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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

午後三時

午後三時、君は飛び降りた

作者: 星夏

午後三時、君と出会った。


午後三時、君とのお茶の時間。


午後三時、僕の唯一の幸せの時


午後三時、君が隣に居ない。


午後三時、欲しいのは君だけ。


午後三時、君だけを見ているのに。


午後三時、君はーーー



政略結婚で結ばれたそれ以上それ以下でもない両親、後継ぎとして申し分なく優秀な長兄、スペアとして申し分ない次兄。なんでも器用にこなせたがこれといったものはないが、フィルラリカ侯爵家に産まれた三男である自分。

これが僕の“家”。

特に家に思うこともないし、このまま何もなければ長兄が家を継ぐ。

次兄は長兄に男児が産まれるまではスペアになるのだろう。


貴族の子女が通う学院では三男とはいえ侯爵位もつ者と縁繋ぎしたいと考える者たちが近づいてくる。

にこやかに笑って求められる貴族然とした振る舞いをし、侯爵家の“アシューム・フィルラリカ”を上手くやるのが今の僕の役目か。

求められる通り生きていけばある程度の不便はないだろう。


これから先ずっと代わり映えのしない人生を歩んでいくのだろうと、思うこともなく生きていた。


貴族の子女が通う全寮制の学院。

白を基調とした建物の外に広がるのは、数日に渡る雨やどんよりとした曇りと打って代わりしばらくぶりの晴天。それを満喫するように散歩を楽しむ者が多く、学院の建物内は閑散としている。

廊下を歩くなかですれ違う人も少ないが、まったくいないわけではない。けれど学院の端の方へ行けば行くほどに人はいなくなる。元々あまりに広い学院の端まで来る者も少ないせいであろう。


だから廊下の先にいた人影はすぐに目についた。


窓の外に目を向けている濃紺の髪をした女生徒。

窓から目を離しこちらに気づいたらしい令嬢はその歩を進めはじめた。

すれ違う際に会釈をかわし通り過ぎる、はずだったーー。


「君は、外には出ないのかい?」


いつの間にか僕の口からはそんな言葉が漏れ出していた。

なぜそんな問いかけをしたのか自分自身でも分からない。

すれ違う際に見えたどこか曇ったような薄紫の瞳のせいだろうか。

僕は振り向き少し先で止まるまっすぐに流れる濃紺の背を見る。令嬢はゆっくりと振り向き、その薄紫の目には今度は困惑の色をのせている。


「………今日は、外に行く気分ではないので」


当たり前だ、いくらしばらくぶりの晴天でも外に出ない人はいるだろう。自分も今廊下を歩いていたのだから、その一人であるわけだし。


「そうだ、ね。そういう気分じゃない時もある。……あ、名乗っていなかったね。僕はアシューム・フィルラリカ」


そう返せば令嬢はお手本のようなかっちりとした完璧な礼で名を名乗った。


「シオン・マモットです」


その家名、彼女の名は学院内でも貴族社会でも有名なものだった。


「ああ、マモット伯爵家のご令嬢」


彼女にはあまり関わるのはよろしくない。

家族から疎われていることは多くの人が知っている。だから周りも彼女と関わることを必要以上に行わない。それは暗黙の内に知れわたっていること。

それを破ろうとする変わり者はいないに等しいはずだ。


けれど、一瞬見えた苦しそうな顔。


そして、鳴り響いた鐘の音。

午後三時を告げる、鐘の音。


「ああ、もうこんな時間なんだね。……マモット嬢よろしければ、一緒にお茶でもいたしませんか?」


またするりと流れ出た言葉。

令嬢も困惑しているようで止まっている。

対する自分も何故なのかと自分自身に対して、心の内ではどこか戸惑っているのだが。


「ダメ、かな?」

「……いいえ、お誘いありがとうございます」


と、またあのかっちりと完璧な礼とともに返事が帰ってきた。


その礼を見るとどこかたまにはいいのかもしれないと思う。“求められる貴族”から逸脱することも。



元々の目的地である屋内庭園。学院内には屋内外に大小様々な庭園がある。

その中でここは僕の中では一番美しい庭園であると思っている。

まあ全ての庭園を見て回ったわけではないのだけど。


「ここは初めてかな」

「え、ええ。初めてです」


庭園に見入っていたマモット嬢は僕の声に驚いたように返した。


「ここは学院の端の方だからか、あんまり知る人もいない場所でね」


他の生徒たちは学院の端も端にわざわざやって来ることはない。おかげでこの庭園は穴場の一つだといえる。

だからこそこの庭園は一人静かに過ごせる場所。

そしてその時間にいつも侍女に頼みティーセットとお菓子を用意させている。その侍女も僕が来る時間までに準備をし、終われば庭園から出るように命じている。

令嬢を席へエスコートし、いつもは使うことはない予備のカップを令嬢の前へ慣れた手つきでお茶を注ぐ。

三男とはいえ曲がりなりにも貴族が自分でと思うかもしれないが、侍女ですら排して一人で過ごすためには自然とやるしかなかった。

用意を終え向かい合い座る彼女は動く気配がない。


「お茶も菓子も気に入らなかったかな……?」

「え」

「手を、つけていないから…」


まったく手をつける様子がないそれら。


「違います。ただ、なぜあたしをお茶に誘って頂いたのか、考えていて」


そう言った令嬢が僕を見る瞳には困惑や訝しみなどでくすんでいた。


「……うーんそうだね。廊下ですれ違った時に、君があまりに辛そうな、悲しそうな顔をしていたいたから……だから、かな」


正直自分でもよく分からないのだ。

するりと流れ出た言葉、あれは自分の本心だったのか。

連ねていく言葉もどこか無意識に流れ出す。


「どう、声をかけていいか分からなくて、あんな問い掛けをしてしまって……。ちょうど三時の音がなったから、お茶に誘ってみたんだけど……。お節介かもしれないけど、相談くらいならのるよ」

「フィルラリカ様は、あの子……あたしの妹、ルフィーアを知っていますか」


先ほどとはまた違う廊下で見た時の曇った瞳は、テーブルへと向けられている。


「知っているよ。夜会で数回会った事があるかな。マモット伯爵と一緒に挨拶されたから……君とは今日が初めてだね」


彼女は事情ゆえ夜会に出席すること自体かなり稀であると知ってはいた。挨拶回りすらほぼ帯同されることのない彼女の声を聞いたことがある人間がどれほどいるのだろうかとふと思う。

