表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/6

第5話 神様の湯浴(ゆあ)みと、巫女の心づくし

 春の日差しは、日増しにその暖かさを増していく。境内の桜も盛りを過ぎ、今は柔らかな新緑が目に眩しい季節だ。私は午前中の務めを終え、神社の石段に積もった落ち葉を竹箒で掃いていた。穏やかで、平和な時間。まあ、ある一点を除けば、の話だが。


 視線を上げると、縁側で小さな影がひなたぼっこをしているのが見えた。ナギ様だ。気持ちよさそうに目を細めている……かと思いきや、次の瞬間には、ひらひらと舞う白い蝶々を、指先一つ動かさずに目で追い、念動力で捕まえようとしている。蝶々はひらりひらりとそれをかわし、まるで小さな神様を手玉にとっているかのようだ。その攻防を飽きもせず続けているナギ様の横顔は、真剣そのもの。


 ふとした瞬間に、陽光がナギ様の銀色の髪を透かし、まるで光の糸のようにきらきらと輝かせた。普段はぐーたらでわがまま放題の神様だけど、こうして見ると、やはり人間離れした美しさをしている。白い肌は陶器のように滑らかで、小さな体躯には不釣り合いなほど、その瞳は深く、神秘的な青紫色を湛えているのだ。ああ、やっぱりこの方は、忘れられていようと力が弱まっていようと、神様なのだな、と改めて思い知らされる。まあ、その神様が今、蝶々相手にむきになっているのだが。


「はぁ……」

 思わずため息が漏れた。この神様との生活にも、少しは慣れてきたけれど、毎日が驚きと、そして胃痛の連続であることに変わりはない。


 その日の夕方。私は、少し古風な我が家のお風呂の準備を始めていた。薪で沸かす五右衛門風呂、とまではいかないけれど、追い焚き機能もない、昔ながらのタイル張りの浴室だ。湯加減を確かめ、脱衣所に着替えを用意する。


「ナギ様ー、お風呂、沸きましたよー」

 縁側でまだ蝶々と格闘していた(そして負けていたらしい)ナギ様に声をかける。すると、ナギ様はむすっとした顔でこちらを振り返った。


「……風呂? 面倒じゃ。我は水浴びなぞ好まぬ」

「そういうわけにはいきませんよ。昼間、蝶々を追いかけて少し汗もかいていらっしゃいましたし。それに、今日は良い香りのする入浴剤があるんですよ。柚子の香りです」

「ゆず……?」


 食べ物以外の香りに興味を示したのか、ナギ様が少しだけ反応する。よし、もう少しだ。

「温かいお湯に浸かれば、疲れも取れて気持ちがいいですよ。さっぱりしますし」

「……ふん。巫女がそこまで言うなら、浸かってやらんでもない」


 なんとか宥めすかし、私はナギ様を浴室へと連れて行った。しかし、次の関門は脱衣所だ。ナギ様は、自分の着ている白い単衣を脱ぐのを、頑なに嫌がったのだ。


「なぜ脱がねばならぬのじゃ!」「お風呂に入る時は服を脱ぐのが普通です!」「我は普通ではない、神ぞ!」「神様でも体は綺麗にしませんと!」


 まるで小さな子供とのような攻防の末、私が半ば強引に手伝う形で、ようやくナギ様は湯船に入る準備ができた。その小さな背中を見ていると、なんだか私が母親にでもなったような気分になって、またため息が出た。


 湯気がもうもうと立ち込める浴室。柚子の爽やかな香りがふわりと漂う。私は先に湯船に浸かり、ナギ様が入ってくるのを待った。


「……少し熱いかもしれませぬから、お気をつけて」

 声をかけると、ナギ様はそろり、そろりと小さな体を湯船に沈めた。初めてのお風呂(ここに来てから)だからか、少し緊張しているように見える。


 お湯に浸かると、ナギ様の白い肌がほんのりと桜色に染まった。濡れた銀髪が、細い首筋や小さな肩に張り付いている。湯気の中で見るその姿は、昼間の光の下で見るのとはまた違う、儚げで、どこか妖精のような美しさがあった。子供のように小さな体なのに、その存在感はやはり、人間とは異質なものだ。私は、神様と一緒にお風呂に入っているという、このとんでもない状況に、今更ながら心臓がドキドキするのを感じていた。


「……どうですか、ナギ様? 温かいでしょう?」

「……ふむ。まあ、悪くはない」


 最初は警戒していたナギ様も、お湯の温かさが心地よかったのだろう。次第に体の力が抜け、ふぅ、と気持ちよさそうな息を漏らした。そして、湯船の隅に浮かべてあった、私が子供の頃に使っていた黄色いアヒルのおもちゃを見つけると、興味深そうに指でつつき始めた。やがて、それを湯の中に沈めたり、ぷかぷか浮かべたりして、一人で遊び始めた。その無邪気な姿は、先ほどまでの尊大な神様とはまるで別人だ。


「ふふ……」

 思わず笑みがこぼれる。やっぱり、この神様は面白い。

「ナギ様、背中、流しましょうか?」

「……うむ。巫女がそうしたいなら、許す」


 私はナギ様の小さな背中に向き直り、柔らかい手ぬぐいにお湯を含ませて、そっと洗い始めた。華奢な肩、小さな背中。触れている肌は、驚くほど滑らかだった。ナギ様はされるがままになって、時折くすぐったそうに身じろぎするだけだ。


「……巫女の手は、存外温かいのじゃな」

 ぽつりと、ナギ様が呟いた。

「え?」

「……いや、何でもない」


 それきり、ナギ様は黙ってしまった。私たちは、しばらくの間、ただ湯気の音と、ちゃぷちゃぷという水の音だけが響く静かな時間を過ごした。それは、不思議と穏やかで、満たされた時間だった。


 お風呂から上がり、私がナギ様の体をタオルで優しく拭いてあげると、彼女はもう眠たいのか、こっくりこっくりと舟を漕ぎ始めていた。ドライヤーで長い銀髪を乾かしてあげている間も、私の膝の上で、小さな子供のようにすっかり安心しきった様子だ。普段の態度の大きさはどこへやら。この無防備な姿を見ると、どんなわがままも許してしまいそうになるから困る。


 綺麗さっぱりしたナギ様を、新しい寝間着(私が子供の頃着ていたお古だが、ナギ様は意外と気に入っている)に着替えさせ、布団に寝かせつける。あっという間に、すーすーと静かな寝息が聞こえ始めた。


 私は自分の部屋に戻り、少しだけ今日の出来事を日記に書きつけた。それから、どうしても気になって、そっとナギ様の寝顔を見に行った。湯上がりでほんのり上気した白い頬。規則正しい寝息。本当に、ただの可愛い子供にしか見えない。


 この神様の世話は、正直言って大変だ。振り回されてばかりで、胃が痛くなることもある。でも、こうして穏やかな寝顔を見ていると、その苦労もなんだか報われるような気がしてしまうのだ。大変だけど、愛おしい。そんな複雑な感情が、私の胸を満たしていた。


 窓の外では、春の夜空に、優しい星が瞬いていた。今日のお風呂で、私たちの距離は、また少しだけ、縮まったのかもしれない。そんなことを思いながら、私は静かに部屋の灯りを消した。

この小説はカクヨム様でも展開しています。

そちらの方が先行していますので、もしも先が気になる方は下記へどうぞ。


https://kakuyomu.jp/users/blackcatkuroneko


よろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