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前編

 『ミス平均値』。


 それが、私、佐藤和子の教室での名前で、キャラクターで、存在意義だと思う。

 別に誰に決められたわけではないけど、高校に入学してから一か月がたつ頃には、この空間の中で私のポジションはそういうふうに固定されていた。


「ねえ、あべっちはどうだった?」

「えー、普通だよ。ほら」


 夏休み直前の終業式の日。

 高校初めての長期休暇に浮足立つ教室の前方――窓際三列目の私の席に同じ『普通グループ』の美鈴が声をかけてきた。私はその呼びかけにぱっと先ほど渡されたばかりの通知表を見せる。


 通知表の中身はすべて五段階評価の三。つまり、どの教科でも平均の成績。


「さっすが、ミス平均値」

「褒めてる? けなしてる?」

「褒めてるよ。逆にどうやったらオールスリーに揃えられるか気になる」


 私たちの会話を聞きつけていつもお昼ご飯を食べてる幸子や洋子もこちらへ来て、散々にはやし立てられる。周囲に聞こえる声量で自分の成績を公開されるのは少し抵抗があるけど、小学校で初めて成績表というものが配られてからの恒例行事になりつつあるので、あまり気にしてもいなかった。


 これまでもそうだったけど、通知表を学期終わりに受け取る度に思う。

 自他ともに認める、すごーーーーーーーく、普通の人生を送ってきたと。


 たいていこういうことを言う自称普通の物語の主人公は、「俺・私は普通の高校生」などと言いつつ、海外に両親が赴任して一人暮らしだったり、どう見ても顔面偏差値65を突破してたり、何も特別なことしてないのに「お前……面白いやつだな」とイケメンから迫られたり、リアルだと許可されないような部活を作ったり、果てはいつの間にか生き別れの妹や幼馴染や生徒会長や担任と一つ屋根の下でラブコメ生活を送ってたり(参考資料:兄貴の漫画)するわけだけど。


 最初に宣言しておくと、私には、そういったイベントは一切なかった。


 平均的な民間企業に勤める平均的なサラリーマンの父とパートの母はほぼ毎日家にいるし、若干キモオタの兄貴は日本人の大部分を占める醤油顔の一重。同じ血を分け合った私も然り。ついでに身長は157.1cm(日本の16歳女子の平均)、体重51.6kg(日本の16歳女子の平均)、「佐藤和子」は日本女性で一番多いフルネームらしい。


「あべっちって本当普通だよね~、なんか安心する」


 ちなみに苗字が阿部でもないのにあだ名が『あべっち』なのは、英語のAverageから来ている。あだ名のつけられ方にもなんの捻りもない。


「わ、私にだって、普通じゃないところの一つ、二つくらい……あるよ」


 冗談まじりの笑みを浮かべて反論したところで、机横に引っ掛けていた鞄から鈍い音が漏れる。頭上で「夏休みの予定」についてという非常に普通で健全な話題が飛び交う中、鞄を開いて内ポケットから震えているスマホを取り出す。


 画面には通販アプリの通知。それを見て、どくんと胸が、一つ鳴る。

 内容は至ってシンプル。先日コンビニ受け取りで注文していたものが、指定の店に到着したという知らせだ。


「どしたん?」


 美鈴に尋ねられ、胸の動悸を気取られないようにパッと顔を上げる。


「ううん、なんでもない。この間注文したものが届いたっていうだけ」

「えー、何買ったの?」


 しまった……と感じた時にはもう遅い。会話を不自然に途切れさせないように笑顔を貼り付けながら、脳みそをフル回転させた。


「あーっと……あい〇ょんのアルバム」

「……やっぱり、めっちゃ普通だ」


 平均的な脳みそをフル回転させて捻り出した平均的な言い訳は、みんなに一蹴される。

 「もー、やめてよー」とわざとらしく明るい声を出したところで休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴り、「おーい、さっさと席つけー。明日から夏休みだからって、たるんでじゃねえぞ」とネチネチ眼鏡の愛称で親しまれている(?)担任の鈴木先生が教室に入ってくる。

 周りに集まっていたみんなは「じゃあ、また後で」と離れていくけど、私の背後では席替えで教室後方の席を独占するリア充グループが、放課後に行う学期終わりの打ち上げについてまだ話し続けていた。