それもそうだろう……。


「もしかして、……君の悩みは妹さんについて?」


わかりきっていることだ。

今更すぎる。


「あたしは、いつもあの子に負ける」


それは痛みをともなった声だった。


「どんなにあの子より頑張っても、褒められるのはあの子だけ。あたしなんかより劣るところがあるくせに。両親の愛もあの子は持っていて。かわいくて、甘えたがりで、無知なあの子。あたしは、あの子の引き立て役にもさせてもらえない。ねぇ、フィルラリカ様。あなただって、あの子の方が、良いんでしょ」


途中でこちらに向けられた瞳。彼女は気づいていないのだろうか。

その瞳に浮かんでいるものが、


「泣かないで。僕は君をそんな扱いしない。君と妹さん、どちらがいいかなんて言われても、まだよく知らない今の僕じゃ何も言えない」


僕は知っているようで何も知らない。

そっと伸ばし触れた頬は、冷たい。

頬に触れられたことの意味が分からないと語る瞳は、自分が泣いていないと思っているのだろう。


「目が潤んでいる。辛そうな顔だ」


そう言うと彼女は自分の唇を強く強く噛み締めた。

それに慌てたのは僕だった。


「あぁダメだ!そんな事したら」


頬から顎へと移した手。親指でそっとその噛み締められた唇へと触れる。


「こんな事しちゃダメだ。綺麗な唇なんだから」

「……っ!」


息を飲む声ではっとした、自分が何をしているのかを。


「っ…すまない!!」

「い、いえ!」


頬を赤くする彼女と同じく僕もそうなっているだろう。

気まずくなった空気の中で、それでも僕は言った。


「……君の気持ちを理解してあげる事はできない。だけど話を聞くくらいなら出来るから、辛いなら僕に話してくれない、かな……」

「……お言葉はありがとうございます。ですが、結構です」

「そう、だよね……」


そうだろう。会って少しの相手にまして貴族相手に……。


「知り合ったばかりの僕になんて、無理だよね。すま「違う!!」


遮り叫ばれた声。


「あたしなんかを気にかける人なんていない!どうせあなたのそれは同情でしょ!自分が優しいて優越感に浸るための!そうじゃなかったらあの子に近づくため、お生憎様!あたしを気にかけた所であの子に届くものなんてないわ!………あたしの事なんて、ほっといてよ」


捲し上げられた声、けれど弱々しく出された最後の声。

それにより静かな庭園に令嬢の少し乱れた息だけが聞こえる。


「同情……そう、かもしれないね。うん、でも。例えそうだっとしても、悲しそうにしている君をほっとけないんだ。君がそう思うなら、それでもいい。僕を利用するとでも思ってくれてもいいんだ。君からしたら、言い訳に聞こえるかもしれない。偽善に見えるかもしれない、けどね」


無償で何の忖度もなく他人に優しくしたことはなかった。

貴族社会はいつだって腹の探りあい。忖度し何が自分に家に利益をもたらすか考え、それに見合う付き合いをしてきた。

だから僕は今初めて自分の心からの意思で、人と関わろうとしているのかもしれない。

彼女の気持ちの一端に触れて、僕は彼女と関わりたいと、彼女の気持ちを和らげたいと思っているのだろうか。


「………フィルラリカ様。そろそろ、あたしはお暇させて頂きます。……失礼いたします」


彼女はそう言い立ち上がると礼をし、出口へと歩きだした。

慌てて僕も立ち上がり去り行く背に言葉を叫んだ。


「待って!……また、この時間、ここに居るから。いつでも来てくれ」

「………ええ、お時間がありましたら」


一度だけ立ち止まりその言葉を残した彼女は芳しい花の向こうへと消えていった。



今まで上手く侯爵家の三男、アシューム・フィルラリカをこなせていた。

なのになぜだろうか。昨日今までなら関わることなどほぼないであろう彼女をお茶に誘ったのは。

……あの瞳を見たからなのかもしれない。

すれ違った時の曇った瞳。

彼女のことを僕が知っていることはあまりにも少ない。

疎われ、双子の妹ばかりが“誰から”も愛されている。

両親からも周りからもそれは会ったことすらない人間からも。

昨日一瞬覗かせた少しばかりの本当の気持ち。

彼女は全てから長く疎われてきたせいか、向けられた無や負の気持ち以外を信用できなくなっているのだろう。

所詮他人が他人の気持ちを全て理解することはできない。

彼女の苦しみも痛みも疎外感も何も理解することはできない。


……けれど少しでもその重荷を共に背負えたなら昨日とは違う瞳を見れるのだろうか。


ふっと息を吐く。

結局僕はただ正しい貴族としての道を外れようとしているのか。


「……少し歩くかな」


いつもの定位置であり昨日彼女を迎えた庭園のテーブル。

向かいの席には伏せたティーカップ。

立ち上がり、自分の足音しか響かない庭園を進む。

派手ではないが色とりどりの花木たちの芳香。いつもと何ら変わりはない。変化は今だ理解できていない自分の内だけ。

またそっと息を吐く。

その向こうから音が響いた。扉の開く音だ。

まさかとゆっくりだった歩を早める。

扉に近づくにつれ荒れた息づかいが聞こえる。


「……君!どうしたんだい?!」


座り込み床に手を付き下を向く女性。

声に反応し上げられた瞳。


「マモット嬢じゃないか…?何かあったのかい!」


慌てて彼女に駆け寄る。

驚いたような顔はやがて徐々に歪んで……。


「どうしてあなたは、あたしに優しくするのよ…!どうしてあなたは、他の人の様にあたしを扱わない!どうしてよ……」


悲痛に叫ぶ声が響き、外の曇天が彼女に同調するように“雨”を降らせた。


「君は僕にそうして欲しいのかい」


彼女の瞳がさらに悲しみに彩られる。


「それを君はほんとに望んでいるの………そうじゃないはずだ」


振り払われるかもしれないと思いながらもそっと頬に触れる。

触れた頬はやはり冷たい。


「だって君は、泣いているじゃないか」


僕の手を伝い流れ落ちた涙。薄紫の瞳が揺れる。


「僕は、そんな事しない。嫌がられても、僕は君に優しくする。たとえ、同情でも、偽善でも、優越感に浸りたいだけと君が言おうと、君がどう思おうと………僕は君に優しくする」


