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海列車エアウェイライン 大崎➤無限区間

作者: 森本英路

視界が狭くなっているせいか、ホームへの階段がけわしい。


冷たい金属の手摺に手を掛け、つるつるの靴底で滑り止めを頼りに歩を進める。眼下に硬い階段の角とコンクリートの床。足を踏み外せば一巻の終わりだ。


なんとかホームに立てたのはいいとして、体が重い。すごい汗だ。ベンチに腰掛けられれば何と幸せなことか。緊張感の糸はぷっつりと切れ、目覚めれば次の朝となる。


重力に対抗すべく手を突いて這いつくばる、って考えもある。いいや、そっちの方が問題だ。日中焼けたコンクリートは朝日を迎える頃、スケートリンクに変わる。


酒なんて飲まなければ良かったと思う。いや、なんで俺は飲んでいるのか。こんなになるまで俺は誰と飲んだんだ。


全く覚えてない。酔って記憶を飛ばすとはこのことを言うのだろう。初めての体験だ。酒飲みはこれを何度もやるというから驚きだ。


電車がやって来た。乗り込まなければならない。電車のドアが開き、人が押し寄せる。体の自由が利かないのろまな俺を誰もが上手く避けて行く。


一ミリたりとも触れることはない。俺は居ないかのようである。


ドアからの流れが止まると今度はホームからの人がドアへと吸い込まれていく。気力を振り絞る。ドアが閉まる前に、俺はなんとか電車に滑り込む。


視界は依然として狭まるばかりだった。ちょうど席が空いていた。ボックスシートだ。とにかく座りたい。重力と電車の震動に俺の二本の足は耐えきれない。震えた足で席に倒れ込む。


ホッと、は出来なかった。席についても圧迫感はぬぐえない。シートに押し付けられているようだ。かろうじて見える街の明かりは狭い視界をにじませていた。


突然、視界が閉ざされた。はっとしたが、一呼吸置く。意識はまだある。車内に明かりも灯った。大丈夫。これはトンネルだ。


埼京線といえば赤羽トンネル。そこを通っているのだろう。


それにしても窓ガラスに映る俺の顔。まるで別人だ。ここにいる男は俺なのであろうが、朝に鏡の前に立った俺と比べてこいつは品祖で、やつれていて、貧乏くさい。俺はどれほど飲んだんだ。人相まで変えてしまっている。


はて? 電車がいつまでたってもトンネルを抜けない。俺は酔っているんだ。落ちてしまったのだろうか。いや、しかし、意識はまだある。


電車が大きく揺れた。何かにぶつかったような揺れだ。ボックスシートの中で俺の体が躍った。


すぐに電車は落ち着いた。俺の体はシートとシートの間の床に丸まっていた。電車は何もなかったように走っている。体中が痛い。どうやらトンネルを抜けたようだ。車内のライトが落ちて窓から光がさす。


夜だったはず。朝か? 俺はトンネルに入って寝落ちしてしまっていたんだ。シートにしがみ付き、窓枠に手を伸ばす。まるでロッククライミングだ。必死に体を引き起こし、窓の外を覗いた。


一面、真っ青だった。一直線に走る道床のバラストに、レール。それ以外は青一色だった。


まるで列車が空を飛んでいるかのようである。下を見ると車体その物が映し出されていた。


水面! 電車は水面に敷かれたレールの上を走っている。真っ青なのは水面に映った空。水面はまったく波立っていないので鏡のようである。


湖?は水平線の彼方まで続いている。陸地はまったく見えていない。ここはどこだ? 


窓を開け、身を乗り出し、レールの先を見る。レールは水平線の彼方で陽炎の中に消えていた。


夢なのか。ふと、水面に映った車体。木製? 金属製ではない。


窓枠も木製だ。床も、シートの枠も。


埼京線ではない。僕は別の電車に乗っている。


いや、電車でさえないかもしれない。確かパンタグラフはなかったような。


僕は何線に乗ったのだろう。階段を八番ホームに下っていたはず。もしかして酔って駅自体を間違えてしまったのか。


あれ? 駅の名前はなんだった?


