第二話『神様のおなかの満たし方』
「…………腹が、減った」
少女の、凛としてはいるけれど、どうしようもなく間の抜けたその一言が、本殿の静寂の中にぽつんと響いた。私の頭の中も、同じように静まり返る。思考が、完全に停止している。
目の前にいるのは、この世のものとは思えないほど美しい、銀髪の少女。その身にまとう空気は、古く、強く、そしてどこか神聖ですらある。それなのに、発せられた言葉は、あまりにも俗だ。腹が減った、だなんて。
(……いや、でも……待って……?)
混乱する頭の中で、必死に記憶の糸を手繰り寄せる。祖母から聞かされた、この水杜神社にまつわる古い言い伝え。遥か昔、この土地を開き、人々を災いから守ったとされる、名もなき土地神様の話。人々はその神様を、親しみを込めて「ナギ様」と呼んでいたと……。けれど、それも今は昔。もう、誰も覚えていない、忘れられた神様のはず……。
目の前の少女から放たれる、尋常でない気配。本殿の奥、御神体のすぐそばという場所。そして、その古風な佇まい。まさか、とは思う。けれど、考えれば考えるほど、一つの可能性に行き着いてしまう。
ごくり、と喉が鳴った。震える唇をなんとか動かし、私は恐る恐る、少女に問いかけた。
「あ、あの……。失礼を承知でお伺いいたします。もしや、あなた様は……この水杜神社に祀られし、ナギ……様、で、いらっしゃいますか?」
私の問いに、少女――ナギ様?――は、心底面倒くさそうに、僅かに眉を寄せた。そして、こくり、と小さな顎を動かす。肯定、なのだろうか。
「……いかにも。如何にも我こそは、この地のナギである」
ふんぞり返る、というほどではないけれど、どこか尊大な口ぶり。しかし、その言葉はすぐに続けられた。
「それより巫女よ、話はよい。とにかく腹が減っておるのだ。さっさとなにか食わせよ。話はそれからじゃ」
やっぱり、お腹が空いているらしい。神様としての威厳と、空腹の訴え。そのちぐはぐさに、私の混乱はさらに深まる。けれど同時に、胸の奥から、じわりと熱いものがこみ上げてくるのを感じた。それは、巫女として、この神社の守り手として、長年忘れられていた神様が目の前に現れたことへの、畏敬の念と……そして、「お世話をしなければ」という、妙に具体的な使命感だった。
「は、はい! ただちに!」
私は反射的にそう答えると、ナギ様(仮)を促して、本殿の奥から連れ出した。何をどうすればいいのか分からないけれど、とにかく、この腹ぺこの神様(仮)をもてなさないことには始まらないだろう。
社務所の隣にある自宅へと案内する。普段、私と、たまに帰ってくる両親しか使わない、生 活感のある空間だ。ナギ様は、物珍しそうにきょろきょろと辺りを見回している。畳の匂いを嗅いだり、テレビを不思議そうにつついたり。けれど、興味は長続きしないようで、すぐに「巫女よ、まだか」と催促してくる。本当に、お腹が空いているらしい。
「も、申し訳ありません! すぐにご用意しますので、どうぞこちらでお待ちください!」
私はナギ様を居間に座らせ(勝手に座布団を陣取られた)、慌てて台所へと走った。神様へのお供え物……なんて、急に言われても何もない。とりあえず、何か、すぐ食べられるものを。冷蔵庫の中身を思い出しながら、頭をフル回転させる。
炊飯器には、幸い、夕飯用に炊いたご飯が残っていた。卵もある。味噌と、裏で採れたネギもある。漬物も……。
「……よし」
私は手早く支度を始めた。熱々のご飯をよそい、真ん中にくぼみをつけて新鮮な卵を割り入れる。数滴の醤油を垂らし、刻みネギを散らして、まずは卵かけご飯。それから、インスタントだけど出汁をとり、豆腐とワカメの味噌汁。あとは、自家製のきゅうりの浅漬け。質素だけど、心を込めて。神様のお口に合うかは分からないけれど、今の私にできる精一杯だ。
お盆に乗せて居間へ運ぶと、座布団の上で退屈そうに足をぶらぶらさせていたナギ様が、ぱっと顔を輝かせた。その反応は、神様というより、お腹を空かせた子供そのものだ。
「どうぞ、お召し上がりください。あり合わせのもので申し訳ありませんが……」
差し出すと、ナギ様は小さな手で器用に箸を持つと、まずは味噌汁を一口啜った。そして、ふぅ、と満足げな息をつく。次に、卵かけご飯を、小さな口で、しかし驚くほどの勢いでかき込み始めた。その食べっぷりは、神様らしからぬ、というか、むしろ見ていて清々しいほどだった。
あっという間にご飯と味噌汁を平らげ、お漬物までポリポリと食べ終えると、ナギ様は「……ふむ」と一つ頷いた。
「うむ。まあまあ、悪くない。特に、この黄身のとろりとした飯は美味であった」
どうやら、卵かけご飯がお気に召したらしい。少しだけ、ほっとする。
お腹が満たされたからか、ナギ様の纏う空気も、心なしか穏やかになった気がする。私は、改めてナギ様の前に正座し、自己紹介をした。
「改めまして、わたくし、この水杜神社の巫女を務めております、宮森 詩乃と申します。以後、お見知りおきを」
ナギ様は、私をじっと見つめ、そして言った。
「詩乃、か。よかろう、覚えておく。して、巫女よ。なぜ、我はこんなにも腹が減っておるのだ? 永いこと眠っておったはずなのだが……」
「それは……おそらく、ナギ様への信仰が薄れ、お力が弱まっているからではないかと……」
言い伝えによれば、神様の力は人々の信仰心によって支えられるという。忘れられた神様であるナギ様の力が衰え、その影響で空腹を感じているのかもしれない。
「ふん、人間どもめ。我の恩恵を忘れおって……」
ナギ様は、少しだけ寂しそうな、拗ねたような顔をした。その表情に、私は忘れられた神様の現実と、その胸の内にあるであろう深い孤独を垣間見た気がして、胸が痛んだ。
「力なぞ、とうに消えかけよ。せいぜい、この姿を保ち、巫女と話すくらいが関の山じゃ」
そう言って、ナギ様はふあ~、と大きなあくびをした。そして、私の部屋にあった客用の布団(いつの間にか自分で敷いていたらしい)にむくりと潜り込むと、あっという間にすーすーと寝息を立て始めたのだ。
あまりにも自由奔放な神様。その無邪気な寝顔と、先ほど垣間見せた寂しげな表情のギャップに、私は大きなため息をついた。
これから、どうなってしまうのだろう。このぐーたらで、食いしん坊で、でもどこか放っておけない神様との生活。両親には? 学校の友達には? 絶対に秘密にしなくては。
波乱万丈な日々が始まる予感をひしひしと感じながらも、私の胸の中には、ほんの少しだけ、退屈だった日常が色づき始めるような、奇妙な期待感が灯っていた。とりあえず、明日の朝餉は何にしようか。ナギ様の好きそうな甘い卵焼きでも焼いてみようか。そんなことを考えている自分に、私はまた、小さくため息をつくのだった。
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