そして自分自身がどう思おうと。


ホロリホロリと流れる涙。

それが全てから隠れるように抱きしめる。

きっと彼女は、人に涙を見られるのに慣れていないだろうから。


「…いいの……ほんとにいいの?あたしに……優しくしてくれるの?あの子じゃなくて?」


弱々しく今にも消えてしまいそう。


「うん。君がいいのなら、君がいいんだ。僕にはそれくらいしか出来ないから。……今なら顔が見えないよ」


その言葉をきっかけに彼女は泣いた。幼子のように声をあげて、たくさんたくさん涙を流した。

僕はただただその背中をやさしく撫でた。彼女が落ち着くまできっと今まで流せなかった涙まで流れでてくれるよう願いながら。


どれくらいそうしてたか分からないが、しゃくりあげる肩も落ち着いてきた。

その頃には外の雨はしとしとと弱々しくなっていた。


「……フィル、ラリカ様、ありがとうございます。……みっともないところを、すみませんでした」

「いや、いいんだよ」


そっと身体を離し、残っていた涙を拭う。

すると彼女の頬が赤く色づいた。


「大丈夫かい?頬が赤いけれど……」

「へ………い、いえ!何でもありません!」


泣いたせいで熱でも出たのかと心配する僕を、彼女は必死に諭した。


「そうだ。お茶を準備していたんだけれど……きっと冷めてしまっているね。入れ直して、一緒に飲まないかい?」

「ありがとうございます。でも、気を使わないでください。あたしは冷めていてもかまいませんから」

「そうかい。すまないね。……お手をどうぞ」


立ち上がり、そっと手を差し出す。

立ち上がった彼女を確認し、取った手を優しく包みエスコートする。


用意されていた紅茶はやはり冷めきっていた。

けれどその紅茶を一口飲んだ彼女は


「……美味しい」

「……よかった。この紅茶は僕のお気に入りなんだ。とても美味しいものだから、次の機会には最高のタイミングで用意するよ」


「次……」

「うん、君がいいのならまた“次”も、二人だけのささやかなお茶会だけど……どうかな?」

「……うれしい、です」


呟きとともに流れたしずく。


「よかった」


それを手を差し出し拭う。


「すみません。泣いてばかりで……」

「いいんだよ。ずっと我慢していたんでしょう。なら僕の前では遠慮なんてしないで。いくらでも泣いたっていいんだ。……でも、目は後で冷やさないといけないね」


真っ赤になってしまった瞳や頬。

その代わりにこれまで溜め込んでいたものを少しでも流し出せたのならいい。少しだけ晴れやかになったような彼女の瞳はきれいだ。


「ありがとうございます。フィルラリカ様」

「いや、いいんだ……それより。“フィルラリカ様”だとなんだか堅苦しいから、アシュームと呼んでくれないかい」

「え……」

「僕もできるなら君の事をファーストネームで呼ばせてくれないかな」

「……フ、フィルラリカ様が、構わないのでしたら。あたしは、い、いですよ」


吃りながらだけれど、それは了承で素直に嬉しくなる。


「うれしいよ」


自然に浮かんだ笑み。……きっと生まれて初めてだ。本当の笑顔なんて。


気持ちだけではなく周りが明るくなった気がして、ふと目を向けた窓の外、


「あ、シオン……嬢。見てごらん」


僕が指差した先には、


「虹……」


いつの間にか雨の止んだ空には大きな虹が架かっていた。


「とても、綺麗だね」

「はい……アシューム…様」


その横顔は、静かに微笑んでいた。

それに胸が鳴る。


この日から、シオン嬢と僕だけの二人だけのお茶会が始まった。



全ての授業が終われば話しかけてくる誰彼をやり過ごし、庭園へと向かう。

ざわざわと騒がしい学院の端へと急ぐ。端へといくほど人は減り、人影がなくなると歩みを早める。


正直内に仕舞い込んでいたが、貴族が好きではない。

家も周りも“アーシュム・フィルラリカ”も貴族というドロドロとした世界が嫌いだった。

考えないようにしていたが、シオン嬢と出会ったことで蓋がいつの間にか開いていた。


「すみません。遅れてしまいました」

「いや、大丈夫だよ。まだ鐘は鳴っていないからね」


少し足早にやってきたシオン嬢に笑いかける。彼女は約束の時間に遅れてなんかいない。

だって、ほら、


ゴーンという、二人だけの茶会の始まりの音が響いた。


「ほらね。……さあ、どうぞ」


いつものように椅子を引き彼女をエスコートする。

ちょうど飲み頃になるように用意されていた紅茶と菓子をセッティングする。

午後三時、この時間はシオン嬢とのお茶の時間。

元から人が来ることのほぼないこの場所だが念には念をいれて人払いもしてある。

だからこの場所この時間は二人だけの空間になる。

紅茶も菓子も彼女が少しでも喜ぶようなものをと選び抜いている。選ぶという行為も彼女が喜ぶ顔を見られたらと思いながら探していると、自ずと笑みが溢れ楽しい時間だ。

シオン嬢は全ての手配や用意される紅茶と菓子を僕にばかり任せることに恐縮していた。だが元々ここを一人で利用していたこと、紅茶も菓子も自分“も”食べたいからだと言ってしまえば、シオン嬢はあきらめてしまった。