今さっきまで口に出していたはず。これはど忘れってもんじゃない。


だめだ。思い出せない。どこの駅から乗ってどこの駅に向かうんだっけ。


いや、待て。僕はパニクっているんだ。落ち着け。こういうのは順序立てて思い出せばいい。


今日の朝、僕は会社に出勤した。


会社? 会社名が思い出せない。僕は何の仕事をしてた?


駄目だ。分からない。思い出せない。どこで昼飯を食べたのか、どこで飲んだのか、どうやって駅に行ったのか。


??? 僕の名前! 


何て名だ? 僕は俺自身の名を忘れてしまっている。


やっぱり、これは夢だ。夢以外ない。それも悪夢だ。


遮断機の警告音だろう、鳴っているのがだんだん近づいて来たかと思うとけたたましい金属音。フラッシュ点灯する警告灯と共に窓の外を横切って行く。


車内には僕以外誰もいない。


あんなに人が乗っていたはず。


あ、そうか。分かったぞ。あのトンネルだ。あのトンネルで僕は寝落ちしてしまったんだ。そうなら辻褄が合う。


また遠くから警告音。けたたましく金属音を鳴らし、近づいて来たかと思うとフラッシュ転倒する赤い警告灯が目に飛び込んで来る。


安心しろ。これは夢なんだ。ここにじっとしてればいい。なにもするな。夢なのだから何時か覚める。


また、遠くで警告音だ。夢とはいえ、ここまですると呆れかえる以外ない。普段の僕はどんなにストレスをかかえてしまっているのか。


そういや、踏切があるってことは道があるってことだ。窓を覗く。周りは湖?で踏み切りだけがあるのみだった。


地平線まで広がる湖?と雲一つない青い空。僕はストレスから解放されたいんだろうな。だが、もう一人の自分はそれを許さない。僕の深層心理はそんなところなのだろう。


あれ、足になんか当たった。いや、誰かが触っている。


えっ! 子供! 


それも這いつくばっている。


ひぇっ!  


反射的に僕はシートの上に立っていた。距離をとったはいいが、高いところから這いつくばる子供を見下ろすのは何とも奇怪なことか。さらに寒気を覚える。


小学校一年ぐらい? 子供がその態勢のまま、頭を上げた。そして、僕を見上げる。


「探して」


しゃ、しゃべった! 


「探して」


これはホラーでよく見かける場面だ。答えるな。答えるな、絶対。


「探して。無くなったの」


子供が手を差し出した。その手には怪獣の超合金。間違いない。これは、メカギオラ!


