第二十一話 水神エヴリア
「急に何だよ? 掴んできた上に引っ張って外に連れ出して……あんま外出る気無かったのに」
不満げな口調でポンは言う。マートに誰もヘローク教団に入信していないと言われているとはいえ、あの出来事を経験してしまったが故に、街行く人々に実は狙われているのではないかと多少の恐怖心を抱いている。
「ご、ごめんね……でも、イギティさんもダスさんもとても嬉しそうだし、二人にした方がいいのかって」
二人がいる宿を眺めつつミーリィは言う。その表情はどこか寂しげでもあった。それを見かねたポンは溜息を吐き、
「……分かったよ。で、どこ行くんだ?」
そう尋ねる。それを聞くや否やミーリィの表情は喜びに満ちる。
「じゃあ、ダスさんが言っていた所行こう! まだ夕食の時間じゃないし、最初は神殿に行って、その後に食堂に行く、って感じで!」
そう言ってミーリィはポンの手を握る。
「それはやめろ!」
彼女の手を振り払いながら叫び、早足で彼女の前を歩いていった。
ミーリィとポンの二人は小舟に乗り、水路を進んでいく。水面をよく見てみると建物や街路の下に海藻が生え、魚の住処と化した古の建物があることが分かり、大昔のエトロンの名残を感じさせる。
エトロンは魔術師の時代の黎明期から存在していた都市で、魔術師が氷雪の大地を開拓したり戦の民と戦闘したりする際の拠点となっていた。しかし何年か経った頃にエトロンの沿岸部から海水が侵入し、いつしかこの都市は水没してしまった。
こういったこと自体はゴーノクル全域で起こっていたことだが、ここブライグシャ地方はそれが顕著で、ブライグシャ地方とヴァザン地方を繋いでいた大地の大部分が水没し、船を使わない場合はその水没した地域を迂回する形でお互いの地方に移動しなければならない、という程である。
始まりの者信仰に於いて海は『天と対の位置にある、忌むべきもの』の一つだが、しかし決して不都合なものでは無かった。食料不足に陥っていたエトロンの住民は魚で食料不足から脱却し、人の移動や物の輸送が楽になった。他にも、船を持たなかった戦の民からの侵攻が激減し、一方で魔術師は船で奇襲を仕掛けることができた。
当時の魔術師や人間はこれを水神エヴリアによる祝福だとし、エヴリア信仰が生まれた。当時は始まりの者信仰と共存していたが、魔術師の時代が終わってからはエヴリア信仰のみがこの地に残った。
「ポン君見て! 魚!」
「はいはい、子供かあんたは」
はしゃぐミーリィに呆れてポンはそう零した。そう言われてポンも船から顔を出してみると、光を反射する水面の下に鮮やかな魚が群れを成して泳いでいるのが見える。
「ばかでかい魚はいないが、種類は豊富さ。エトロン名物、天然の水槽ってな——っと、丁度着いたぜ」
船頭の男にそう言われ、二人は頭を上げる——海に囲まれ、ウルスの街から隔絶されたかのようにぽつんと建っている、水神エヴリアを祀る神殿だ。長い時を経て色褪せた水色が、石でできた白と灰の街に映える。観光で人気のある場所であるが故に、観光客が多い。
二人は停留所で小舟から降りて船頭に一礼し、中へと入っていく。神殿内部は海水が流れてくる構造になっており、中央には地下へと繋がる一本道がある。先を行く人々についていくように階段を下りていくと、観光客でごった返している大広間に出た。
「え、何これ、凄い……!」
「初めて見た……」
その光景に思わず二人は感嘆の声を零す。大広間は四方八方が分厚い硝子の壁でできていて、海の中の様子がよく見える。このような場所は、広大なゴーノクルの中でもここしか無い。階段の正面には食物や祭具などの置かれた祭壇があり、その先の硝子の壁の外側には岩に座ったエヴリアの像がある。
「この世界にこんな場所があるだなんて……!」
まるで幼子のようにはしゃぐミーリィに、今度はポンは呆れない。彼も内心興奮しているのだ。自分達を取り囲む硝子の壁とその外を泳ぐ鮮やかな魚、そして海の中に座す水神エヴリアの像。初めての光景に、二人はずっと居られるような心地さえした。
神殿を出てマーザスの食堂に行き、夕食をとって二人は宿に帰ってくる。
「ただいま戻りましたー」
ミーリィが部屋に入り、ポンがその後に続く。彼女の手には食堂で買った菓子の入った袋が握られていた。
「ん、おかえり——って、お前何買ってきたんだ……?」
「お菓子です! 食べます?」
「……まあ、ドライアから金は貰ったし、多少はいいか」
ダスは溜息交じりに言う。
「この街は楽しめました?」
にこやかにイギティは言う。机には皿が沢山置かれており、彼女とダスも会話や食事を楽しんだことが伝わってくる。
「はい、勿論! 神殿行ってきたんですけど、あんなの初めて見ました!」
「ふふっ、良かった。それで、ミーリィちゃん——」
微笑んだイギティは立ち上がり、続ける。
「ちょっと、お話しない?」