自分もというのは自分もシオン嬢と同じものを共有したいということなのだが。

シオン嬢とこうして茶会をするようになって、彼女が押しに弱いところがあるのだと知った。

彼女のことを何か一つ知れる度に嬉しくなった。


「今日の菓子はどうかな。最近評判の物を取り寄せてみたんだけど……」


派手ではないが赤く熟れた苺が敷き詰めらたタルト。評判を博していると聞いた逸品だ。


「とても、美味しいです」

「そう、よかった。また取り寄せるよ」


口にした時の笑み。美味しいと答えた顔にもまた浮かぶ笑みに、これを選んでよかったと心から思う。

その笑み見るだけで、心はほのかな幸せに包まれる。

そして唯一僕だげがその笑みを知っているのだ。


「……どうか、したかい?」

「あ、いえ。なんでも」


こちらを見て固まるシオン嬢を不思議に思ったが、何でもないというのだからと気にしないことにした。

どちらからともなく始めた他愛ない話、時折話が止まってもその静寂は居心地の悪さもない。

二人だけのお茶会はゆったりと過ぎていった。



「フィルラリカ様、今日は天気も良いですし放課後にでもわたくしとお茶会でもいたしませんか?」

「いいですわね。わたくしも混ぜて下さいな」

「あら、わたくしもご一緒したいわ」


教室へと戻る道中に幾人かの令嬢に捕まってしまい、お茶の誘いを受けている。

放課後は大切なシオン嬢との時間だ。もちろんそれを遮るような他人からの誘いなんて受けるつもりはない。

それに中身のない話か腹の内を探りあうだろう茶会などまっぴらごめんだ。

もし今目の前にいるのがシオン嬢だったならばよいのに。

叶うならば、シオン嬢と庭園以外でも会い話し笑い合えたならば……いやそれは叶わない。


ふっと視界の端に知った色が見えた。視線をそちらに投げると、顔に浮かべ続けるのも疲れるだけの作り笑いが変わる。

あまりにも締まりのない笑みを浮かべていないといいけれど。


「すまない。放課後は用事があるので、またいつか」

「それは残念ですわね…」

「ご用事があるのでしたら、しかたありませんわ」


答えながらも、立ち去っていく濃紺色を名残惜しく気持ちを馳せてしまう。

用事、それはもちろんシオン嬢との唯一の会える大切な時間だ。

全てから疎まれる彼女が僕に気を許して笑ってくれる。どんなことで笑い、照れるのか。圧し殺してきた涙も泣き顔も。臆病で一人で立っているつもりでけれど危うい。甘いものが好きで自分では気づいていないけれど、その瞳はきらきらと菓子にむいている。彼女を誰より知っているのは僕だけだ。

これだけ多くを得てもさらに望んでしまう。

もっともっと、と。

それはきっと、


「ーーーー」


「?何かおっしゃいましたか?」

「……あ。あぁ、いや。何でもないよ。さぁそろそろ教室へと戻りませんか?」


別れの挨拶とともに去っていく令嬢とは逆の方へと最後に瞳を向けて、僕も教室へと戻る。



この本を手に取ったのは偶然だったとしても、興味を持ってしまうのは必然だったのだろう。

そっと頁を捲る。花の甘やかな香りと静寂に満ちた空間。シオン嬢と出会う前からよくここでこの本を読んでいた。

自分のものではない衣擦れの音を聞き顔を上げる。


「……やあ、シオン嬢。気づくのに遅れてしまたね。ご機嫌はいかがかい」

「とくに良くも、悪くもありません」


いつもとは違うツンとした物言いと態度には思い至ることがある。

本をテーブルの端に置き席を立つ、いつも通りに椅子を引き紅茶類を出せばお茶会のはじまりだ。


「アシューム様」

「うん?なんだい」

「今日、あたしとすれ違った時に笑いかけませんでした?いえ、自惚れる気はありませんが。もし他の方にでしたら良いのですけど。……もしあたしへでしたら、やめてください。バレてしまいます」