ん? まてよ! 自分の名前も分からないのに玩具の名前がなぜ分かった。


メカギオラ。不意に口を突いて出て来た。何か俺に関係があるのか、メカギオラという響きに不思議と嫌悪感や恐怖を覚えない。どちらというと懐かしい感じだ。


子供の『探して』の意味も分かった。メカギオラの右手小指がない。この玩具は胸と背中と手にバネ式で飛ぶミサイルが装備されている。もちろんミサイルはプラスチック製だ。


手のミサイルは三か所の中で一番小ぶりだった。前腕のレバーを引けば五本指全部が飛ぶ仕掛けだ。おそらくはそのハンドミサイルをこの子供は車内で発射した。


見つかりっこない。列車は当然、揺れている。しかも、何かにぶつかったような先ほどの大きな揺れがもう無いとも限らない。


子供を抱き上げてボックス席の前に座らせた。僕は“やさしく”を心がけて言った。


「家で遊ぶんだ。分かったな」


子供はうなずいた。


「良い子だ。箱があるんだろ?」


子供はシートを飛び降りると走って行って、どこからかメカギオラの箱を持って来た。僕はメカギオラをスチロールの枠に丁寧に押し込み、箱にしまった。


箱を手渡された子供は上機嫌であった。窓の外を見て、なにやら歌を歌っている。


どうやら列車は止まるようだ。風景と列車の揺れの感じから減速しているのが分かる。


子供は歌を止めた。シートから飛び降り、走って行った。僕は窓の外を見る。列車はホームを滑走していた。


ホームは湖?の中にポカリとあった。周りに道はどこにもなかったし、渡し船のような乗り物はない。こんなところで誰が降りるのか。


列車が走り出した。窓から頭を出してホームを確認した。狭い場所が人でいっぱいである。いつの間に下車したのか。メカギオラの子供もそこにいた。


あんなに人がこの列車に乗っていたのか。この車両には僕しかいなかった。どこからともなく子供が一人舞い込んできただけ。


相変わらず踏切が多い路線だった。不規則にあるはずの遮断機がここでは規則的に訪れる。


真っ青な空に凪いだ水面。幻想的だ。ずっと見ていたかった。警告音と警告灯を発する遮断機さえなければ心地よい一人旅だ。


ふと、通路側に人の気配を感じた。振り向く。


また子供!


息を飲んだ。 


しかも、今度は全身包帯ずくめ!


ぞわぞわっと血の気が引いて行く。


包帯の子供は僕の了承もなく、ボックシートの中へ入って来た。そして、僕の前のシートによじ登る。


何なんだ! 止めてくれ!


包帯の子供は普通に腰掛けた。メカギオラの子供よりまだ小さい。小学校に入る前か。


花火セットを胸に抱いている。包帯の隙間からこぼれる満面の笑顔。不気味だ。身震いが起き、鳥肌が立った。


包帯の子供は上機嫌のようで鼻歌で足をブランブランしている。全身に巻かれている包帯には数多くの赤い点とんでいるんだろう黄色い滲みがあった。おそらくは風疹ふうしん。感染症だ。


なるほど、そういうことか。胸に抱いている花火セット。それを皆でやるんだな。


驚いて悪かった。楽しみにしてる当たり、この子は普通の子供だ。


けど、君は感染症だ。誰とも花火は出来ないし、君は小さい。一人で花火はさせられない。


包帯の子供は鼻歌に合わせて体も揺さぶっていた。あまりのうれしさに落ち着いていられないのだろう。


想わず僕は包帯の子供を抱き締めていた。


風疹ふうしんは接触や飛沫ひまつで感染してしまう。


分からない。勝手に体が動いた。なぜかそうしなければならない気持ちに僕は駆られてしまっていた。


また、列車は停車するようだ。包帯の子供は僕の手を振りほどくと僕の車両から出て行ってしまった。


ホームは無人であった。列車が発するとメカギオラの子の時と同様、多くの人でホームは埋め尽くされた。そして、あの包帯の子供も。


さっきのはなんだったのか。なんで僕は子供を抱き締めた? ホームはもう小さくなっていた。


一体全体、何がどうなっているのか分からない。窓の外の遮断機が蠅のように五月蠅い。考えに集中できない。夢だとしても何か理由があるはずだ。


僕以外の無人車両に、コツコツと足音が聞こえた。


車掌だった。


ひょろっと背が高く、手足が長い。制服はぶかぶかで、異様に高い襟と深くまで被った帽子。まるでかかしのような男だった。


車掌が僕に手を出した。手のひらは大きく、指も長い。白い手袋をしているのでより一層大きく見えた。


視線を上げた。襟と帽子が邪魔して車掌の顔が見えない。また視線を戻す。車掌の手は僕の目の前にずっとあった。


何かを要求している。車掌が要求するとすれば決まっている。切符だ。


切符か。レトロな列車の内装から想像するに、紙のやつなのだろう。そんなの、ここ何十年も使ってない。


無ければ、買えってことになる。僕の世界の現金は通用するのか。無賃乗車で降ろされればどうなる。降ろされるならまだしも、犯罪者として扱われたら。


いや、難しく考えるな。夢の中でのことだ。もしかしてスマホが通じるかもしれない。駅のホームにはスマホを通して入っている。


僕は上着の内ポケットに手を入れた。問題はスマホがあるか、だが。


あった。僕はスマホのアプリを開いた。


車掌の差し出された右手。余っている左手が僕に差し出された。


そこには切符切りがあった。これみよがしにその切符切りを車掌はカチカチと鳴らす。


困ったことになった。ここまでの経緯を話してこの車掌に通じるだろうか。駅にはスマホで入ったって、この列車に乗るつもりがなかったって、この車掌は分かってくれるだろうか。


車掌を見上げた。全く表情が掴めない。切符切りをカチカチ鳴らしている。明らかにイラついている。僕は紙のやつなんて持ってない。


目の前の車掌の手のひらが、僕の左ポケットを指差した。


咄嗟に僕はそのポケットをまさぐった。何かある! 紙の断片を指で感じる。切符?


