異世界転移
闇は、すべてを呑み込んだ。
授業に飽き、暇つぶしにも飽き、漠然と空を眺めていると、空の端から墨汁を流したように黒く染まっていくのが見えた。
誰に声をかける間もなく、闇は太陽に覆いかぶさり、光を失った俺たちは――いつの間にか、真っ黒な空間に立っていた。
「……どうなってんだ、これ」
最初に声を上げたのは、神々廻々――カイだった。
苛立ったように地団駄を踏む音が、闇の中から響く。姿は見えなくても、短気な様子はよく伝わった。
「なにかの……夢、とか、じゃないかな」
烏賀陽白――白が、小さく呟いた。
震える声。怯えを隠せていない。臆病な白には、この状況はきっと耐え難いだろう。
「さすがに、人と共有できる夢は存在しないと思うぞ」
俺――片無空は、底なしの闇を見つめた。
足元に手をつき、地面に触れてみる。ざらついた感触。教室の床とは明らかに異質だった。
ここはどこだ?
意識ははっきりしている。
だとすれば、俺たちは――どこか別の場所へ移動させられた、ということか。
思考を巡らせていると、空間に閃光が走った。
眩しさに目を細め、次に瞳を開けた時、そこにはまるで絵本から飛び出したような世界が広がっていた。
巨大な城、荷を引く謎の生き物、怪しく光る石を売る出店。
そこは、紛れもない異世界ファンタジーだった。
「……なるほど。夢にしては、できすぎてるな」
自然と口角が上がるのがわかった。
「お前、顔がにやけてんぞ」
カイが言う。
「ふたりとも、なんで笑ってるの? そんな場合じゃないよ!」
白が不安げに俺たちを見上げる。
確かに、笑っている場合じゃない。だが、どうしようもなかった。
胸の奥から、ふつふつと湧き上がる感情を抑えきれなかった。
「そりゃ、嬉しいからだよ、白」
カイが破顔する。
「俺たちをバカにしてた奴らも、疎んでた大人も、もういない。俺たちだけの世界だろ?」
「それは……そうだけど。でも、僕たち三人で、生きていけるの……?」
白の声は、か細かった。
俺は、まっすぐ白を見返した。
そして、白の不安を押しのけるように、言った。
「三人なら、どうにかなるさ」
白の瞳に映る自分自身にも、そう誓うように。
その後、俺たちは案外あっさりと城下町に入ることができた。
どうやらこの国には、楽市楽座に似た制度があるらしい。簡単な身分登録さえ済ませれば、誰でも街に入れるようになっている。
城門をくぐると、城へと続く大通りがまっすぐに伸び、その両側には色とりどりの出店がひしめいていた。
「すっげぇ〜〜!」
巨大なイノシシのような獣を、魔法で直火炙りしている料理を見て、カイが声を上げた。
串に刺された肉の塊はじゅうじゅうと音を立て、香ばしい煙が通りを包んでいる。
「あんなに大きな生き物が……本当に、いるんだよね……?」
白は目を丸くし、焼かれる前の姿を想像してか、怯えたように小さくつぶやいた。
「料理に魔法を使うとは……この世界では、魔法はかなり一般的なようだな」
そう言いながら、俺は魔法の炎に照らされた串肉を見つめた。
――いずれ、俺たちにも魔法が使えるようになるのだろうか。
それとも、使えなければ、生き残れないのか?
