武人復活
黒崎健剛は、不思議な感覚に捉われていた──
この男、武想館拳心道空手の五段を取得している。血みどろの修羅場を何度もくぐり抜け、死をも覚悟した闘いを生き抜いてきた。世間の人々からは、狂人のごとき扱いを受けながらも、己をひたすら鍛え続けてきた。
そんな黒崎だからこそ、わかることがある。
奴は、途方もなく強い。
・・・
十年以上前、黒崎はロシアの空手王者イワン・ハシミコフと対戦した。
イワンは身長二メートルで体重百二十キロでありながら、ブラジリアンキックや跳び後ろ回し蹴りのようなトリッキーな回転技も使える選手だ。当時、優勝の最有力候補として知られていた。
そんな強豪と黒崎は、世界大会の二回戦にて激突した。武想館の世界大会はトーナメント制であり、厳しい予選大会を勝ち抜いた百二十八名のみが参加を許される。黒崎は順調に勝ち上がり、二回戦でイワンと当たることになった。
黒崎は玉砕覚悟で正面から打ち当たり、正拳突きと下段回し蹴りの連打を叩き込んだ。もはや、次の試合のことなど考えていない。今、この最強の男を倒す。そのために、命を捨てる覚悟で闘ったのだ。
だが、イワンは強いだけでなくクレバーでもあった。次の試合を見据え、黒崎とまともに打ち合うようなことはしない。黒崎のメガトン級の下段回し蹴りと、嵐のごとき正拳突きのラッシュを上手くいなし、要所要所で攻撃を返していく。それも、上段後ろ回し蹴りや踵落としのような、派手で見栄えのいい技だ。相手にダメージを与えるより、審判にアピールする闘い方に徹した。
勝負は延長に持ち越され、そこでも決着がつかず再延長にまでもつれこむ。結果、僅差の判定でイワンが勝利した。だが、この判定には観客から不満の声が上がる。見ていた選手やマスコミの中にも「あれはミスジャッジだ」「ポイントならイワンの方が上だが、与えたダメージは黒崎の方が上」と語る者が少なくなかった。もっとも、当の黒崎は、泰然自若とした態度で判定を受け入れる。
しかし、次の試合をイワンは棄権した。黒崎の下段回し蹴り連打は、イワンの脚に回復不可能なダメージを与えていたのだ──
その後、黒崎は逮捕された。
河原にて偶然、遭遇してしまった事件。襲われていた女性を助け、五人の暴漢を叩きのめした……はずだったが、女性が被害届けを出さなかったため、黒崎のしたことは傷害罪となってしまう。しかも、空手五段の経歴を重く見られ、殺人未遂罪まで付けられてしまったのだ。
それからの十年間を、黒崎は刑務所で過ごした。十年の歳月は、彼から全てを奪ってしまう。
やがて出所したものの……もはや、将来に何の希望もない。生きる目的もない。かつて最強と謳われた男は、今や公園にて寝泊まりするようになっていた。
・・・
今日もまた、いつものように巨大な遊具の中で寝ていた。だが、夜中に突然目が覚める。
奇妙な違和感を覚えた。漂う空気が妙だ。明らかに、普段と違う。
胸騒ぎを感じた黒崎は、暗い遊具の中で体を起こした。ゆっくりと立ち上がり、慎重に遊具から顔を出してみる。
街灯と月明かりに照らされた公園内に、ひとりの男が立っていた。
いつのまにか、憑かれたような表情で黒崎は歩いていた。ふらふらとした足取りで近づいていき、男の前に立つ。
見れば見るほど、おかしな男であった。年齢は三十代か……いや、五十代と言われても違和感はない。作業服を着て、汚いスニーカーを履いている。彫りの深い顔立ちは、外国人特有のものであろう。落ち着いた雰囲気や瞳の動きから、高い知性の持ち主であることがわかる。身長は百六十センチ強。百七十センチの黒崎より、確実に小さい。