ツンとした少し嫌みたらしい物言いがかわいいらしい。


「ああ、すまない」


彼女は僕と親しい間柄であることを周りに知られたくないと言う。

それはシオン嬢が僕を気遣ってのこと。

僕は気にしないと言ったが引かない彼女に折れるしかなかった。


「でも、バレてはいないし。……ダメかい」

「はい」

「次は気をつけるよ」

「……………はぁ、わかりました」

「ああ、ところで今日の菓子はどうかな」


わざとらしいが話題を変えるしかないな。

シオン嬢もしょうがないなという表情でフォークを取り菓子を口にしてくれた。


「ええ、美味しいですよ」


菓子のおかげで柔らかくなった顔には笑みが浮かび、それを見た僕も単純なもので笑みが溢れる。


「……どうかしたかい。また、何かあったんじゃ」

「あ……いえ、そんな。ちょっと考え事をしていただけです」


なのにその笑みが消え暗い色が現れれば、心配で悲しくなる。


「そういえば、何を読んでいたんですか」


今度はシオン嬢が話をそらした。

君の顔を曇らせるもの悲しませるもの全て話して欲しい、けれどシオン嬢が話したくないのなら話してくれないくてもいい。

………話してくれなくてもシオン嬢にまとわりつき一生変わらないこと、それがいつもシオン嬢を苦しめていることはわかっているんだ。


「これかい?これはね、異国の物語を集めたものだよ」

「異国、ですか……」

「そう。いろんな物語が載っていてね。とても面白いよ。………いつかここを出て、遠くに行ってみたいな」


端に置いていた本の表紙をそっと撫でる。

幼い日に見つけ、無性に引かれた本だ。きっと貴族として麻痺していく心に引っ掛かったのだろう。


「その時は、シオン……嬢も一緒に行かないかい」


叶わないということはわかりきってることだ。

僕には何もできない。侯爵家の優秀な兄をもつ三男というのはあまりにも力がないのだ。

けれど夢見てしまうんだ、広い世界でただただ笑う君の姿を。


「………いいですね。是非その時は誘ってください」

「ああ。……そうだ、この本を貸すよ。読んでみて」


本をシオン嬢へと差し出すと彼女は受け取り、そっと開き頁を捲っていく。


「おもしろそうですね。読んでみます。……あ、でも、もうすぐ長期休暇に入りますよ。それに、まだ途中なんじゃ……」

「いや、もう読み終わって何度も読んでいるものだから大丈夫だよ。本は長期休暇明けにでも返してくれればかまわないから」

「なら、お借りしますね」


本を閉じるとまるで宝物を抱くようにシオン嬢は本を抱き締めた。

もし叶うのならその本を開く度に僕のことを、このお茶会のことを思い出して欲しい。会えない間。傲慢な願いだろうか。


「……ありがとうございます」

「どういたしまして」


いつの間にか頬を染め本抱きしめる彼女の柔らかなその濃紺の髪に触れていた。


「ど、どうして、撫でるのですか!」

「何となくだよ」


慌てふためくシオン嬢が愛しくて止めずにいれば、怒りのぶつけどころを失ったらしくむっすとしたままも受け入れてくれた。

眼の前に迫ったシオン嬢との長い間会えなくなる日々、だからこそこのくらい許して欲しい。



学園が長期の休暇へと入ったがただ一秒でも早くこの灰色の日々が過ぎればと過ごしている。

ふとした瞬間、シオン嬢のことが浮かぶ、彼女が今どんな時間を過ごしていてあの本は読んでいるのだろうか、彼女は笑えているだろうか……。


長期休暇の間、貴族としてのやらねばならないこと参加しなければいけない集まりなどそれなりにあり、夜会もその一つだ。

アシューム・フィルラリカとして求められる振る舞いを行いただ早くあの日々がお茶会が恋しかった。

そんななかこの日の夜会の主催はマモット伯爵家だった。父から共に参加を命じられたときからもしかしたら会えるかもしれないと、逢いたいと切に思っていた……。

彼女に逢えるかもしれないと高揚する心を抑え嘘で作り上げ固まった笑顔を貼り付け父の横に並ぶ。


「やあ、ルフィーア嬢。ご機嫌いかがですかな?」

「まあ!フィルラリカ侯様。いらしいてらっしゃたんですのね!」


無邪気すぎるほどの笑顔、仕草。愛らしく、この世で一番の幸せ者は自分だと言わんばかりの、薄桃色の髪と同色の瞳をした少女。


似ていない。

すべてが似ても似つかない。

愛らしく幸せだとあふれる笑顔の少女と独り泣き崩れる彼女。


「お久しぶりです。マモット嬢」

「ほんと、学院内ではまったくお会いしませんでしたね」


にこやかにお手本取りの礼をとる。

そうしながら、僕は彼女を目の端で探している。

ほとんど夜会に出れない彼女でも自本の家がホストとなれば伯爵も出す可能性がある。

案の定ホールの隅、ちょうどテラスへと出る後ろ姿が目に入った。

後ろ姿だけでも、それが彼女であると確信できた。幾度となく見た後ろ姿、間違えるはずなんてない。

目の前の少女とは似ていない真っ直ぐと流れる濃紺。


はじめは軽く礼儀として会話をしようと考えていたが、けれどそれは辞めそうそうにこの場を離れ彼女の元へと向かうことにした。いや、彼女の後ろ姿をみてしまったのにここに居続けるなんてできない、できるなんて思えない。


ーー早く逢いたい。


無邪気に笑いこちらに話しかけてくるマモット嬢。

そばにいたはずの父も伯爵もいつの間にか離れている。


「マモット嬢、あちらの方にご学友の方々がいらっしゃいますよ。こちらの方を見ていらっしゃるのでマモット嬢とお話ししたいのではないですか?」


シオン嬢と出会ってからこの薄桃色の少女もその取り巻きも目入ることが多くなり、その中の幾人かをぼんやりと覚えていたのが役に立つとは。


「本当だわ!う~んでもわたしアシューム様ともっと話したいことがあるんだけれど、どうしましょう?」


う〜んう〜んと悩むふわふわと甘ったるい声。


「……実は僕も会いたい学園の方がいまして、なかなか夜会では見かけない方なのです。今日はどうやら顔を出しているようで少しばかりでも話してきたいのです」

「まあ!そうなんですか?!ならわたしと今度学園でたくさんおしゃべりするとして、今日はその方に会いに行ってください!わたしもリウールたちとおしゃべりしてきますね」


勝手にまたと言い残し急ぎ足で去っていく薄桃色のふわふわとした後ろ姿。

勝手な約束ができたがこれでシオン嬢に会える。


僕もそのままシオン嬢が出ていったテラスの方へと歩く、周りに声をかけられぬよういつもより目立ったぬようにしながら。


追いかけ外へ出ると月明かりしかない外は、今まで明るすぎたホールにいた目は慣れるまでほんの少しかかった。

外には綺麗に整えられた庭園があり、昼間であれば存分に人の目を愉しませてくれるのだろう。けれど今そんなものはどうでもいい。

今僕が見つめたいのは唯一。

やっと見つけた背中は小さく今にも消えてしまいそうで。

僕の口は自然に言葉が出ていた。


「こんな所に居た。寒くないかい?」


声をかければびくりと肩が揺れ、こちらを見上げた瞳は濡れていた。


「……泣いて、いるのかい」

「アシューム、様……なぜ」

「シオン嬢が、君が、ホールを出るのに気づいてね。……大丈夫なんて、聞かないよ。辛いんだろ」


シオン嬢が答える前に涙に濡れかける顔をそっと抱きしめ隠した。

君はいつだって一人で泣いているね。………そうすることしかできないから。

なら僕が涙を拭える人になろう。そばにいる人になろう。君を抱きしめてあげられる唯一になろう。

傲慢だと言われようとも僕は君の唯一になりたいんだ。


「……アシューム様。あの子と、話さなくていいのですか」


いまだ腕の中の彼女は、少しかすれた声で呟く。

やはり見ていたんだと思った。あの場所には彼女が一番目にいれたくなくとも目に入ってしまうあの少女がいてその隣に僕がいたんだから。


「挨拶はもう終わったからね。必要ないよ。……それに、君と話したかったから。元気だったかい?」


腕の中で小さく頷く君の動作に笑みがこぼれる。


「そう、よかった。僕も元気だったよ。でも君に会えなくて寂しかった。……君は」


間が空いて、でも頷いてくれたのが嬉しくてそれだけで心が満たされる。

逢いたかった。ずっとただ逢いたかった。


「同じだったんだね。うれしいよ。また、お茶会をしよう。その時は、何か食べたい菓子はあるかい?」


鐘の音と紅茶と菓子と花の香り、静な空間で君の瞳に映るのは僕だけ。唯一の幸せだ。できるのなら、許されるのなら、永遠にあの場所にいたい。そうすれば君は涙を流さずすむかもしれないのに。

