第3話 神様の退屈しのぎと巫女の受難
あの衝撃的な出会いから、数日が過ぎた。私の日常は、文字通り一変したと言っていい。早朝、まだ夜の気配が残る時間に起き出して神社の務めを果たし、慌ただしく朝食の準備をし、学校へ行き、そして放課後は飛んで帰ってきて、夕方の務めと……新たに追加された、神様のお世話。それが、今の私の生活サイクルだ。
今朝も、私は台所で自分の朝食と、もう一人(一柱?)分の食事を用意していた。メニューは、昨日ナギ様が「美味であった」と宣った卵焼き(少し甘め)、それから焼き鮭、ほうれん草のおひたし、そして炊き立てのご飯と豆腐の味噌汁。いくら力が弱まっているとはいえ、神様のお食事だ。粗末なものは出せない、という妙なプレッシャーが、私の料理スキルを地味に向上させている気がする。
ちらりと自分の部屋を覗くと、案の定、布団がこんもりと盛り上がっている。ナギ様はまだ夢の中らしい。その静かな寝顔は、本当に無垢な子供のようで、神様だと言われなければ誰も信じないだろう。まあ、中身は数百年(あるいはもっと?)生きている、ぐーたらでわがままな神様なのだが。
「ナギ様、朝餉の支度ができましたよ。起きてください」
部屋の入り口から声をかける。布団がもぞもぞと動き、やがて中から銀色の髪が覗いた。寝ぼけ眼のナギ様は、実に不機嫌そうだ。
「……むにゃ……まだ眠いのじゃ……巫女、うるさい……」
「そう仰いましても、学校に遅刻してしまいますので。それに、ほら、卵焼きが冷めてしまいますよ」
「……たまごやき……?」
その単語に、ナギ様の目がピクリと反応した。食いしん坊な神様を起こすには、食べ物で釣るのが一番効果的だと、私はこの数日で学習していた。やがて、のそりと布団から這い出してきたナギ様は、まだ眠そうにあくびをしながらも、食卓に着いた。
「今日の卵焼きは、昨日より少し甘くしてみたのですが……いかがでしょうか?」
「……ふむ。まあ、許す」
もぐもぐと卵焼きを頬張りながら、上から目線で(でも少し嬉しそうに)言うナギ様。その様子に、私は内心で小さくガッツポーズをした。
朝食の途中、天気予報を確認しようとテレビをつけると、ナギ様が画面に釘付けになった。
「巫女よ、この光る板は何じゃ? 小さな人間どもが、中で動いておるぞ」
「えっと、これはテレビと言いまして……遠くの出来事を映し出したり、色々な情報を見たりできる便利な道具でして……」
しどろもどろに説明するが、ナギ様にはいまいちピンときていないようだ。それよりも、リモコンという名の小さな箱に興味を持ったらしく、勝手に手に取ると、不思議そうにあちこちのボタンを押しまくる。画面が目まぐるしく変わり、けたたましい音が鳴り響く。
「こら、ナギ様! 勝手に触っては……!」
慌ててリモコンを取り上げると、ナギ様は「つまらん」とばかりにぷいと横を向いてしまった。神様相手に「こら」はないだろう、と後から自己嫌悪に陥る。前途多難だ。
ナギ様を部屋に残し、学校へ向かう。
「いいですか、ナギ様! 私が帰ってくるまで、絶対に部屋から出ないでくださいね! それから、危ないですから、物に勝手に触ったりしないこと! いいですね!」
子供に言い聞かせるように念を押すが、ナギ様は「ふん、巫女は心配性じゃのう」と、どこ吹く風だ。本当に分かっているのだろうか。
学校にいる間も、気が気ではなかった。ナギ様はちゃんとおとなしくしているだろうか。何か悪戯をしていないだろうか。そればかりが気になって、授業の内容なんてほとんど頭に入ってこない。隣の席の友人には「詩乃、今日ずっとぼーっとしてるけど、大丈夫? 恋でもした?」なんてからかわれる始末だ。恋、ではない。断じてない。けれど、ある意味、それ以上に厄介な存在に、私の心は囚われているのだ。
放課後のチャイムが鳴った瞬間、私は教室を飛び出した。一刻も早く家に帰らなければ。嫌な予感が、私の背中を強く押していた。
そして、その予感は、見事に的中していた。
「ただいま戻り……って、な、ナギ様ーーっ!?」
自室の襖を開けた瞬間、私は絶句した。部屋の中は、まるで台風一過のような有様だったのだ。本棚から引きずり出された漫画や雑誌が散乱し、隠しておいたはずの非常用(ナギ様用)のお菓子袋は無残に破られ、中身が床に散らばっている。そして極めつけは、部屋の真ん中で、私のスマートフォンを手に持ち、小さな指で画面を必死につついているナギ様の姿だった。
「これは一体どういうことですかっ!?」
思わず叫んでしまう。私の声に、ナギ様はびくりと肩を揺らし、そしてバツが悪そうな顔で私を見た。けれど、すぐにふん、とそっぽを向く。
「……別に。少し、退屈だっただけじゃ」
「退屈だったって……! だからって、こんな……!」
言葉を失う私に、ナギ様は悪びれる様子もなく続ける。
「巫女の書き物を読んでみたが、なかなか面白いものもあったぞ。特に、あの絵ばかりの……ま、まんが? とやら。それから、この光る板も、テレビとやらに似ておるが、指で触ると絵が変わるのが愉快であった」
どうやら、漫画を読み漁り、スマートフォンで遊んでいた(あるいは遊ぼうとしていた)らしい。文字が読めることにも驚くが、それ以上に、この惨状と本人のケロリとした態度に眩暈がしそうだ。
「あのですね、ナギ様……」
深呼吸して、私は言い聞かせるように話し始めた。
「退屈なお気持ちは分かりますが、勝手に人の物を触ったり、部屋を散らかしたりするのは困ります。それに、スマートフォンは精密な機械ですから、壊れてしまうかもしれませんし……」
しかし、ナギ様は私の言葉を最後まで聞かず、「ふん、巫女のけち」と呟いて、再び布団に潜り込もうとする。
「けち、って……そういう問題じゃ……はぁ……」
もはや、怒る気力も失せてくる。私は、床に散らばった漫画やお菓子の袋を拾い集め始めた。それを、布団の中からナギ様がじっと見ている。その瞳には、悪戯が成功した子供のような光と、ほんの少しだけ、一人で留守番していたことへの寂しさのようなものが滲んでいる気がした。
この神様は、永い時間を生きてきて、たくさんのことを見てきたのかもしれない。けれど、今の彼女は、まるで好奇心旺盛で、構ってほしくてたまらない、小さな子供のようだ。そう思うと、なんだか強く叱ることもできなくて。
「……分かりました。退屈しないように、何かナギ様が興味を持ちそうな本でも、今度探してきましょう。だから、もう勝手に部屋を荒らすのはやめてくださいね?」
私がそう言うと、ナギ様は布団から顔だけ出して、「……致し方ないのう。巫女がそう言うなら、少しだけ待ってやる」と、偉そうに頷いた。
結局、私はこの小さな神様に、どこまでも甘いのかもしれない。
散らかった部屋をようやく片付け終え、夕食の準備に取り掛かる。今日の夕飯は何にしようか。ナギ様の好きな甘いもの……そうだ、カボチャの煮物でも作ってみようか。そんなことを考えている自分に気づき、私はまた一つ、深くて長い溜め息をつくのだった。この神様との生活、本当に、これからどうなってしまうのだろう。
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