ポケットから手を出す。まさしくそれは切符だった。


そうだ。確か紙の切符には出発地点と区間が表記されているはず。確認しよう、としたその瞬間、切符は僕の指先からスルリと抜けた。


車掌が切符を持っている。切符切りを切符に入れた。


カチン。


一辺が欠けた切符が僕の手に戻される。慌てて切符の表記を確認した。何か書いてある。


日本語でもない。英語でもない。ペルシャ語でもない。中国語でもない。韓国語でもない。記号? 見たことない文字。


読めない。


そうだ! 車掌。車掌に直接聞けばいい。


振り向くと、いない。どこいった! 


車掌は前の車両のドアに手を掛けていた。


「車掌!」


車掌は僕の言葉を無視して、隣の車両に消えて行った。


僕は追った。前の車両のドアを開ける。ものすごい風圧。そして、熱気。


あまりの暑さに前の車両に行けない。車掌もいない。慌ててドアを閉めた。前の車両はサウナところか灼熱地獄だった。


どういうことだ! 何が起こっている?


一歩後ずさって、はたと気付いた。靴底が溶けている。熱くなっているのは前の車両だけでない!


五、六歩下がり、床を触る。熱は前から移ってきている。通路を走り、後部車両のドアノブに手を掛け、後部車両に移る。ドアを閉め、そのドアに手を当ててしばらく待つ。熱くなってきている。


駄目だ! さらに後ろに!


通路を走り、後部ドアを開けた。空と湖。見渡す限りの青と小さいテラス。列車は三両編成だった。


車両はここで終わり。僕は車内に戻り、ドアを閉めた。ふと、頭によぎったのは地獄。


もしかして、僕はあの世に向かっている?


トンネル! トンネルを抜ける時のあの衝撃! あそこで事故があったんだ。この列車の行き先はあの世。


ドアを開け、テラスに立つ。手摺から身を乗り出して前方車両を見た。二両目半ばまで真っ赤に変色している。


すごい熱風だ。肌がジリジリ痛い。ここがフライパンの上になるのは時間の問題だった。


飛び降りるしかない。


列車の後ろにはバラストに枕木、そしてレール。両側面は、水面!


選択肢にもならない。当然だ。これが夢にしろ、僕が霊体だったにしろ、あえて石や鉄の塊りに身を投じるなんてない。


テラスの手摺の上に立つ。バランスを保つため左手は車体を掴んでいた。飛ぼうかと思ったその時、遮断機! 目の前を横切って行った。


忘れていた。飛んだら遮断機だった、は洒落にならない。二車両目も全て真っ赤に染まっていた。


遮断機は? 


前方に警告灯は目視できない。警告音も大丈夫だ。飛ぶなら今。


大きく息を吸った。足を踏ん張る。出来るだけ遠くに。


ガクンと車体が揺れた。バランスが崩れた。体が振り回されるのを車体に身を預けるようにしてなんとかバランスを保つ。


小さく息を吐いた。右手で汗をぬぐう。


すごい汗だ。緊張だけではない。前から流れて来る熱気。三両目の壁面も熱を帯びているのが分かる。車体に預けている体をもう一度定位置に戻した。


三両目の頭も赤く変色している。もう時間はない。遮断機は? 大丈夫。大きく息を吸った。


踏ん張り、飛ぶ。


宙に舞ったかと思うと僕の体は水面に打ちつけられた。ブクブクと泡の中をもがく。湖底は暗く、全く底が見えない。


何かに見られているようでぞっとした。明りを求め、浮上する。


水面を出ると急いて列車の道床を目指す。水面の遠くに列車が走っているのが見えた。列車は赤く変色するどころか輝きを放っている。


魅入っている場合ではない。湖底から何かに襲われそうで手足をフル回転させる。


道床に張り付いた。が、まるで蟻地獄のようだ。バラストのせいでのり面をしっかり掴めない。足場にしようとも足が食い込まない。踏ん張ればバラストはゴロゴロと崩れ落ちて行く。