僕は傲慢だ君の幸せがどこにあるのかも本当は知らないのに、でもそれでもここじゃない。

なによりも傲慢な願いが叶うとしたら君の手を引いて僕は…………。

首を横に振る。


「そう。じゃあ何にしようか。……ああそうだ。この前とても美味しいシフォンケーキを教えてもらったんだ。それなんてどうだろ」


最近人気だと噂を聞いた店の菓子を思い出す。

前は菓子なんて興味なかったのに、君と関わってから僕は色々変わった。

前はこんなことすらただのお世辞でしか言わなかったはずなのに、君の前にいる今の僕は、


「今日のドレスは、シオン嬢にとても似合っているよ。君のその綺麗な髪色に合ってるよ。……とても、綺麗だ」

「……っ!」


少しだけ肩が動いた気がした。だが、気のせいだと思おう。


「そうだ。あの本、君にあげるよ」

「え……」


どんなに手を伸ばしても届かない異国の地の物語。外の世界を知り、同時に届かないことも理解した。


「何も言わず。貰ってくれないかな」


あの本だけが君のそばにずっとある。たとえ離れていてもあの本を見て僕を思い出して欲しい。

頷いてくれた君に何故か、泣きたい気持ちになる。


「ありがとう。………いつか、君と遠くに行けたならいいのに」


僕の呟きに君は無言で抱きしめ返すことで答えてくれた。だから僕も腕の力をほんの少しだけ強めた。


優しい夜風が僕らに吹き付けても、ただただ互いに存在を確かめるように抱きしめ合った。



優秀な長兄が順当に家督を継ぐ、何かあればスペアである次兄がその地位に収まる。

三男である自分はまったくないわけではないが上二人揃ってそうそうに何かあるわけもなく、家督を継ぐことなく自分の身の振り方を見つけるか、家のための婚姻といった縁つなぎやらで家のために利用されるだろう人生を歩む。決まりきったこと。

だから縁談の話が舞い込むこともないわけでもなかった。どこかに婿入りしその家との縁つなぎを、その家の繁栄のために利用されるだけ。


けれど、けれどこの縁談は幸か不幸か。


父上は言った、これほどの好条件なかなかないと。

爵位としては格下の家だがその歴史も領地も経済力も申し分ないと。


縁談相手の令嬢は社交界、学院とどちらでも人気がある。

それなのに婚約者が長らくいなかったのは令嬢の両親どちらもが令嬢を溺愛しており、できるだけいい相手を探しているらしいと噂はきいたことがある。


そんなことはどうでもいいことでただ一つ何より僕は思う、この縁談には愛などない、あってはたまったものではないと。

勿論家のための縁談に自身の感情、相手側の感情は関係ないものではあるのだが。


時折がたりと揺れる馬車。少し開けたカーテンから覗く外は快晴。馬鹿らしいほどに良い天気だ。


「逢えるだろうか…」


馬車の行く先はマモット邸。

この度婚約者となった令嬢、“ルフィーア・マモット”に会うために父上に強制的に向かわされている。

会うのはシオンではない、けれどもしかしたらマモット邸のどこかにいる彼女に逢えるかもしれない。ちらりとも彼女を垣間見れたらと。そんな願望ばかりが心を占めていく。


本来なら長子であるシオン嬢の相手が婿入し家督を継ぐのが順当であるが、そうではなくルフィーアの相手が家督を継ぐ事になっているわけだが。

それが僕になるとは誰が想像していたか。

父上とあちらの伯爵の考えではこの縁談が上手く運ぶなら学院の卒院後できるだけ早く式を行い、あちらの後継者として勉強が始まると。


ーーもし僕ができるだけ早く後継者を引き継げれば、シオンの助けとなれるだろうか?


彼女もきっと縁談が組まれることだろう。いやもう決まっているかもしれない。相手はまともな相手ではないだろうが。

後継者となればそれなりの権力、発言力、利用できるものが増えるだろう。

だが所詮婿入りした余所者、先代が生きているうちにできることは少ない。

この立場を利用しできることは何か、どこまで彼女の助けになれるだろうか。


そうやって思考を巡らし、逃げるように考えるしかないのだ。

わかっていたことだ自身の想いなどあってないに等しいことなど。

婚約者となったあのいつからか妖精姫と謳われる少女を受け入れたわけではない。想うこともない。ただきっと君はどんな言葉を重ねてもあの少女の婚約者となりいずれ婚姻する僕を厭うだろう。

自分とは正反対の妹を何よりも羨ましがり、何よりも嫌悪する彼女にとって僕は裏切り者だ。

彼女は、シオンは、また涙するのだろうか。それともただただ厭い、あのお茶会の日々をなかったことにするのだろうか。


シオンが笑えないのなら結局どんな結果だろうと心が軋むだけだ。


スピードを落とした馬車がカタリと停まり、到着を告げる従者の言葉に今演じなければならない自分自身を貼り付ける。

馬車を降りた先、マモット伯夫妻とあの少女が出迎え待ち構えていた。


「まさか夫妻揃ってお出迎えしてくださるなんて、驚きました。感謝いたします」

「いやいや、はるばる来てくれたんだ家族揃って出迎えるさ」

「娘も会いたがっていたんですのよ」

「アシューム様、今日は沢山お話しましょうね!」


仲睦まじい家族、か。

家族揃って、そこにやはりシオンは含まれないのだな。

この夫婦の、少女の、笑顔を見るだけで虫酸が走るほど僕はーー。

さあ早く行きましょうと、腕を引かれ振り払いたくなる気持ちを押し込めにこやかに従う。

他の令嬢ならば端ないとしないような行動も、この少女が行えば誰も批難などせずそこが魅力なのだと、しょうがないですわねと老若男女誰からも許される。彼女だけか何故か不思議なそれは何なのか。


本当に似ていないな。

それは見た目の彩色含め、中身ごと全てなぜこうも違うのだろうか。姉妹のはずなのにこうも愛されない側と愛される側では違ってしまうのか。

僕がシオンに少女に劣らないくらいいやそれ以上の幸せを注げれば、こんな風に無邪気に笑い、日の下で生きることを許されるのだろうか。


通されたニ階の一室は一番庭が綺麗に見えるようで、特に親しいものだけを特別に招き入れる場所らしい。

バルコニーに出れば確かにあの夜見た庭は美しく整えられ色とりどりの花々が咲いている。

バルコニーに用意された席につくと眼の前に並んでいくティーセット、甘ったるい香りのする菓子、そして向かいから注がれる笑顔。


あぁどれも違うな。


人が違うだけでこんなにもティータイムが不愉快なものに変わるのか。

いっそ笑えてくる。


「アシューム様。わたし聞きたかったことがあるんです」


期待するような眼差しを向け語りかける少女。

目の端にちらりと綺麗な濃紺色が見えた気がした。


「前にわたしアシューム様に助けられたことがあって!その時からあなたのこと好きなんです!だからお父様にわたしお願いしたんですよ、婚約者ならアシューム様がいいなって!覚えてないですか?」


