最終話 君のことを教えて
土佐辺くんと登下校する習慣は文化祭が終わってからも続いている。
朝は駅のホームで待ち合わせをして同じ電車に乗り、帰りは僕の家まで送ってくれる。時々彼の家に寄ることもあるけど、部屋で二人きりになることはなんとなく避けていた。
「キミが噂の安麻田くんかぁ~! 可愛いねぇ!」
たまたま彼のお姉さんが実家に荷物を取りに来た際に初めて顔を合わせた。すらりとしたスタイル、切れ長の目とキリッとした凛々しい顔に見惚れていたら、土佐辺くんが間に割り込んできた。
「ちょっと! 挨拶くらいさせなさいよ!」
「もういいだろ、早く帰れ!」
「余裕のない男ってやあね。ねえ安麻田くん」
いつもはクールな土佐辺くんも姉の前ではただの弟になるらしい。どちらの味方をすべきか分からず、僕は愛想笑いでやり過ごすことしか出来なかった。
土佐辺くんに飲み物を取りに行くよう命じて遠去けてから、お姉さんは僕の耳元に顔を寄せた。
「実はね、『リー』は慎吾が名前を付けたのよ。好きな子の名前から取ったんだって」
「えっ」
「で、キミの下の名前ってなんだっけ?」
そんなことを言われたら教えられない。真っ赤になって俯いた僕を見て、お姉さんは悪戯っぽく笑った。
ゴールデンレトリバーのリーは今年十歳になるという。『瑠衣』と『リー』。響きが似てると思ってはいたけど、まさか。
「コラ姉貴、安麻田になに言った!」
「べっつにぃ~? んじゃ、邪魔者は帰るわね」
「もう来んな!」
僕がいじめられたとでも思ったか、土佐辺くんはすごい剣幕でお姉さんをリビングから押し出している。
「瑠衣くん、まったね~!」
最初から知った上であの話をしたのか。あわあわとうろたえる僕に、お姉さんは切れ長の目を細めて笑い、手を振って帰っていった。
「悪い。まさか姉貴が来るとは……」
「ううん、良いお姉さんだね。君によく似てる」
「全ッ然嬉しくねえ!」
あんなに感情を露わにする土佐辺くんは滅多に見られない。もっと色んな表情を見てみたいと思うのは、やはり彼を好きになりつつあるからだろうか。
「よしよし、リー。良い子だ」
散歩のついでに立ち寄った公園で、投げたボールを咥えて戻ったリーの頭や首周りをわしわしと撫でて笑う。
土佐辺くんがリーの名を呼ぶ度に口元がゆるんでしまい、嬉しいような恥ずかしいような複雑な気持ちになった。彼は愛犬の名前を口にするたび、撫でるたびに僕を思い出していたのだろうか。
「……いいなぁ」
無意識のうちにこぼした呟きは彼の耳にしっかり届いてしまったようで、ものすごく驚いた顔で振り返られた。
「あ、いや、ごめん、忘れて」
恥ずかしくて即撤回したけれど、土佐辺くんはスルーしてはくれないようだ。
今まで、亜衣の前では両親や祖父母に甘えないようにしてきた。男だから。お兄ちゃんだから、と。
でも、僕だって甘えたい時もある。
「安麻田も撫でられたい?」
「いや、そういうわけでは」
「いいよ。いつでも撫でる」
ボールを遠くに投げ、リーが走って取りに行っている間に土佐辺くんが目の前に立つ。そっと伸ばされた手が僕の髪をするりと撫で、頬に触れた。夕焼けに照らされた彼の顔をぼんやりと見上げていたら、不意に視界が塞がれる。
一瞬だけ唇になにかが触れた感触があった。キスされたのだと理解する前にボールを咥えたリーが駆け戻ってきた。慌てて身体を離し、二人掛かりでリーを撫でて褒めまくる。
「ごめん、撫でるだけで終わらなかった」
「いいよ。嫌じゃなかったし」
土佐辺くんに触れられても怖くない。
もっと触れてほしいと思ったくらい。
「でも、外だと恥ずかしいね」
ここは夕方の公園の片隅。少ないけれど周りには人がいる。幸いさっきのキスは誰にも見咎められることはなかった。
「密室で二人きりになったら我慢できなくなるから」
土佐辺くんが再びボールを投げた。思いのほか遠くに飛んだそれを探しにいくリーの姿を目で追う。
「別に我慢しなくていいって言ったらどうする?」
「頼むから、もう少し考えてから喋って!」
僕の言葉に、土佐辺くんは両手で顔を覆い隠した。以前もこんな状態になっていたなと思い出す。あれは照れていたんだな。
「たくさん考えたよ、君のこと」
「オレのことを?」
「そう。色々教えてもらったけど、まだ知らないことのほうが多いから教えてくれる?」
もっと土佐辺くんのことが知りたい。
そう思うのは、やはり好きになったからだ。
「じゃあ、安麻田も教えて」
土佐辺くんにもまだ知らないことがあるのか。もう全部知られている気がするんだけど、なんて考えていたら両頬を挟んで上に向けられた。超至近距離で視線が交わる。
「他の誰も知らない安麻田を知りたい。これからはオレだけに見せるって約束して」
今まで見たことがない真剣な眼差しに思わず怯む。十年ぶんの想いの重さに押しつぶされてしまいそうになる。涼しい顔の裏で、彼はこんなに激しい感情を隠し続けていたのだ。
「教えるの好きだろ?」
勉強会の時のことを言っているのだとすぐに分かった。得意ではないけれど、教える喜びは覚えている。やっとの思いで了承すると、土佐辺くんは嬉しそうに口元をほころばせた。
ボールを咥えて戻ってきたリーを二人で撫でまくる。誇らしげな様子のリーは褒められること、愛されることに慣れていた。僕もこんな風に彼の愛情を受け入れるだけの自信が持てるだろうか。
「安麻田、そろそろ帰ろう。送ってく」
「うん、ありがとう土佐辺くん」
差し出された手を取れば、力強く握り返された。そして、当たり前のように隣に並んで歩く。
時折リーに引っ張られながら。
『なんでも知ってる土佐辺くん。』完