にもかかわらず、体から感じる圧力は尋常ではない。全身が、闘気で包まれているかのようだ。その闘気に触れただけで、ダメージを受けるのではないか……そんな錯覚すら覚える。
イワンとの闘いから、十年以上が経つ。今も、あの死闘の感触は体が覚えている。
だが、目の前に現れた男は……イワンよりも強いかもしれない。
「貴様、何者だ?」
黒崎の口から出た言葉。その声は震えていた。自分でも、理解のしがたい感覚を覚えていた。今の黒崎は、たとえようもない恐怖を感じている。怖くて怖くて仕方ない。
にもかかわらず、それと相反するかのような胸の高鳴りをも感じていた──
「初対面の人間に対し、何者だ、は失礼ではないかな。まず自分が名乗る、それが日本人の礼儀であると記憶しているが……俺の記憶違いだったかな」
男は、涼しい表情で言った。怯えているわけでも、怒っているわけでもない。問われたから、言葉を返した……ただ、それだけに見える。
その態度を見た黒崎の中で、湧き上がるものがあった。男をじっと睨み、言葉を絞り出す。
「俺の名は、黒崎健剛だ。貴様、こんな時間に何をしている?」
今では、声だけでなく体までも震えていた。自分でも、どうにもしようのない反応……武者震いだ。目の前に立っている者が発している何かが、彼の中の武人を蘇らせようとしていた。
とうの昔に、死んだはずだったのに──
「ここだけの話だがね、今から人を殺しに行くところさ。この公園には、ちょっと寄っただけだよ。では、失礼する。君と違い、俺は忙しいのでね」
男は、慇懃無礼な態度で一礼する。黒崎は、ぎりりと奥歯を噛み締めた。
「そんなことを聞かされて、黙って通せるとでも思うのか」
黒崎は、ゆっくりと両拳を挙げ構える。
直後、獣のように襲いかかった。
左の三日月蹴りが、鞭のような速さで放たれた。男の鳩尾に、黒崎の爪先が突き刺さる──
次の瞬間、黒崎は愕然となった。確かに、彼の爪先は男の鳩尾に炸裂していた……はずだった。
しかし、爪先は作業着を掠めただけだ。男は立ち止まったまま、微動だにしていない。
馬鹿な!
蹴りの間合いを見誤ったらしい。こんなことが、あるはずないのに。
鍛練不足ゆえ、すっかりナマクラになってしまったのか──
「クソが!」
黒崎は、思わず罵声を浴びせる。相手にではなく、不甲斐ない己にだ。
直後、擦り足で間合いを詰める。男は、怯む様子もなく立ったままだ。
気合いと共に、黒崎は右の掌底打ちを放つ。男の顔面に、掌底が炸裂する……はずだった。
が、またしても空を切る。黒崎は、目を見張った。
直後、手首を掴まれていた。それまで体感したことのない感触が、腕全体を走る。ゴリラに腕を掴まれたら、こうなるのではないか──
次の瞬間、黒崎の体は宙に浮く。
目の前の風景が、一回転した。
それは、一瞬の間に起きた出来事であった。放った掌底が空を切り、その腕を掴まれ投げられ地面に倒された……まるで、武術の達人の演武のようだ。とっさに受け身をとっていなければ、後頭部を打ち意識が飛んでいたであろう。
倒された黒崎の視界に映るのは……夜空と、涼しい表情で彼を見下ろす男の顔であった。
その瞬間、すぐに後転し間合いを離す。素早く立ち上がり、両拳を挙げ構えた。倒された直後に追い討ちをかけられたら、その時点で勝負はついていたはず。なのに、あの男は立ち上がるまで待っていたのか。
いや、それ以前に……。