湖底を覗くとまるで奈落だ。僕は海溝の壁に張り付いているようだった。多くの石が雪降るように闇の底へと消えて行く。


慌ててはいけない。力任せではバラストは崩れる一方だ。僕は出来るだけ体の面積をのり面に接触させた。全身を使ってジリジリと時間を掛け、レールへと向かう。


やっとレールを掴むことが出来た。力の限り腕を縮めて水面から体を離す。レールとレールの間で天を仰いだ。


突然の爆発音!


咄嗟に身を縮め、耳をつんざく先に目をやる。レールの延長線上に火花と丸い煙の塊り。破片が飛んでいるのか天に触手を伸ばすように煙の筋が無数に伸びていた。


僕が乗っていた列車。


恐ろしい光景だった。あれに乗っていたかと思うと背筋に悪寒が走る。帰らなくては。


僕は来た道を戻った。道は一本道だ。間違えることはない。だが、思うように進めない。体が重いのだ。疲れているからではない。酔いが残っているからでもない。バラストに足がめり込んでいく。


息苦しい。胸を強く押さえられているようで呼吸が出来ない。吐き気もある。胸を象に踏まれているようだ。


バラストに足が取られないよう枕木を頼りに歩を進める。考えるに、重力そのものが原因なのではないか。ここは僕たちの世界の何倍もある。


だからと言って止まるわけにはいかない。トンネルだ。あそこまでいけばこの状況は変わる。あそこが異界の入り口なんだ。そう、ここは異世界。


トンネルを出た時の衝撃。あれは次元を突き破った衝撃。間違いない。ここは天国や地獄の入口なんかじゃない。そうなら列車は赤く燃え、爆発なんてしない。


断言できる。死者をあの世に送る列車なら途中で爆発するなんてしない。もちろん、夢でもない。こんなリアルな夢なんてあろうか。


喉が渇いた。カラカラだ。唾も出ない。水を飲んで一息いれよう。


這いつくばってレールに足を掛ける。うつ伏せになって体を伸ばした。湖にまた落ちてしまってはかなわない。水面に口を付ける。


塩っ辛い。湖ではない。これは海だ。


波がまったく立っていない。鏡のような水面。あり得ない。やはり異世界。見上げると雲一つない快晴。日差しが容赦なく僕を襲う。僕はトンネルまでたどり着くことが出来るのだろうか。


今はむやみに動かない方がいい。行動は日が傾いてからだ。上着で頭を覆い、小さく縮こまる。


どれぐらいたったか、ふと、空を見上げた。太陽は真上にあり、まったく動いていなかった。汗が滴り落ちている。喉がひりひりする。渇きに耐えられない。


日影が欲しい。やはりトンネルだ。


立ち上がった。ふと、呼吸が整っているのに気付いた。少し休んでこの環境に慣れたのかもしれない。上着を中東のヒジャブのように被り、世界最高峰の山を登るかのように一歩、また一歩と辛抱強く歩を進める。


かすかな警告音が聞こえた。遮断機が反応しているようだ。列車が来るのか。遠くに遮断機。警告灯と警告音を鳴らしている。


隠れるとこがない。周りはレールと海しかなかった。また海へと逆戻りか。


嫌だが仕方がない。飛びこむならなるべく短い間がいい。列車が目視出来るか出来ないかで飛び込む。


だが、列車はいつまでたっても来る気配はない。レールに耳を当てる。そうすれば列車の有無が分かる。映画で見た知識だ。


レールに震動音はない。列車は来ていない。もしかして遮断機は僕に反応している?