「お前らー、さっさと席戻れー」


 これが私たちみたいなスクールカースト中位以下のグループだと、見せしめの意味も込めてもっと本気で怒られるのだろう。


 だけど、榮倉えいくらさんと蓼丸たでまる君率いるトップグループは、入学から約四か月で教室の空気感そのものを支配している。教師歴三十年のベテラン鈴木先生も、彼らをうまく使うのが今後の教室運営に役立つという打算があるのだろう。あまり熱意があるとは言えないその性格も相まって、他の生徒とは違い彼らには強く出ることはしなかった。


 でも、それに対し少し不満を持っていても、別に糾弾しようとかそんなことは一切考えもしない。

 さすがにこの年になると、教室というのが決して教育のための公平で倫理的な場じゃなくて、社会で生きていくための予行練習のために存在するのだとわかっているからだ。


 よっぽど大きなできごとがない限り、この教室という社会の縮図での位置づけは、その後の人生にもスライドしていくんだと思う。今、トップカーストを占めている彼らは社会に出た後もなんやかんやとうまくやっていくだろうし、その逆も然り。平凡な両親や兄貴、周りの大人たちを見ても、この予感は間違いないんじゃないかなと思う。


 じゃあ、自分は? と問われれば、きっとミス平均値の名にふさわしい平凡な人生を送って、「私も若い頃は――」なんてつまらない説教をする大人になるんだと確信を持って言えてしまう。


 本当に、何もない。ありふれた凡人。

 ただ生活していれば、学校の風景に完全に溶け込んでしまうモブ子Aで、たぶん明日からの夏休みも部活に行ったり、祖父母の家に帰省したり、宿題に追われたりと……特別な事件は起きない普通の日々を過ごすのだろう。


 そんなことを考えていると、リア充グループの人たちは話に一区切りついたらしく、いそいそと自分の席に座り始めた。授業中の使用は禁止のため、私はそれを見て慌てて手の内のスマホを鞄へ放り込もうとする。


「佐藤さん、これ」


 と、その時。


 不意に前の席の金子君からかけられた声。気を取られ、タイミング悪く手が滑る。慌てていたことも相まって鞄におさまるはずのスマホはするりと宙を舞い、床に落ちた。


「ご、ごめん」


 どうやら前から順番に回されるホームルームの配布物を渡そうとしたらしい。腰を下ろして足元に落ちたスマホを拾おうとしてくれているその姿が、私の焦りを加速させた。


「だ、だ、大丈夫! 気にしないで!」


 私は席を離れ、ぱっと飛びつくようにスマホを拾う。

 明らかに挙動不審――後から気づいたけど、ともすれば自分にスマホを触られたくないようにも見える私の行動に、金子君は戸惑い共に若干のショックを受けた顔をする。


 だけど、その直後、スマホを奪取した私を見上げた彼の表情がフリーズする。

 どこか一点をじっと見つめる視線に、今度は私が困惑する番だった。


「……どうしたの?」

「あっ! い、いや! なんでもないよ! ごめんね」

「えっ? ああ、ううん。別に……こっちこそ、ごめん」

「いや、うん」


 どこかぎこちない謝罪と共に配布物を受け取り、会話は途切れる。ホームルームが始まるということもあるけど、もともとそんなによく話をする仲でもない。もっともそれは金子君だけじゃなくて、クラスの男子ほとんどなんだけど。


 私は、別に金子君のことをキモいなんて思ってもいないし、なんなら同じ普通グループ所属で優しいし、全然話すのにも抵抗がない人くらいの認識だ。

 だけど、今は、例え画面がスリープモードで見えなかったとしても、スマホを他の人には触れさせたくない。


(だって……)


 私は鞄にしまう前にもう一度だけスマホの画面を――先ほど届いた通販アプリの通知、そこに示されたテキストを確認する。




『テロリストに囚われた男スパイ ――束縛拷問で逆調教ヨクバリセット――』




 そこには、最近流行りの女性歌手のアルバムなんて欠片も存在しない。

 というか、基本、音楽は配信かダウンロードで聞いてばっかりだから、CDなんて買ったことがなくて、なんでとっさにあんな嘘がつけたのか自分でも不思議だ。


 タイトルの段階から隠しきれない十八禁の匂いが立ち込めるそれは、兄貴がよく使っているサイトで年齢を偽って購入した成人向け媒体、アダルトコミック……要するにエロ漫画だ。