覚えはない。とても不愉快だと思った。一番望んでいなかったことが今おきている。だが正解の返しをしこの少女のご機嫌を取るのが今しなくてはならないことだ。

口を開き思ってもいないことを返さなければとしたその時、午後三時を告げる鐘の音が鳴り響き、そして、


綺麗な濃紺色が上から下へ、世界の当然の摂理として落ちていく。


「………シ、オン……?」


見間違えるはずがない。

立ち上がり手摺から身を乗り出し下を覗く。

当たってほしくない気持ちと自分がシオンを見間違うはずがないと言う気持ちがせめぎ合い、答えは否応なく突きつけられる。


綺麗な濃紺とそれを染め上げる赤。


それが意味することはこの世から愛おしい唯一が自分を置いていってしまったこと。


午後三時、君は飛び降りた。



鐘の音と濃紺と赤。

あの時の事は鮮明に覚えている。


僕が突然バルコニーから身を乗り出したことに驚いた従者が近づいてきたことで、何がおきたのか気づき邸宅は騒がしさに包まれた。


温もりが失われていく愛おしい人を今すぐに抱きしめ泣き叫びたかった。

けれどそれは自分とシオンの関係を知られることになる。別に構わなかった。

なぜとなぜだと自分の意志で身を投げたのかと、もしかしたら誰かが望んだのかと。

ぐるぐると回る思考の中でこれまで苦しんだ彼女の変わりに復讐をと声がした。それは自分自身の声。


考え、その場で自分自身を殺しそして、演じた“正解”を。


無垢な少女に下に広がる光景を決して見せないよう何があったのか聞かせぬように侍女たちはすぐに動いた。だから自分の姉が死んだことにその時気づきもしなかった。

騒ぎによって知った両親であるマモット夫妻の方は汚らわしい物を見る目ですぐに処分をと命じ、貴族の娘であるはずのシオンの亡骸は丁寧に埋葬されることなくただただ燃やされた。傍らに落ちていたという本もゴミとして一緒に燃やされたことを後に知った。その本があの本だという確証はなかったが、あの本であったならと想う。

後日厄介者が片付いたが何故あんな当てつけのように僕という客人がいる中で見える形でと憤るマモット伯夫妻の話しをあまりにも偶然だったが盗み聞いたが、そこに憤りや悲しみよりも復讐のために焚べる薪へと変わりゆく。


全てを復讐への糧とし生きた、思わぬことがおきたが学院を無事卒業したこの年予定通り婚姻式が執り行われることになった。

王族を除けば国一番の式をと望むマモット夫妻の意向で盛大な式を執り行うことに笑顔で僕は頷いた。


幸せで溢れればあふれるほどそれが絶望に変わればどれほどのものか、と。


そして時間が過ぎていくのがあの日から長く長く感じ、やっとその式が明日に控えた夜。

僕は卒院後すぐに婿入り前ではあるがマモット家に後継者としての勉強のために予め滞在していた。


僕は屋敷内を静にだかしっかりと歩く。

三階建ての屋敷の一階から、二階へ、そして三階へと、順に。


そして三階の一室へ。

そこには幸せの中眠る無垢な少女がいた。

そっとその肩を揺すり起こすと夢見心地の少女は目をこすりながら舌足らずな声で聞く。


「あれ〜、あしゅーむさま、どうかしたの?」

「君に聞きたいことがあってね」


普通の令嬢ならば婚約者といえど婚姻前にこんな夜更けに部屋へ現れた男へ、こんな無防備に対応しないだろう。周りの愛情というもので作られたどこまでも無垢な少女だ。

まあどうでもいいが。


そして僕は聞く、君にとって姉とはどんな存在だったのか、と?


少女はその問いに今だ夢見心地のままうっつらうっつらと考え、そして間を開けてそういえばそんなのがいたようなと返した。


どうやら姉の死すら今だ知らないこの無垢な少女は姉という存在自体今の今まで忘却の彼方に追いやっていたのか、本当に笑える。

復讐へと舵を切った僕はだいぶおかしくなった自覚はあるさ。


あぁでもなんと返してくれていれば僕はこの少女を許せていたのか。



「そうか。最後に一つだけ君は僕のことを愛していると、好きだと、婚約してから何度も言ったね。僕はね、君のことこれっぽっちも愛していないよ」


にこやかにどこまでも真実である言葉を、想いを告げる。


「…………………へっ?」

「むしろ君のことはね。憎らしい」


夢から覚めたような顔をする無垢な少女に笑い声が漏れそうになる。だがまだやらねばならいことがある。


「君は何も知らないから、だから僕もシオンも君のことがどこまでもきらいだったんだ」


さあお喋りはこれでおしまい。

下の階が騒がしくなってきている、そろそろ時間だ。


「これでさよならだ。“かわいくて、甘えたがりで、無知なルフィーア”」


シオンの口からそれを何度か聞いたが、それはきっと拒絶と憧れやら多くの感情がない混ぜとなった口癖だったのだろう。

手にしていたランプの燃料を無知な少女を包むシーツへとこぼし、そこへ火を落とす。


「え…………きゃあああ!!!!」


驚き慌てふためきベッドから落ちた様は滑稽で、今度こそ少し笑い声が漏れてしまった。


「あははは。助かるといいね」


すでに屋敷には何箇所か火を放っている。明日の式に向けて屋敷には物が溢れておりより燃えそうな物に火を投げ入れ回りながら、外へと出るために通るであろう出入り口やら階段やらにも同じようにし上へ上へと登ってきた。

この部屋も入ってすぐに燃えそうな場所に火を放っておいたが、夢見心地の少女は気づいていなかったのもまた笑えるな。

部屋の出入り口へと歩き出した僕へ慌てたように無知な少女は叫んだ。


「アシューム様!待って置いて行かないで!助けて!!」


腰が抜けたのか立つことなくこちらに手を伸ばす姿。火を放った相手に助けを求め姿。滑稽だ。

最後に扉の前にも同じくこぼしておいた燃料へポケットに入れていたマッチの火を落とす。まだ火は小さいが誰かの助けがないと逃げれそうにない“か弱い”少女にはちょうどいいだろう。