遮断機はずっと鳴っていた。何時間をかけてそこにたどり着いたが、ここまで来る中、列車の影形もなかった。


耳をつんざく警告音。横を通り過ぎてもずっと僕を追いかけて来る。聞こえなくなったかと思ったら、また次の遮断機の警告音。


精神的にもやられてしまう。これはもう拷問まがいの強制労働。今にも心が折れそうだ。


死んだ方がまし。


日陰を求めトンネルを目指すのも、この世界から脱出するのも、みんな諦める。


それならどんなに楽か。この苦境を乗り切るにはそれに勝つ強い意志と揺るがない目的が必要だ。


僕は自分が何者かも忘れてしまっている。記憶も何もなければ強い意志も揺るがない目的もわき出ることはない。元の世界で僕は何をしていた? 妻や子がいたのだろうか。僕はいい親だったのだろうか。


僕に待ってくれている人がいるのだろうか。


分からない。だが、いるような気もする。もちろん、それは記憶からではない。感覚でそう感じる。何かをやり残したような感じもある。胸がざわつくんだ。


ずっと歩いて悪いことばかりではなかった。一つ分かったことがある。トンネルに向かえば向かうほど体が軽くなっている。おそらくは列車が進んで行った方向に向けて重力は強くなっている。トンネルに向かう意外、僕に選択肢はない。


どれくらい歩いただろうか。もうトンネル間近なはずだ。すでに無人駅を二つ越えた。順調だ。なぜか喉の渇きも忘れられた。進む度に体が楽になるので、文字通り足どりは軽い。


ふと、警告音が聞こえた。またかと思ったが、今回は違った。音は後ろから聞こえている。


レールに手を当てた。レールは微かに振動している。耳を当てた。震動音が聞こえる。嫌な予感がした。


走ってみた。普段のように走れる。ここはほぼ僕の世界と同じ重力だ。トンネルは目と鼻の先。


僕は全速力で走った。ここは異世界だ。なんらかの理由で僕は紛れこんだ。もしかして、列車が爆発したのはそれが原因だったのかもしれない。だとすれば、後ろから来ているのはきっと追手なのだろう。ここまで来て捕まるわけにはいかない。


トンネルが見えた。といっても、あるのはトンネルの入り口だけだった。線路はトンネルの奥へと進んでいたが、トンネルの背後は真っ青な空と鏡のような水面。


まるで空を切り取ったようである。あそこは間違いなくこの空間の出入り口。息切れなんて関係ない。僕は走りに走った。


背後からガチャコンガチャコンと音がする。すごいスピードで音は近付いて来ている。振り向くとトロッコだった。二人の車掌が向かい合って、交互にレバーを上下させている。


間違いなく追手。絶対に捕まるわけにはいかない。死力を尽くして走った。しかし、追いつかれ、倒されてしまった。


二人に覆いかぶされ、それでも僕は抵抗した。うつ伏せになったところに二人。僕はそれを背に乗せたまま、這うように進む。


バラストで顔は擦り傷だらけになっていた。目の前にトンネル。もう手が届くほどだった。


僕は手を伸ばした。トンネルの境界に指先が掛ったのだろう、ふと、記憶がよみがえった。


僕には息子がいた。妻はとうの昔に亡くなっていた。親一人子一人。


息子には夢があった。パイロットになることだ。それも戦闘機。航空学生の一次試験を突破していた。


大事な時期だ。突然僕がいなくなればあいつはどうなるのだろう。あいつはやさしい子だ。受験をおいといて僕を探すに違いない。


「離せ! 僕は帰らないといけないんだ!」


仰向けに体を返した。そして、バラストを掴んだ。


一人をぶん殴った。もう一人は足で蹴って引きはがす。飛びかかって来る二人を振り払おうと暴れまわってのたくってトンネルに飛び込んだ。






俺は狭い空間に座らされていた。腰より上はガラスのドーム。前面は液晶ディスプレイと無数の計器。側面には幾つものスイッチ類があった。


両手は股の間のレバーを握っている。そして、ヘルメットと酸素マスク。まさしくコックピット。


俺はものすごい勢いで地表に近付いている。


ディスプレイに描かれる機体の形状。エンジン部分が赤く点灯し、コックピット内は警告音で満たされていた。予備計器の針は右に左に動きが定まらない。渾身の力でレバーを引く。


