第1章1節: 目覚めたら森、ついでにエルフ
……ん……。
重い。瞼が鉛みたいに重い。
なんだかひどく疲れているような、それでいて妙に体が軽いような、奇妙な感覚に包まれていた。ジャングルの奥地で泥水啜って三日三晩彷徨った時とも、雪山でホワイトアウトに見舞われた時とも違う、経験したことのない種類の倦怠感と浮遊感だ。
あたしはゆっくりと目を開けた。
最初に視界に入ったのは、鬱蒼と茂る木々の葉。見たこともない種類の、けれどやけに色鮮やかな緑が、木漏れ日を浴びてキラキラと輝いている。鼻腔をくすぐるのは、濃密な土と草いきれの匂い。そして、どこか甘い花の香り。
明らかに、見慣れた景色ではなかった。あたしが最後にいたのは、ヒマラヤのベースキャンプだったはずだ。雪と岩と、薄い酸素。こんな生命力に満ち溢れた森じゃなかった。
「……どこだ、ここ……?」
掠れた声が出た。自分の声じゃないみたいに、なんだか高くて澄んでいる。喉に手を当ててみる。……ん? なんか、首が細いような……。
むくり、と上半身を起こそうとして、あたしは自分の体に走った違和感に目を見開いた。
軽い。
驚くほど軽いのだ。まるで羽毛にでもなったみたいに、自分の体がすんなりと持ち上がる。前世で鍛え上げた、岩のように硬質だったはずの筋肉はどこへ行った? 代わりに感じるのは、しなやかで、それでいてどこか頼りないような筋肉の感触。
そして、視界の端で揺れる、銀色の何か。
手を伸ばして掴んでみると、それは絹糸のように滑らかな、自分の髪の毛だった。
銀髪? あたしの髪は、太陽の下で鍛え抜かれた、丈夫な黒髪だったはずだ。
「な、なんだよこれ……」
混乱しながら自分の体を見下ろす。着ているのは、簡素な麻の貫頭衣のような服。それ自体は別に構わない。問題は、その服の下から覗く手足だ。
白い。驚くほど白い肌。そして、細い。冗談みたいに細い腕と脚。まるでモデルか何かだ。いや、それよりももっと……人間離れしたような……。
まさか、と思って自分の耳に触れる。
「……っ!?」
指先に触れた感触に、息を呑んだ。
尖ってる。
長く、そして綺麗に尖った耳が、そこにあった。
ファンタジー小説で読んだことがある。こういう耳を持つ種族……。
「エルフ……ってやつか……?」
俄かには信じがたい現実に、頭がくらくらする。どういうことだ? あたしは確かに、ヒマラヤで雪崩に巻き込まれたはずだ。それが、どうしてこんな……ファンシー極まりない姿になって、見知らぬ森の中にいる?
夢か? あるいは、死後の世界ってやつか?
いや、だとしたら、この強烈な空腹感はなんだ?
ぐぅぅぅ……。
腹の虫が、現実を告げるように高らかに鳴いた。死人は腹を空かせたりしないだろう。なら、これは現実だ。あたしは、ミランダ・エステファンは、どういうわけかエルフの美少女(自分で言うのもなんだが、多分そうだろう)になって、異世界の森にいる。
「……ははっ、マジかよ……」
乾いた笑いが漏れた。前世じゃ、世界中の秘境やら魔境やらを踏破して、どんな食材だって食らいついてきた豪腕冒険家で、ついでに天才料理人なんて呼ばれてたあたしが、まさかこんな結末を迎えるとは。いや、結末じゃないのか? 新たな始まり、ってやつか?
