第5話 神様の湯浴(ゆあ)みと、巫女の心づくし
春の日差しは、日増しにその暖かさを増していく。境内の桜も盛りを過ぎ、今は柔らかな新緑が目に眩しい季節だ。私は午前中の務めを終え、神社の石段に積もった落ち葉を竹箒で掃いていた。穏やかで、平和な時間。まあ、ある一点を除けば、の話だが。
視線を上げると、縁側で小さな影がひなたぼっこをしているのが見えた。ナギ様だ。気持ちよさそうに目を細めている……かと思いきや、次の瞬間には、ひらひらと舞う白い蝶々を、指先一つ動かさずに目で追い、念動力で捕まえようとしている。蝶々はひらりひらりとそれをかわし、まるで小さな神様を手玉にとっているかのようだ。その攻防を飽きもせず続けているナギ様の横顔は、真剣そのもの。
ふとした瞬間に、陽光がナギ様の銀色の髪を透かし、まるで光の糸のようにきらきらと輝かせた。普段はぐーたらでわがまま放題の神様だけど、こうして見ると、やはり人間離れした美しさをしている。白い肌は陶器のように滑らかで、小さな体躯には不釣り合いなほど、その瞳は深く、神秘的な青紫色を湛えているのだ。ああ、やっぱりこの方は、忘れられていようと力が弱まっていようと、神様なのだな、と改めて思い知らされる。まあ、その神様が今、蝶々相手にむきになっているのだが。
「はぁ……」
思わずため息が漏れた。この神様との生活にも、少しは慣れてきたけれど、毎日が驚きと、そして胃痛の連続であることに変わりはない。
その日の夕方。私は、少し古風な我が家のお風呂の準備を始めていた。薪で沸かす五右衛門風呂、とまではいかないけれど、追い焚き機能もない、昔ながらのタイル張りの浴室だ。湯加減を確かめ、脱衣所に着替えを用意する。
「ナギ様ー、お風呂、沸きましたよー」
縁側でまだ蝶々と格闘していた(そして負けていたらしい)ナギ様に声をかける。すると、ナギ様はむすっとした顔でこちらを振り返った。
「……風呂? 面倒じゃ。我は水浴びなぞ好まぬ」
「そういうわけにはいきませんよ。昼間、蝶々を追いかけて少し汗もかいていらっしゃいましたし。それに、今日は良い香りのする入浴剤があるんですよ。柚子の香りです」
「ゆず……?」
食べ物以外の香りに興味を示したのか、ナギ様が少しだけ反応する。よし、もう少しだ。
「温かいお湯に浸かれば、疲れも取れて気持ちがいいですよ。さっぱりしますし」
「……ふん。巫女がそこまで言うなら、浸かってやらんでもない」
なんとか宥めすかし、私はナギ様を浴室へと連れて行った。しかし、次の関門は脱衣所だ。ナギ様は、自分の着ている白い単衣を脱ぐのを、頑なに嫌がったのだ。
「なぜ脱がねばならぬのじゃ!」「お風呂に入る時は服を脱ぐのが普通です!」「我は普通ではない、神ぞ!」「神様でも体は綺麗にしませんと!」
まるで小さな子供とのような攻防の末、私が半ば強引に手伝う形で、ようやくナギ様は湯船に入る準備ができた。その小さな背中を見ていると、なんだか私が母親にでもなったような気分になって、またため息が出た。
湯気がもうもうと立ち込める浴室。柚子の爽やかな香りがふわりと漂う。私は先に湯船に浸かり、ナギ様が入ってくるのを待った。
「……少し熱いかもしれませぬから、お気をつけて」
声をかけると、ナギ様はそろり、そろりと小さな体を湯船に沈めた。初めてのお風呂(ここに来てから)だからか、少し緊張しているように見える。
お湯に浸かると、ナギ様の白い肌がほんのりと桜色に染まった。濡れた銀髪が、細い首筋や小さな肩に張り付いている。湯気の中で見るその姿は、昼間の光の下で見るのとはまた違う、儚げで、どこか妖精のような美しさがあった。子供のように小さな体なのに、その存在感はやはり、人間とは異質なものだ。私は、神様と一緒にお風呂に入っているという、このとんでもない状況に、今更ながら心臓がドキドキするのを感じていた。
「……どうですか、ナギ様? 温かいでしょう?」
「……ふむ。まあ、悪くはない」
最初は警戒していたナギ様も、お湯の温かさが心地よかったのだろう。次第に体の力が抜け、ふぅ、と気持ちよさそうな息を漏らした。そして、湯船の隅に浮かべてあった、私が子供の頃に使っていた黄色いアヒルのおもちゃを見つけると、興味深そうに指でつつき始めた。やがて、それを湯の中に沈めたり、ぷかぷか浮かべたりして、一人で遊び始めた。その無邪気な姿は、先ほどまでの尊大な神様とはまるで別人だ。
「ふふ……」
思わず笑みがこぼれる。やっぱり、この神様は面白い。
「ナギ様、背中、流しましょうか?」
「……うむ。巫女がそうしたいなら、許す」
私はナギ様の小さな背中に向き直り、柔らかい手ぬぐいにお湯を含ませて、そっと洗い始めた。華奢な肩、小さな背中。触れている肌は、驚くほど滑らかだった。ナギ様はされるがままになって、時折くすぐったそうに身じろぎするだけだ。
「……巫女の手は、存外温かいのじゃな」
ぽつりと、ナギ様が呟いた。
「え?」
「……いや、何でもない」
それきり、ナギ様は黙ってしまった。私たちは、しばらくの間、ただ湯気の音と、ちゃぷちゃぷという水の音だけが響く静かな時間を過ごした。それは、不思議と穏やかで、満たされた時間だった。
お風呂から上がり、私がナギ様の体をタオルで優しく拭いてあげると、彼女はもう眠たいのか、こっくりこっくりと舟を漕ぎ始めていた。ドライヤーで長い銀髪を乾かしてあげている間も、私の膝の上で、小さな子供のようにすっかり安心しきった様子だ。普段の態度の大きさはどこへやら。この無防備な姿を見ると、どんなわがままも許してしまいそうになるから困る。
綺麗さっぱりしたナギ様を、新しい寝間着(私が子供の頃着ていたお古だが、ナギ様は意外と気に入っている)に着替えさせ、布団に寝かせつける。あっという間に、すーすーと静かな寝息が聞こえ始めた。
私は自分の部屋に戻り、少しだけ今日の出来事を日記に書きつけた。それから、どうしても気になって、そっとナギ様の寝顔を見に行った。湯上がりでほんのり上気した白い頬。規則正しい寝息。本当に、ただの可愛い子供にしか見えない。
この神様の世話は、正直言って大変だ。振り回されてばかりで、胃が痛くなることもある。でも、こうして穏やかな寝顔を見ていると、その苦労もなんだか報われるような気がしてしまうのだ。大変だけど、愛おしい。そんな複雑な感情が、私の胸を満たしていた。
窓の外では、春の夜空に、優しい星が瞬いていた。今日のお風呂で、私たちの距離は、また少しだけ、縮まったのかもしれない。そんなことを思いながら、私は静かに部屋の灯りを消した。
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