黒崎は、ようやく何が起きたのか理解した。蹴りも掌底も、間合いを見誤ったわけではない。男が、ミリ単位で間合いを見切り躱したのだ。
ミリ単位の動作であったからこそ、動きが見えなかったのだ。
背筋を、冷たいものが駆け抜ける。こちらの攻撃をミリ単位で見切るなど、ありえない話だ。人生の全ての時間を、武に捧げた者が千人いたとしよう。その中で、もっとも才能に恵まれたひとりのみが辿り着ける領域だ。それは、まさに神域。武の神に愛された者のみが辿り着ける場所なのだ。
そんな武の神の寵愛を受けた者が、現実に目の前にいる──
黒崎の五体を、異様な感覚が駆け巡る。彼は今まで、様々な人間を見て来た。その中には、武術の達人を自称する者もいたが……全てが偽者だった。
この奇怪な外国人は違う。本物の達人だ。恐らくは、武の歴史に名を遺せる男。そんな達人と、こんな場所で立ち合えるとは。
黒崎は、構えを解いた。大きく息を吸い込む。直後、鋭い気合いと共に吐き出す。空手独自の呼吸法・息吹だ。
そして、ゆっくりと拳を挙げ構える。
すると、男はニヤリと笑った。
「仕方ないな。いいよ、いつでも来たまえ」
男の言葉の奥には、微かな喜びがあった……少なくとも、黒崎にはそう感じられた。
この男、やはり本物の達人だ──
黒崎は、すっと間合いを詰める。同時に、速い左の上段突きを放つ。
だが、これはフェイクだった。軽く握られていた拳が、男の顔面に届く寸前でパッと開かれる。
途端、手に握られていたものが男の目を襲った。砂粒である。先ほど地面に倒された時、とっさに砂粒を握りしめていたのだ。その砂粒を、突きのふりをして投げつける ──
さすがに、この攻撃は想定外だったらしい。男は顔をしかめ、目をつぶる。
その一瞬の隙を、黒崎は逃さない。右の正拳による鉤突きを、男の脇腹めがけ打ち込む──
正拳は、男の脇腹にめり込む。それは異様な感触だった。人体を殴っている感覚とは、似て非なるものだ。あえて言うなら、巨木を殴る手応えに近いものだった。
さらに黒崎は、右の掌底を顔面に叩き込む。かつてのボクシング世界ヘビー級チャンピオン、マイケル・バイソンのコンビネーションを空手流にアレンジした連撃である。まさに、渾身の一撃だった。これが外れたら、自分は終わる……その一念を込めた掌底であった。
だが、黒崎は目を見張る。掌底は、確かに当たっていた。にもかかわらず、男は倒れていない──
掌底は、相手に脳震盪を起こさせる打撃である。脳震盪を起こさせるには、頭を揺らさなくてはならない。しかし男は、とっさに顎を引いて頭と首を固定し、脳震盪を防いだのだ。
男の手が、すっと伸びてくる。気づくと、喉を掴まれていた。凄まじい握力だ。一瞬で意識が飛びそうになる。
直後、足を払われる。黒崎は、背中から地面に叩きつけられていた──
この間、僅か数秒しか経っていないだろう。だが黒崎にとって、今までの人生でもっとも濃密な時間であった。
なぜか、笑みが浮かぶ。負け惜しみとは違う、自然に出た笑みだった。
「もういい。気はすんだ。さあ、殺せ」
気がつくと、そんな言葉が出ていた。
男は、黒崎をじっと見下ろす。喉元を掴む手から感じ取れる腕力は尋常ではない。熊にでものしかかられているかのようだ。単純な腕力からして、レベルが違い過ぎる。喉を掴んだ瞬間、握り潰すことも可能だったはず。
今、ようやく正体がわかった。この男、達人などという優しい存在ではない。
神が気まぐれで生み出した、本物の怪物だ──
「俺は、何もかも失った。今さら生きたいとは思わん。殺したければ殺せ」
そんな言葉を吐いた時だった。
