揺野さんと雑念
「飲み物はこちらのものを自由に取っていただいていいので~ただ常温ですので、そちらにございますクーラーボックスと、氷とお水で各自冷やしていただく形で、終わったものについては、他の道具と同じでその場に置いていただければ~」
バーベキュー場のスタッフが言って、もう役目は終わったと言わんばかりに駆けていく。あれから僕と揺野はバーベキュー場の道具の貸し出しをする場に向かい、飲み物を取りに行ったけど、案内されたのは倉庫みたいな場所だった。段ボールケースが詰まれていて、勝手に取っていくシステムらしい。全部12本か24本とロットなので若干不便だけど、こうでもしないと余分に持っていって持ち帰る人間とかがいるのだろう。
「どうします、僕、人呼んできましょうか」
「いいですよ、お茶四本くらいあれば足りるでしょ、みんな酒ですし結局」
揺野はみんなを冷たく見放すように言う。最初の頃、「社員と会いたくない」と話をしていたし、案外……というか結構、ドライなところがあるのかもしれない。でも、そうなると派遣の女に焼いたものの差し入れをしていたり、後輩にチョコを渡していたりする行動と、少し矛盾している気もする。
よく分からない。いったいこの人は何なのだろう。考えてみるけど答えなんか出ないし、自分の疑念が、ただの純粋な好奇心なのか──不純なものがあるのか分からなくなって、思考を止める。考えていても、良い答えが出ない気がする。
「消費期限が近いもの取ったほうがいいですよね、たぶん」
揺野が問いかけてくる。そんなもの僕には分からない。普通に手前のでいいんじゃないだろうか。
「まぁ、取りやすいので」
「こういうのほら、あるじゃないですか、スーパーでめちゃくちゃ掘り出してる感じの人。ああいうのいるから分かんないですよ。一応、見ておききましょ」
揺野はかかがみ、こちらにお尻を突き出すような姿勢で、揺野は段ボールの消費期限を確認し始めた。普通そんな姿勢ならないだろ、と思うような姿勢だが、最悪なことに積まれた段ボールの消費期限の位置が本当に最悪なせいで、地獄の状況が生まれている。
「僕も確認しますよ」
というか僕が確認する。しかし揺野は「いーですよ、二人じゃ隙間に入れないんで」と、動こうとしない。
「ただ、見ててくれません?」
「え」
「このまま前のめりになったとき、私、顔面強打するので、その時、腰か何か掴んでおいていただけると、顔面強打で死にたくないので」
最悪なオーダーまで飛んできた。確認なんて申し出なきゃよかった。でも顔面強打なんて言われれば、その時はそうするしかないわけで。というか、見ててって。もっと言い方あるだろと思う。どういえばいいのか、思いつかないけど。
揺野は短めのシャツを着ているからか、胸に引っ張られているからか、シャツとジーンズの間の隙間から白い肌が見えた。やや汗ばんでいてしっとりした肌に、おそらく臀部に繋がる陰があって返事が曖昧になる。左右にゆれる腰は、後ろから掴めて抑え込めそうだ。
いや、なんでこんなことを思ってしまったんだ。絶対最悪な顔をしていた。揺野がこっちを見ていなくてよかった。
「こっちかなぁ……んっと」
息を吸ったあと、彼女は少し押し殺すような息の吐き方をした。腰を曲げてる姿勢だから、と客観的に考えようとしても思考がもたついてくる。
「ん……」
そして彼女は重心を横にずらした。尻の割れ目がはっきりとジーンズに浮き、足の付け根の割れ目が見え、僕は大きく息を吐いた。
「あ、ごめん。待って、早く見つける」
揺野先輩は僕がしびれを切らした僕がため息をついたと勘違いしたらしい。僕は申し訳なくなり、すぐに詫びた。
「すみません、違います、なんか、呼吸止めちゃってて」
と、言い訳したけどなんだかものすごく最悪な言い方をした気がする。いや、した。完全に最悪なワードチョイスだった。変態か犯罪者みたいだ。
「え、汗、臭かったですか? すみません、今すごく汗かいてて……」
臭くないけど、今、一番知りたくない情報だった。。
「全然、違い、ます……。人といるとそうなるというか、どう、話をしていいか分からないので」
「……緊張?」
「まぁ」
「じゃあ、してないなーって思ったら、とめちゃ駄目って言わなきゃだ」
「え」
「だって、止めたら死んじゃう」
敬語が外れた。というか、もっと前から外れてる。そして、息を止める止めない以前に、今日だけで色々、僕は死んでる。
◇◇◇
飲み物を運んで、肉を焼いて野菜を焼いて食べてと繰り返す人間を眺めていたらいつの間にか日が暮れていた。人と大して話をしていないのに、どっと疲れた。この後、電車に揺られて最寄駅からしばらく歩いて家に帰り……と考えるだけで全身が重くなる。なのに何でか周囲は「このままの飲みに行くか」なんて盛り上がっている。
さりげなく抜けよう。僕はバーベキュー会場とその最寄り駅を繋ぐシャトルバスに揺られ、手すりのポールに掴まり踏ん張りつつ、別れの頃合いを見計らう。