G-LOCジーロック! 俺は戦闘中に意識を失ってしまったんだ。そして、攻撃にあった。操縦レバーは全くいうことを聞いてくれない。この機体はもう駄目だ。シート横のレバーを引いた。


火薬によってキャノピーが吹き飛ばされた。次いで座席のロケットモータが作動する。俺は座席ごと射出される。


上空に舞った。シートが自動的に切り離されて、パラシュートが展開した。


空の向こうで三角の機影が火を吹き、煙を上げて落下していくのが見えた。俺のF3。爆発音とともに火花と丸い煙。


木端微塵であった。破片が飛んで四方八方に煙の筋を伸ばしていた。


敵機の影を探した。もう青い空に米粒大だった。やつも手傷をおっているはず。


眼下は海だった。太平洋だ。風にあおられて俺は波間を舐めるように着水した。ベルトの突起をひねる。味方に位置信号を送った。


二対一ではきついわな。結局、曲芸飛行の連続だった。まぁ、一機は落としたからいいってことにするか。


波に揺られ、俺は列車のことを考えていた。


駅で視野が狭かったのはブラックアウト。遮断機も俺のコックピットとリンクしてた。体が重かったのはG。そして、トンネルを抜けた時の衝撃。あれはソニックブーム。音の壁。


列車が熱を発したのは熱の壁。マッハ3で機体は摂氏1000度を超える熱を持つ。マッハ10を超えて長時間飛行出来る機体はまだない。


列車は戦闘機を暗示している。ホームにいた人達も俺に無関係ではない。顔はよく見えなかったけどなんとなく分かる。


近所の野球のコーチや世話好きな大工のおっさん、幼稚園や学校の先生達。俺の人生で過ぎ去った人達だ。そして、二人の子供。


あれはおそらく俺。


小指の無いメカギオラに後悔したのは中学になってのことだった。買って貰ってすぐ飽きて、それからすっかり忘れていたところをネットでプレミアが付いているのに気付いた。


電車でハンドミサイルなんて何で止めさせてくれなかったんだと自分を棚に置いて、中学の俺はおやじにあたったものだ。そして、包帯の子供。


あれは風疹ふうしん。保母さんに幼稚園に来るなと言われたのが夏。花火大会の直前だった。


公園の隅で、おやじと二人で花火をやった。おやじは感染を恐れていなかった。


楽しかったのは今でも忘れない。あの時、俺は小さくて親父の気持ちはよく分からなかった。だが、自分より俺のことを第一に想ってくれたことは伝わっていた。


そう、俺たちは親一人子一人の二人家族だった。母親は俺が物心つく前に亡くなったそうだ。顔は写真でしか知らない。


そういう環境で育ったためか、俺はまだ独り身だった。おやじに孫の顔を見せたかったが、そのおやじも去年他界した。


他界した。


そうか。


俺は包帯の子供を抱きしめた。同情からではない。あの時、なぜかそうしなければならないと思った。あれはそういうことだった。






俺をこの世に繋ぎ止める絆はもう、俺には何一つない。トンネルを走る電車のガラスに映ったあの顔。あれは間違いなく俺ではない。若い時のおやじ。


あの海列車に俺が乗っていたらどうなっただろうか。おやじではなく、この俺なら早々に諦めていた。


俺は今、おやじの墓の前にいる。


あの日、G-LOCジーロックした俺はおやじに助けられた。


どういう理屈か全く分からない。おやじが俺に入れ替わったのか。それとも、おやじからの呼びかけがあの世界のあらわれとなったのか。


いずれにしても、おやじだからあの世界から脱出出来た。おやじには帰って来なければならない理由があった。


そして、その理由を俺は忘れてはいけない。


育ててくれてありがとう。


夢を叶えてくれてありがとう。


そして、おやじ。


愛してくれて、ありがとう。






               《 了 》





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