突然、男の手が喉元から離れた。
「申し訳ないが、今の君には殺す値打ちはないな」
男は、すっと立ち上がった。冷たい目で、黒崎を見下ろす。
「君の力も技も、ここまで低いレベルだとは思わなかったよ。見た感じ、もう少し楽しませてくれる気がしたのだがね。だいぶ怠けていたようだな。とても残念だよ」
その言葉は、刃のように黒崎の心に突き刺さる。自身の今までしてきたことが、この怪物の前では児戯に等しいものだったのか。
いや、せめて鍛練さえ欠かしていなければ、もう少し闘えたのではないか──
後悔の念が、黒崎の中に浮かぶ。一方、男は背中を向け立ち去っていった……かに思えたが、数メートル歩いて立ち止まった。
こちらを向き、静かな表情で口を開く。
「先ほど君は、何もかも失ったと言っていたね。だが、本当に何もかも失ったのかな。俺には、そうは思えない」
「どういう意味だ?」
「このままだと、君はもっとも大切なものを失うことになる。俺に言えるのは、それだけだ。では、失礼するよ」
そう言うと、再び背を向ける。黒崎は、慌てて叫んでいた。
「あんた、名前は!?」
「ペドロだ。縁があったら、また会おう」
翌日の夜。
暗闇の中、黒崎は憑かれたような表情で稽古に励んでいた。あの怪物の動きを脳内で再現しつつ、渾身の一撃を叩き込む……凄まじい勢いで、持てる技を虚空に放つ。
彼は今、ひたすら己の武器を磨ぎすませることに集中していた。
いつか、あの怪物ともう一度立ち合う日を夢見て──
・・・・
「ま、待ってくれ。あんた、誰に雇われた?」
石井貞治は、床で腰を抜かし震えていた。
ここは、都内某所にあるタワーマンション最上階の一室だ。彼の周りには、三人のボディガードがいる。皆、特殊訓練を受けた凄腕……のはずだったが、今は意識を失い、床の上に倒れている。
そんな事態を引き起こしたのは、目の前にいる小柄な外国人であった。作業服姿で帽子を被り、ボロボロの汚いスニーカーを履いている。先ほど、鍵のかかっているはずのドアからいきなり現れ、ボディガードを一瞬で叩きのめしてしまったのである。
外国人は、にこやかな表情で口を開く。
「申し訳ないが、君には死んでもらう」
「ちょっと待ってくれよ! なんでだ!? なんで殺されなきゃならない!?」
「理由なら、ちゃんとある。君の名は石井貞治、ヤクザの幹部だ。かつてメキシコに旅行に行った際、現地の幼い少女を犯して殺した。少女の父親は料理人でね、とても美味しいプエルコ・ピビルを作るんだよ。その父親に頼まれたんだ。娘の命を奪った男に、地獄を見せてくれ……とね」
そう言うと、外国人はニヤリと笑う。石井は、慌てて叫んだ。
「だったら、俺はそいつの倍、いや十倍払う! だから見逃してくれ!」
「無理だな。俺は、彼と約束したんだよ……美味いプエルコ・ピビルを食わせてもらう代わりに君を殺す、とね。俺はね、約束を破るのが嫌いなんだ」
言った直後、外国人の手が伸びる。石井の腕を掴んだ。
次の瞬間、腕はありえない方向に曲がっていた──
石井は悲鳴を上げる。だが、誰も聞く者はいない。ここは、防音設備が完璧なのだ。どんな音を出そうが、外に洩れることはない。
外国人は、ふたたび手を伸ばす。が、その動きが止まった。
「君は、これから死ぬわけだが……ひょっとしたら、人間として生まれ変わるかも知れないね。その時に備え、ひとつだけ忠告しておこう。君のボディガードは弱すぎる。昨日、公園で寝ていたホームレスの方が遥かに強かったよ。来世があったら、もう少しまともな連中を雇いたまえ」