第四十四話 蠢く影
闘技大会が終わると同時に、彼はそそくさと逃げた。あれに捕まらないようにする為に。
しかしそれは身勝手な願い、この出来事は自業自得の結末であり——
「どこへ行くんだァ?」
「ひぃっ!?」
細く暗い路地へと続く曲がり角を曲がった瞬間に、追手に出くわした。猛獣の毛のように乱れる金髪の、刃の無い柄だけの剣——最早、剣とすら呼べないが——を握っている巨漢である。にやりと笑った男が言う。
「テメーがベロルか。碌に金を返さないクズ野郎……毎回逃げられちまうって聞いたもんでな、それに聞きたいこともあるし、こうして出張ってきたワケよ」
「た、助け——」
ベロルは咄嗟に振り返って逃げようとしたが、彼は何故か倒れてしまい、体が石畳の床に打ち付けられた。
状況を理解できずに困惑するベロルは、男が拾い上げたものを見て目を疑った。
「コレか? 探しているのは」
男の手には、ベロルの脚が握られていた。痛みを感じさせずに、彼の脚は斬り落とされたのである。
「え? 何で——」
困惑の声を零すベロルの両腕が、脚と同様に痛みも無く斬り落とされる。脚を再生させようにも、腕を再生させようにも、魔腑を失ってしまった以上、それは不可能である。
そして男はベロルを担ぎ、歩き出した。
「嫌だぁっ! 死にたくないっ! あれにはなりたくないっ!」
「クズには相応しい結末だろ? ああ、それと——」
彼を嘲笑する男が、何かを思い出したかのように言う。
「——ダス・ルーゲウス。アイツ、強かったか?」
夜になり、男はある場所へと向かった。分厚い扉を開け、己の運命を理解した男女達が乱交している檻の横を通り、小部屋へと入る。中には酒を呑んでいる男女が二人。
「捕まえてきたぞ……って、テメーら、オレがいねェ内に呑気に酒なんか呑みやがって。こちとら殺さずに我慢したってェのによォ」
不満げな顔で乱れた金髪の男は言った。
「アタシはちげーよ! 呑気に呑んでるのはこのジジイだけだ! ったく、折角稼いだ金を酒だの女だのに無駄遣いしまくりやがって……!」
横に長いふかふかの椅子の背もたれに右肘を乗せ、もう片方の手の親指で初老の男を指しつつ女は叫んで弁明した。
「元々私が始めた事業だ……金を貸すのも、奴隷や魔腑を売り捌くのも、そして——」
「あーはいはいジジイの高説はもう十分」
女性は溜息を吐いて肩を竦めた。
「……つーか、とっ捕まえた男はどうすんのよ? 奴隷? それともアタシが好きにやっていい?」
「好きにしていい。あんな男、誰も欲しがるまい」
初老の男はにべもなく言い、酒を口に含んだ。彼の隣に金髪の男が座り、空いた杯に酒を注ぎつつ女に尋ねる。
「なァ、明日の奴隷市場、護衛はオレじゃなきゃダメか? オレァダス・ルーゲウスに用が——」
「駄目に決まってんだろうがッ! ——ったくっ、男共はどいつもこいつも!」
そう叫んで彼女は杯を勢いよく掴み、その中の酒を一気に飲み干した。大きな息を吐き、彼女は言い放つ。
「要人が来るからわざわざ多額の金を払ってアンタを呼び寄せたってのに!」
「そもそも今までこれがバレたことあんのか?」
「いや無いけど——普通は万が一に備えてやるもんだろッ! つーかそういうこと言うとマジでバレるからやめろッ!」
怒鳴り散らす女を、しかし彼は意に介していなかった。杯を口に運び、今までの話を聞いていなかったかのように金髪の男は言う。
「ダス・ルーゲウス——ようやくテメーを殺せるなァ」
「だからアンタは護衛に集中してろッてのッ!」
彼女は彼が手に持っていた酒を勢いよく奪い取り、その中の酒を一気に飲み干した。
「では、明日はいつものが来るからな……私はこの辺で失礼しよう」
「あーそうかい、さっさと出てけジジイ」
立ち上がった初老の男に、彼女はにべもない別れの挨拶を送った。彼が部屋から出ていった後、彼女は金髪の男に視線を移す。
「オマエは? 奴隷市場とか色々あるし、アタシももう寝たい」
「あ? もう寝るのか? じゃあオレは外歩いてくる」
「面倒起こすなよ! コレがバレたらアタシらの色々がパーになる!」
「わーったわーった。それに今はアイツを探すつもりはねェ……一刻も早く殺したいがな」
男はにやりと笑って言った。
「そう、ならいい……」
彼女は苛立ちを覚えて溜息を吐き、ふかふかの椅子の上に横たわる。男は瓶の中に僅かに残った酒を、天井を仰ぐようにして口の中に含み、部屋を後にした。