたことないんですか」
「はい」
彼女は即答する。
男のをしたことがない。
どういうことだ?
「ああ、そうなんですね……なんか、スパとか、お好きなのかなと思って……」
「別に、特になにかなければ来ようと思わないですけど」
どういうことだ。何が起きてる?
じゃあどうして僕を誘ったんだ?
疑問があふれ出すけど、カップル割で安いからで、今日はバーベキューで疲れているからだと自問自答する。
でも本当に?
しかし、疑問は留まるところを知らない。
「なんか、私スパ好きに見えます?」
「まぁなんか、社の人間と行くのかなーと思って」
そう言うと、彼女は「いやぁ」と半笑いで返した。
「会社の人間と裸の付き合いなんてしたくないし。裸見られたりするの嫌じゃないですか?」
「ああ、まぁ」
揺野もそんなこと思うのか。全然思わなくても良さそうな気がするが……。ただ派遣の女とかは色々言いそうな危うさもあるし。じゃあ僕をこんな場所に誘ったのは、男だから一緒にお風呂に入らず済む、みたいな点にあるのか?
男だからこそスパに行くのどうなんだろうと勝手に意識していたけどそういうものなのか……?
「っていうか、馴れ合いみたいなの嫌いなんですよね。仲いいからこれしてくれるだろう、みたいなそういうエスカレートみたいなのが。それこそあの、商社の煮凝りみたいな集団、あったじゃないですか。客観的に仕事進めるとか適材適所じゃなく、ノリみたいな、あれが強くなるかなって」
「ああ」
確かにああいう体育会系の集団はノリ……というか経験則とか根拠が薄いものとか、飲み会のノリとか喫煙所の色々が仕事にかかってくる。僕がそれに乗れなかったのもあるけど苦しかった。噛み合えば、上手くいくんだろうけど……。
「正直、団結するに越したことないとは思うんですけど、今の職場のバランス的に……どうなのかなって。私が決めることじゃないですし……正直私も、感情で動くので」
「……そうですか?」
「はい。今日だってそうですよ? 私のが社歴長いし、男女だから。傍目から見れば……普通に恋人同士に見えるでしょうけど、職場の人間が見たら普通に付き合ってるんだなあの二人、ってなるじゃないですか」
揺野は何てことないように話す。僕は「いや、どうなんでしょうねえ」とはぐらかすものの、内心、全身の力が一気に抜けた。男女だからという響きが頭の中で繰り返される。
「他の方と来られたりがあるでしょうから」
「一度もないですよ」
揺野はまるで仕事の企画を却下するみたいに否定した。でも「ひどいな」と続けて笑う。
「私、職場の男をみだりに誘うような女だって思われてるんですか? 心外だな」
「え……」
それは、一体、どういう。
揺野はじっと僕を見る。何か見透かされているような気がして、何か言えば心の何かが漏れ出る気がして押し黙ると、彼女は「足湯」とつぶやく。
「足湯?」
「屋上に足湯あるらしくて行きたいんですけど、貴重品とか怖くて、一緒に行ってくれませんか?」
「足湯……」
「なんか、カップルが多いみたいなんですけど一人で行くと浮くかなって……あはは」
揺野は子供っぽく笑う。からかわれた……のだろうか。手玉に取られたような気がするけど僕なんて手玉に取る意味がない。揺野は上司にチョコレートとかを特別に貰ったりするわけだし……。そう思うと急激に恥ずかしくなってきた。なんか、勝手に意識してドキドキして。身の程知らずだった、弁えるべきだったと自嘲する。
「こっちです。階段から行ったほうが早いみたいで」
揺野は暖色の照明に照らされた廊下を進んでいく。和風スパ、ということで床は濃い色のフローリングだ。少し檜みたいな匂いもする。旅館、という感じはしない。ほどよくラフな感じで、雰囲気を楽しめるようになっている。大学生くらいの若い女のグループや、もちろん、男のグループも。
どう見られてるんだろう。揺野は恋人同士に見られてるかもなんて言うけど、実際のところ……レンタル彼女とか……そういうほうが、正しい気がする。でも揺野がレンタル彼女をしているようには見えないから、家族や親せきとかになるのだろうか。それか、似ていない、兄妹とか……姉弟の可能性も。正直、大学生と高校生の区別なんか男女関係なくつかないし、20代後半あたりから30代前半は特に分からない。40代と50代もだ。
自分が色々、普通の人間が獲得するような経験をしてないから、分からないのだろうか。前の仕事でそんなことを言われた気がする。女を知らないから、と。あれは馬鹿にしているとか見下しとか、それこそ時代的な価値観じゃなくて、本当にそうなのかもしれない。
僕は前を歩く揺野の後を追いながら思う。前職について考えると胃が痛くなっていたのに、不思議と痛みはなく、そのかわり何かが遠くへ離れていくような奇妙な感慨を覚えていた。