「……まあ、いいや。ごちゃごちゃ考えたって仕方ねぇ」
あたしはパンパン、と両手で頬を叩いて気合を入れた。思考を切り替える。
現状確認。場所は不明な森の中。体はエルフ(仮)。そして、猛烈に腹が減っている。
やることは一つだ。食料確保。話はそれからだ。
幸い、サバイバルに関してはプロ中のプロだ。この体がどれだけ動くか未知数だが、知識と経験は頭の中にしっかり残っている。あたしは立ち上がり、周囲を見回した。
視力が、異常に良い気がする。遠くの木の葉の葉脈まで見えるようだ。これもエルフ効果か? だとしたら、食材探しには好都合だ。
森の中を慎重に進む。地面には、見たことのない植物が生い茂っている。そのどれもが、妙に瑞々しく、生命力に満ちているように見えた。
ふと、足元にキノコが生えているのが目に入った。鮮やかなオレンジ色の、丸っこいキノコだ。
「これは……」
しゃがみ込んで観察する。前世の知識データベースを検索。……ヒット。間違いない、食べられるやつだ。しかも、かなり美味い部類のキノコに似ている。ただし、この世界のものだから、念のため毒がないか確認は必要だ。
ナイフ……は持っていない。仕方ない、爪で少しだけ傘の裏を傷つけてみる。変色はない。匂いを嗅ぐ。……うん、土と木の、いい香りだ。微かに甘いような香りも混じる。
大丈夫そうだ。あたしは根本から丁寧にキノコをいくつか採取し、服の裾で作った即席の袋に入れた。
さらに進むと、今度は蔓性の植物に赤い実がなっているのを見つけた。これも見覚えのあるベリー系の実に似ている。一つ摘んで、指で潰してみる。鮮やかな赤い汁が溢れ、甘酸っぱい香りが漂った。これも問題なさそうだ。いくつか摘んで袋に入れる。
「それにしても……」
歩きながら、あたしは先ほどから感じていた違和感の正体に気づいた。
食材の質が、やけに良いのだ。キノコもベリーも、まるで最高級品みたいに色艶が良く、香り高い。前世でこれだけの品質のものを手に入れようと思ったら、それなりの対価が必要だった。それが、この森にはそこらにゴロゴロしている。まるで、自然そのものが上質な食材庫みたいだ。
「……良い世界に来ちまったのか、それとも……」
何か裏があるのか。まあ、今は考えまい。空腹が限界に近い。
焚き火でも起こして、キノコを焼いて食うか。そう思った時だった。
――ざわざわ……。
微かな人の話し声と、生活音が風に乗って聞こえてきた。
人里が近い?
あたしは咄嗟に身を低くし、音のする方向へ慎重に近づいた。木々の隙間から、開けた場所が見える。どうやら小さな村、あるいは集落のようだ。粗末な木の家がいくつか建ち並んでいる。
よし、これで情報収集ができる。できれば食料も分けてもらいたい。そう思いながら、村人たちの様子を窺う。
広場の中心では、数人の男女が食事をしているようだった。テーブルのようなものはなく、それぞれ地面に座り込んだり、丸太に腰掛けたりしている。
彼らの手にあるものを見て、あたしは目を疑った。
一人の少年が、泥のついたままの巨大な芋にかじりついている。ごりっ、ごりっ、と硬そうな音が聞こえてくる。洗ってもいないし、火も通していない。生の芋だ。
隣に座る髭面の男は、大きな骨付きの肉塊を掴み、歯で食いちぎっている。肉の断面は生々しい赤色で、血が滴り落ちている。……生肉? 嘘だろ? せめて表面くらい焼けよ!
別の女性は、籠から取り出した魚を、そのまま頭からバリバリと食べている。鱗も内臓も取っていないようだ。
あたしは言葉を失った。
なんだ、この光景は。
原始時代か? いや、原始人だって火くらい使っただろう。
彼らは、素材を、そのまま食べている。何の加工も、調理もせずに。
「…………」
まさか、とは思う。だが、目の前の光景がそれを裏付けている。
この世界には……もしかして……。
「『料理』って概念が、ない……のか……?」
愕然とした。信じられない。
食材を洗い、切り、火を通し、味を付け、組み合わせる。そうやって、素材の持つポテンシャルを最大限に引き出し、新たな美味しさを創造する。それが料理だ。食文化の基本であり、人類の叡智のはずだ。
それが、この世界には存在しない?
なんだそれ。
食に対する冒涜だろ、それは!
こんなに質の良い食材が溢れているっていうのに、それを生のまま齧るだけ? 宝の持ち腐れもいいところだ!
ふつふつと、腹の底から何かが込み上げてくるのを感じた。
怒り? 呆れ? それとも……。
いや、違うな。これは……。
冒険家として、そして何より料理人としての、魂の疼きだ。
「……なるほどな」
あたしは思わず、口の端を吊り上げた。
「面白そうじゃねえか、この世界……!」
まずは、あの美味そうなキノコを、こいつらに食わせてやるところから始めるか。
あたしは身を隠していた茂みから、静かに立ち上がった。