 こういうのを読むのは、ミス平均値がする行動からかけ離れているのはわかる。

 まともじゃないのはわかってる。


 でも、いつからか、こんなふうに男の人が女の人――それもテロリストに乱暴されたり、拷問されたり……無理やり、やらされたり。そういう要素がある小説や漫画、映画を自然と手に取るようになった。


 別に何か大きなきっかけがあったわけじゃない。

 小さい頃に兄貴が観ていた特撮戦隊モノでヒーローたちがやられる場面がちょっと好きだったぐらいで、はっきりとこの変な感情を自覚するようになったのは、小学五年生の頃。父と母が休日に観ていたアメリカの連続ドラマ。主人公のFBI捜査官が敵のアジトで女テロリストに拷問されるシーンをちらりと見た時だ。


 友達の家に遊びに行く途中、リビングを突っ切ったので視界に入ったのは一瞬だったと思う。

 別に性的なシーンがあるわけでもなく、ただ単純に暴力的な場面。主人公のおじさんは何度も殴打され、顔中が腫れ上がっていた。暗褐色の肌から白く浮かび上がるのは虚ろな瞳。椅子に縛られたおじさんは首をぐたりと垂れ、その上を仲間たちと笑う女テロリストの甲高い声が響いている。


 私はそのワンシーンに、画面の向こうに、強く惹きつけられた。

 心臓が痛くなるくらい高鳴るのを――自分が興奮しているという事実を、自覚した。


 その瞬間、慌てて玄関の廊下を駆け出し、家を出た。

 最初は、ダンディマッチョな外国人男性がボコボコにされている姿に興奮したのだと思った。そっちのほうがまだマシだったかもしれない。


 だって、幼心にわかっていた。女の人に興奮するのはおかしいことだと。当時クラスの男子に好きな子だっていたし、別に女の子が好きなわけじゃなかった。

 だけど、友達の家に行く間も、遊んでいる時も、帰り道でも。頭の中に何度もよぎるのは、おじさんの顔を殴りつけるあの女の人と高い笑い声。寝る前も、妄想の中で何度もあの女の人に自分を襲わせた。男の人より細くて綺麗な指で形作られる拳が頬に打ち付けられて、私はその度に動悸が強くなり、体が熱を帯びるのを感じる。


 その瞬間、はっきりと、自覚した。

 私は、拷問されているおじさんに興奮してたんじゃない。


 女テロリストに拷問される。その事実に、興奮してたんだ。


 たぶん男のテロリストの人じゃダメだったと思う。

 女の人でも、テロリストじゃければダメだったと思う。

 『女テロリスト』じゃなきゃ、拷問される意味がないのだ。


 最初は、自分はおかしい。変態だと悩んだ。

 だけど、そう思っても、妄想癖は止まることはなかった。

 学校に。通学中の電車に。家族と行ったレストランに。あらゆる場所、状況で、女テロリストは襲ってきて、占拠して、決まって私を人質にした。


 だけど、年をとるにつれ、私と同じような嗜好や妄想をする人もいることがわかってきた。

 女テロリスト限定という状況は珍しいけれど、兄貴もよく女の人にいじめられるエッチな漫画を読んでいた。正直、顔だけじゃなくて変なところまで似ているのは勘弁してほしかった。


 テロリストに襲われるっていうシチュエーションも、中学男子の妄想ランキングベスト3に鎮座する殿堂入りのパターンのようだし、中学生の時もイケメンに「無理やりやられてみた~い」とふざけた調子で言う子もいた。


 でも、そのどれもが私の願望とは、少しズレている気がして。

 このことは絶対に誰にも言わないと決めていた。


 「どうして?」とか「なんで?」とか、そんなふうに他人に聞かれても、きっと私はこの欲望が持つ意味を答えられない。もしすごく権威のある心理学の教授が、すごく論理的で、すごく学術的な説明で原因を解明してくれたとしても、たぶん心の底から納得はできないだろう。