思考を巡らせていたそのとき――
「おにーさんたち、ちょっといいかにゃ?」
鈴を転がすような声と共に、猫耳の少女がにこりと笑いかけてきた。
「おにーさんたち、違う世界から来た人かにゃ?」
猫耳の少女が、ぴょこんと耳を動かしながら話しかけてきた。
「お、やっぱ……」
カイが思わず声を上げかけたところで、俺はそっと腕で制した。
異世界での俺たちの立場がどうなるか分からない以上、迂闊に正体を明かすべきではない。
「そんなに警戒しないでほしいにゃ。別に異世界人なんて、そんなに珍しくないよ?」
少女はしっぽをふりふりさせながら、上目遣いでにっこり笑う。
「空、こんな可愛い子が悪者なわけないだろ?」
カイは、可愛い女の子にはめっぽう弱い。
一方で白はというと、猫耳の動きに夢中になっていて、会話など耳に入っていない様子だった。
「……じゃあ、そんなに珍しくない異世界人に、なんでわざわざ声をかけてきた?」
カイに呆れながら、俺は少女に問いかける。
「異世界から来たばかりで右も左も分からない人たちに、宿を紹介してあげてるんだにゃ。代わりに、ちょっとだけ仲介料をもらってるけどね」
なるほど。無知な異世界人をターゲットにして、マージンを稼ぐビジネスか。
「悪いが、間に合って――」
「何言ってんだ空! 可愛い猫耳少女が親切にも宿を紹介してくれるってんだぞッ! 断るなんてどうかしてるぜ!」
俺の言葉を遮り、カイがやたらと必死に訴えてくる。
猫耳の少女も、さすがにちょっと引いた顔をしていた。
「でも、本当に親切心で言ってくれてるのかもしれないよ?」
白が、猫耳の少女に聞こえないよう俺の耳元で囁いた。
白の人を疑わない純粋な心は尊重したい。だが、残念ながら今回に限っては可能性が低い。
わざわざ無知な旅人を狙わずとも、まともな宿なら堂々と紹介できるはずだからだ。
それに、リスクヘッジの観点から考えても――
見知らぬ誰かに頼るより、自分の目で宿を選んだほうがいい。
「結論は変わらない。残念だが、他を当たってくれ」
俺は少女にそう言い放った。
「えー、そりゃないぜ空。冷たすぎんじゃねぇの?」
「僕はどっちの言い分も一理あると思うよ……」
白はいつも通り優柔不断だが、カイは頑固だ。一度こうなったらなかなか折れない。
「お、なんか騒がしいと思ったら、やっぱりペコラに捕まってんのか」
突然、後ろから毛むくじゃらの腕が俺の肩にのしかかる。
振り向くと、腰に剣をぶら下げた筋骨隆々の男がいた。
「異世界に来て早々ペコラに声かけられるとは……運がないね、君たち」
その後ろから、細身の青年が苦笑いを浮かべて現れる。
「っち……酒くせぇんだよ。アンタら、あたしの仕事の邪魔すんなっつーの」
さっきまでの“にゃんにゃん”口調が嘘のように、猫耳娘はキツい口調に豹変した。
「ねこみみちゃん……?」
カイが口をぽかんと開けたまま固まっている。
「ガハハッ! お前、ペコラの猫かぶりに騙されたクチか! この街じゃ有名だぜ。異世界人から法外なマージン取るってな!」
「ちょ、ガノン、それ言うなよっ!」
「猫耳ちゃん……」
カイは明らかにショックを受けていた。
「一応、忠告には感謝しておく」
俺は“ガノン”という名の男に軽く頭を下げる。
「ホントなら呑み代せびるとこだけどよ。どうせまだ換金もしてねぇだろ? ツケにしといてやるよ」
「覚えておく」
借りは嫌いだ。なるべく早く返すつもりだ。
「まあ、こいつ金にはがめついが、悪いやつじゃねえよ。困ったことがあったら、案外頼りになるかもな」
そう言い残して、2人は飲み屋へと消えていった。
「くっそ……あいつら。王勅令とはいえ、こんな薄給で異世界人の世話なんかやってられるかっての……」
ペコラがぼそっと呟く。
「なんかごめんね? こんなものしかないけど……」
白が申し訳なさそうに、ポケットからチョコを取り出し、手渡した。
「なんだこれ。こんなもん、腹の足しにもならね――マァァァァァァッ!?」
ペコラの目が見開かれる。
「な、なんだこれ……濃厚なコクと香り、まろやかで大胆な甘み……!」
目を潤ませながら震えるペコラに、白は残りのチョコをすべて差し出した。
⸻
「なんだよ、お前ら、いい奴らじゃんか〜。この街で困ったことがあったら、ペコラに聞けよな!」
チョコで完全に餌付けされたペコラ。
――猫ってチョコ食べて大丈夫だったっけか。
「そうだ、宿だけどよ。この先を左に曲がった先にある《銀》って宿屋がいいと思うぞ」
「……それ、本当に大丈夫なやつか?」
少しずつメンタルが回復してきたカイが、恐る恐る聞いた。
「ああ、ペコラはな、対価をもらった分はきっちり働くんだぜ!」
手と口の周りをチョコまみれにしながら、ドヤ顔で言うペコラ。
どうやらチョコは、彼女にとって十分な報酬だったらしい。
「じゃあ、その宿に向かうことにする。また何かあったら、頼むわ」
「おう、またチョコ持って来いよー!」
ベタベタの手をぶんぶん振るペコラ。
……次に会うまでには、こっちでもチョコを作る方法を見つけないといけないな。
出会いこそ最悪だったが――まぁ、結果オーライか。
最初の異世界人としては、命を狙われなかっただけマシかもしれない。