多分、このまま電車に乗り、会社付近の駅のホームで降りて解散になるか、流れで会社の最寄り駅で降り、場当たり的な店探しが始まるだろうから、あんまり注目を浴びないようにして消えたい。ただ、そのまま雲隠れすると探されたりいなくなったと後から指摘されるので、本当に自然な形で。
なんて計画を立てているのに、揺野が声をかけてきた。姿が見えなかったので座席に座っていたとばかり思っていたが、どうやら人陰に隠れていたらしい。
「お腹空いてません?」
「いや……」
「そうですか」
敬語に戻っている。なんとなくホッとしたような、違和感があるような、微妙な気持ちだ。
「っていうか、ずっと焼いてたようなイメージですけど、料理とかされるんですか」
揺野が聞いてくる。僕はしない。一人暮らしだけど、大学の頃は課題で、新卒の頃は労働環境がアレで今のいままで来てしまった。調理実習である程度学べばよかったんだろうけど、女子が仕切っていて何かできる空気じゃないし、そもそも、食べられればいい程度の認識だ。
「いや……全く」
「じゃあ、冷蔵庫に水しかない、みたいな感じですか」
「まぁ」
「へー、じゃあ、あれですね、冷蔵庫の腐敗を気にせず済むというか、アレ腐るな、みたいなこと考えずに済むというか」
「あぁ」
そんな返事が来るとは思わなかった。
誰かと自炊について話をすると、料理くらいできないと、とか、モテないとか結婚がどうこうとか、そういう話しかされたことなかった。
「そういうの考えながら料理するの大変ですね」
「そうですね、安いなと思って買って計算狂う時あるので」
「でもいいですね、料理できるの……楽しそう」
自炊の話題になると、料理くらいできないと、みたいなアドバイスしかされなかったから、どう着地させていいか分からない。下手に広げて料理を作ってもらいたがっている、下手すれば家にあがりこもうとしている下心のある男だと勘違いされたくない。
「一人暮らしの家事のトータルで考えると料理がマシ、というのはありますけどね」
「そうなんですか?」
「自分のぶんだけだと面倒というか。今日みたいな晴れの日とかでも、家帰るの遅くなるならなって洗濯せず出てきたりするんですけど、ないですか?」
「あぁ確かに今日洗濯日和でしたね、勿体ないことしたかも」
洗濯は溜まればする、にしている。そもそも仕事以外に着ていく服が無いというか、仕事の服と外出着が同じだし、それも色違いだったりするので、
「してなかった?」
「はい」
「へー」
揺野はそれで会話を終わらせてくる。なんなんだろう。もっと会話を弾ませればよかったのか。でも、家事の話題はリスクすぎる。セクハラになるのも怖いし。ひとまず時間つぶしスマホをいじっていると、やがてバスが最寄り駅に到着した。ぞろぞろと降りていき、遠足みたいに「みんな降りたか」なんて上司があたりを見渡す。飲み会の後みたいだなと思ってしまって少し憂鬱になった。会計係を店の外で待ち、二軒目どうするか、なんて話すあの感じ。早く帰りたい以外にないのに。
「……私と彼、抜けます。ちょっとやりたいことあるので、皆さんで飲み会楽しんでください」
揺野が上司に声をかけた。なんだろう。仕事でも入ったのだろうか。家に帰るのも面倒だけどこれから出社するのもだるい。上司は「大丈夫か?」と心配そうな顔をしているが、彼女は「私一人でも問題ないくらいなんですけどね、一応。こっちは次の電車にのるので」と付け足したことで、「分かった。頼んだ」と僕を見る。
この間の飲み会の、他社のことだろうか。二軒目の飲み会に付き合わされるよりはマシ……なのかもしれない。ほかの社員たちは僕らに気付くことなく改札の中に入っていく。最後に上司が一度だけこちらに振り返り、彼女は会釈で返し、僕も会釈する。
「行きましょうか」
そう言って彼女は改札と逆のバスターミナルに歩いていく。
「え、ど、どこに、会社とかに行くんじゃないんですか」
「なんでバーベキューのあとに出勤なんかしなきゃいけないんですか」
「え」
いったい、彼女は何を言っているんだろう?
さっき、上司に声をかけていたし、上司だってそのつもりで──。
「かぼちゃ一枚じゃ足りないし、お腹すいたし、そっちなんか午前からなんにも食べてないじゃないですか。どっか軽くつまめる場所でも行きましょうよ。飲まずに済むようなところで」
「え、えぇ、あ……」
人生でこんなこと起きたことが無い。いや、前職で外回りの後に上司がお腹が空いたと食堂に連れて行ってもらったりしたことはあったけど、この状況はそれとは違う気がする。だって男女だし。バーベキューの後だし。いや、そういうもの……? 僕が勝手に自意識過剰で考えすぎてるだけ……?
断れば下手に意識してる、なにより相手は先輩だ。
「もうバス来ますね」
そう言って腕時計を眺め、さっさと歩いて行ってしまう揺野に対して、いやそれだけじゃなくこの状況についておかしいと思いつつも、僕に断る勇気はなかった。