 もっと、他人も自分も納得できるような意味を持つ欲望なら、私もこんなふうに悩まずにすんだのかもしれない。だけど、どんな理屈も「そういうもんだ」と頭を諭すことはできても、この欲望そのものを作ったり、なくしたりはできないんじゃないかなって気もしてくる。


 だから、『ミス平均値』の名に恥じぬように、「女テロリストに拷問されたい」なんて異常な思いは周囲に気取られないように生きてきた。創作物でこっそりと欲求を満たし、自分がやばいやつだという意識を常に持って隠してきた。


 別にいつもこんなことで悩んでいるわけじゃない。

 でも、些細なきっかけ――例えばクラスのオタク男子が「キモい」なんて小声で言われている時なんかには、ふと自分が隠し持っているこの欲求も同じ類のもので、自分がいわゆる世間の普通と違うことを否が応にも実感させられてしまう。


 教室――この小さな社会の縮図では、特にそんな場面が多くて、時々自分を取り巻く世界がひどく残酷に見えてくる。世にいう空気っていう……いわゆる普通や常識の内容が大事なんじゃない。それを「守れるか守れないか」、たぶんそこが重要で、そこからはみ出した人たちは、この教室では悪意にさらされて生きていくしかないのだ。


「じゃあ、今学期はこれで終わりだが、お前ら夏休みだからって羽目を外すなよぉ」


 自分ではどうしようもない悶々とした考えを浮かべている間に鈴木先生の話は終わっていた。

 「どうしよう。全然聞いてなかった」と最初は焦ったけど、周りのクラスメイトの顔を見ると優等生かつ清純派マドンナである清水さん以外誰も顔を上げておらず、だいたいみんなも自分と似たような感じだと気付く。


「日直、号令」

「きりーつ! 気を付け!」


 先生の指示に高橋君が号令をかけた。

 皆が数秒後に迫った夏休みへの期待に胸を膨らませながらも、だらだらと立ち上がる。


「れ――」


 だけど、その瞬間。

 突然――本当に唐突に、教室のスライド式ドアがけたたましい音と共に蹴破られた。


「えっ?」


 クラス全員の視線が、いっせいに教室右前方へと集まる。

 床には蹴破られたドアが悲壮な姿で横たわっていた。


 そして、次の瞬間、私は思わず息を呑んだ。


 最初は、この世ならざる美しい女神が現れたのかと思った。

 だけど、違う。無残なドアの屍を踏みにじるように。金髪碧眼のその人は、堂々と教室内へと足を踏み入れた。


 真夏にも関わらず着丈が膝元まであるミリタリーコートを着た長身の外国人女性。最初はALTかと思ったけど、よく考えたらうちのALTはアジア系の男の人だからすぐ違うことに気づく。


 あまりにも急なできごとに誰もが微動だにしなかった。

 人間、予想外の事態が起きると驚くより先に戸惑いが体を支配するのだと初めて知った。


 静まり返った空気の中、蝉たちの合唱だけが鳴り響いていた。窓からは、凍てついた教室の空気を溶かす透明な夏の日差しが差し込んでくる。


「あ、あの……」


 最前列の廊下側、つまり女性に一番近い席にいた清水さんが絞り出したような声をあげたけど、唸りを上げるエアコンの稼働音にかき消されてしまう。


 でも、声は届いていたらしい。まるでターミネーターのように機械的に首を動かすと、女性は清水さんを真正面から見下ろす。そして、カーキー色のジャケットの内側から片手で何かを取り出し、彼女へと向ける。


 それを認識するのにみんな数秒を要した。

 だけど、清水さんの眼前では、確かに女性が無機質で冷たい、黒の銃口を構えていた。


「全員、動くな。この子の顔面が吹っ飛ぶぞ」


 女性から出てきたのは、流暢な日本語だった。

 恐らくこの空間にいる誰もが事態を完全には飲み込めていなかっただろう。


 だけど、私だけは――似た場面を何度も妄想し、あらゆる作品に触れてきた私だけは、瞬時に状況を把握した。


 私たちの教室は、女テロリストに襲撃されたのだと。



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