部屋を出てある場所へ向かう。

この屋敷でもう誰も立ち入らなくなった一室。

そこがシオンの部屋だった場所だろう。


「勝手に入ってすまない、シオン」


ほとんどの物は処分され、残った家具も埃を被っている。

先ほど廊下に設置されたランプを一つ拝借したそれを床に叩きつけ、マッチの火を。


僕がここにいることはきっと誰も気づかないだろう。シオンの部屋だった場所に人がいるとは思わいだろうから。


「シオン、君と僕は貴族の暮らししか知らない。だから君の手を引いて外へと逃げ出しても、きっと僕らには普通に暮らすことすらできないと僕は思っていた。けれどそれでも一瞬でも幸せになれていたのなら、君の手を引いて、そして僕は君に告げるべきだったのかな、愛していると」


一言愛しているとこの世界へ零しただけで、もう止まることなく溢れ出す。


「愛しているよ、シオン。きっと君の薄紫の瞳を見た瞬間から。一緒に茶を飲み、時に語らい、時に静寂の中で過ごしたあのお茶会が僕の人生で一番の幸せだったよ。思い出す全ての君が愛おしい。短くあまりにも一瞬だった僕らの時間が永遠に続けばどれだけ良かったか。たくさんのもしを僕は思い描き全てが空想であることが苦しい。もし堂々と君と歩けていたら、もし夜会で君と踊れていたら、もし君の手を引いて外へと飛び出し笑い合えていたら、もし君の気持ちが僕と同じであったら、どれだけ幸せか。どれほどの幸福で溢れ世界が彩られたか」


叶いはしないもしは痛みでありその痛みは何もできなかった自分への罰だ。

そこら中から声が音が火があふれる。思ったよりも燃えてくれているらしい。できることなら一人でも多く燃えてくれたら、苦しんでくれたらいい。例え上手くいかなったとしても婚姻式の前にこんなことが起こればどうなるか。


「君がどんな思いで飛び降りたのか、そうするしかなかったのか、痛く苦しかったのか何も理解してあげられない。丁寧に扱われるべき貴族の令嬢である君が粗雑に火に焼かれたことが僕は許せない。何もできなかった自分も自分自身が許さない。だから僕はこの火に焼き尽くされよう。もしあの世で君に逢えたなら……」


今も鮮明な君との幸せのはじまりである鐘の音が僕には聴こえる。

優しい鐘の音、香しい花々、芳醇な香りの紅茶、甘い菓子、いつもまっすぐに流れた濃紺の髪、僕といる時には晴れていた薄紫の瞳、君の控えめな笑い声、何よりも愛おしかった君の笑顔。

もう戻れないしない。

僕は傲慢な神に対抗するすべを持たないのだから。


「さよなら、愛おしいシオンのいなくなった世界。今いくよ、シオン」


全身を包む炎の中で最期に呟く、愛している、と。



















母国の父から急ぎの手紙が届いたのは夕刻。

すぐに目を通し思案する。これからの事を。

奥様という声に夫の帰宅を知り、片手にその手紙を持ち立ち上がる。


学院を卒院した二日後には母国を旅立ちこの国の一貴族である夫のもとへ嫁いできた。

友人であったルフィーア・マモットの式へは嫁いで間もなく距離もある事から辞退の有無と母国ではできるだけ珍しいであろうをこちらの国の物をお祝いだと言い選りすぐりいくつも贈っておいた。


「おかえりなさいませ、旦那様。少しお話があります」

「あぁ戻った。話というのはその手紙か」

「はい」


目ざとく手紙を一瞥した夫へと手渡し、歩き出しながら目を通す夫の少し後ろを同じく歩く。


書斎へと着くと腹心であり誰よりも夫を理解する家令だけを残しあとの使用人は下がらせる。


「由緒ある伯爵家が婚約式の前に火災により伯爵とその娘、滞在中だった娘の婿が死亡。伯爵夫人はまだ息はあるが酷い火傷を負い長くはないと。使用人の方も死傷者多数」

「えぇ。私は明日友人の死を知り急ぎ帰るということにしますわ」

「あぁ。私の方も準備しよう」


家令へとあれこれ指示を飛ばす夫は貴族であるが、商人としての才も優れているお方だ。

この国は母国とは違い女性の労働を推進しており、老若男女、国も生まれも何もかも関係なく才があれば上へと登ることができる実力主義の国。


お父様と夫は国は違えどその性格考え方が似ており、商売のパートナーとして二つの国を繋いでいた。

そしてより強固なものとする為に私との婚姻が結ばれた。

不満はなかった。歳が離れている、国が違う、文化考えが違うなど粗末なこと。

お父様は女であるからと必要以上の学びをさせない周りとは違い、後継ぎである兄と同じように私にも学びの機会を与えた。

そんな私は令嬢の中では異質であることをよく理解していた。だが同じくどうすれば軋轢を生むことなく周りに溶け込めるかもよく考え理解していた。

外では他の令嬢と同じように振る舞えばいい、そして何が利になるか見極め家に尽くせるかを腹の中では考えながら笑っていればいいだけ。母国の男性は女に学はないとこちらが小賢しく考えているなんて思っていない。

そしてお父様に紹介された夫はビジネスパートナーとして、家を、血を繋ぐ相手として申し分もなく、令嬢としては小賢しい私を理解し同じくパートナーとして認めくれている。


マモット家の当主、後継者不在は母国にとって一つの穴だろう。それをいかに利用しビジネスの幅を広げられるだろうか。


ルフィーア・マモットは利のためにそばに近寄った私を友人(取り巻き)の中でも特別親しく思っており、私はそれに合わせ振る舞っていた。

端なく幼稚で無知で綺麗なものだけを見せられ、聞かされ作られたお姫様。

私は貴方のことあまり好きではなかったわ。

婚約者となり傍らにいたアシューム・フィルラリカのことを語り、恋を語る貴方は本当はなにも見えていなかったのよ、あの方のことなんて。


「リウール、明日の早朝には経つ」


家令も商売の方の部下たちも優秀であり、夫が不在の間の対処も問題はないだろう。

その早さは見切りをつけたのではなく、自分がいなくても回ることが当たり前だとしているからなせることだろう。


「承知しました。私の方も友人の死に泣き崩れる準備なら何時でもできていますわ」


私の皮肉に夫は口の端を少し上げた。


貴方の死に本当に涙し、嘆くことができない“親友”を許してとは言わないわ。


さよなら偽物の親友さん。貴方のこと利用させてね。

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