82話 従順なる巨像
べーモットの紅の瞳は破滅の象徴とされている。いくつもの文明が滅びたとき、傍らにはその存在があった。
あるときは土砂の高波が街を洗い流した。あるいは大地が裂け、どこぞの王城は奈落の底に吸い込まれた。山が消滅し、噴火によって連なった火柱は地獄に通じる御道だと恐れられることもあった。
その凶兆たる両眼が、今まさに月夜の中で不気味に光っている。べーモットはおれたちを明確な敵対者と認識した。
獣は躊躇なく二人を轢き潰さんがために走りだす。己が巨体のみを武器とした純粋な質量攻撃。魔力が枯渇している身とて、矮小な命をたった二つ消し去ることは難しくない、と。
驚嘆すべきはその速度。図体の大きさからイメージできる最速より倍は速い。自重や風の抵抗をものともしない動きは頑強な脚の為せる業だろうか。一説によるとべーモットの筋肉の硬度は龍の鱗にも匹敵する。
暴力的なまでの質量による、猛スピードの突進。その威力は計り知れるものではない。
「リュート!なるべく多く、等間隔で壁を作ってくれ!」
メタンフォードの指示で我に返る。咄嗟に記憶の中の地系初級魔法『土壁』が蘇る。おれは言われるがままにべーモットとの間に何層もの防壁を作り上げた。
「上出来だ!」
メタンフォードが拇指、食指、小指を壁に向ける。初見の型だ。地面から無数の支柱が伸び、壁の間を隙間なく埋め尽くす。
「これは…?」
「今にわかるさ。」
直後、人智を超えた衝撃が障壁を襲った。べーモットの巨体は瞬く間に第一層の壁と支柱を粉砕すると、続けて二層目、三層目が破壊される。暖簾をくぐるが如き容易さで防壁を無力化していく。
まるで歯が立たない。そう思ったときだった。五層目に差し掛かったあたり、信じられないことにべーモットは前進をやめたのだ。
「え、止まっ…た?」
「ふふ、これぞ僕が発明した新魔法『耐衝撃防御』!……なんてね。嘯いてみたがなんてことはない。六角形の平面充填による衝撃分散…まぁ、言ってみればただの応用魔法さ。強度こそ三角形に劣るとはいえ、これで僕の理論が一つ証明されたわけだ。」
珍しく饒舌に語るメタンフォードの姿はまさにご満悦といったご様子。言っている意味こそよくわからなかったが、最後の台詞は聞き捨てならなかった。
「り、理論が証明された…ですと!?」
「はは、やっぱり気になるかい?あの支柱を全て六角柱になっていてね。隙間なく敷き詰めることで単純な壁よりも強度と柔軟性を」
「そこじゃなくて!なぜこの期に及んで理論を証明しているんですか!?」
「ああ。それは…」
メタンフォードは気持ち悪いくらい満面な笑みを浮かべた。その顔で何となく何が言いたいのか察してしまったが、ここはあえて黙って聞いてやる。
「無尽蔵な魔力、お誂え向きの実験体。こんな理想的な機会を逃すと思うかね!」
この人は馬鹿なんだろうか。そう口には出さなかったが、たぶん顔には書いてあると思う。
未知に対する好奇心が明らかに理性を凌駕している。精神が退行していると言っても差し支えない。恐らく最優の騎士としての数少ない瑕なのだが、導き出す結果が秀逸すぎてただただ憎たらしい。
欠点でさえ失態になり得ないのだから末恐ろしい男である。
「おっと、せっかく作った時間を浪費する訳にもいかないな。とにかく今はべーモットの体力を削ろう。」
べーモットに向かって走り出した彼の背中が「ついてこい」と言っている。
「体力を削るって具体的には?」
「特別な作戦はない。周りへの被害を抑えつつひたすら攻め続けるんだ。」
お互い距離は離れているが『小人の足音』のおかげで意思疎通は良好。メタンフォードに追従する形でべーモットに接近する。
魔力が枯渇しているべーモットからすればおれたち二人は願ってもないご馳走だろう。未だ目覚めかけだった獣の本能が完全に覚醒する。
壁に頭角を突き刺したまま力任せに首をふると防壁はバラバラと倒壊した。
「やはり局所的な力には弱いか。」
メタンフォードは冷静に分析しながらも、次から次に土柱を生やしてべーモットに叩き込む。おれも見様見真似で攻撃をしかけるが扱える物量の差には明確な差があった。
「能力は同じはずなのに!」
「仕方ないさ!経験の差だよ!」
べーモットも黙って攻撃を受け続けるわけはなく、土柱をものともせずに暴れまわる。やはり伝承に違わぬ強靭さ。攻撃しているにも関わらずぶつけた土柱の方が砕け散る。
かと思えば三本の尾を巨大な鞭のように叩きつけては地面を割るし、全方位に弾き飛ばした土塊は砲丸のごとく木々をへし折る。
廃村だったはずの土地は瞬く間に更地にされ、やがて森が削れていく。
「魔力なしでこれほどの破壊力!やはり伝説は伊達ではないか!とにかくこいつの足止めは僕が何とかする!だから君は君が考えうる最強の攻撃をこいつに叩き込んでくれ!」
「かつてない無茶振り!?」
最適な役割分担なのは理解できる。足止めするための手数は圧倒的にメタンフォードの方が上。そんな最中、村にまで届きそうな土塊をもれなく叩き落とす離れ業までやってのけている。
だが代わりに有効的な一打を放つ余裕がない。防御に徹するがゆえに強烈な攻撃を繰り出す溜めが作れない。加えて『共存共栄』のタイムリミットも未知数。
だからこそ攻撃はおれに任せようと言うのだろう。それはわかるのだが…。
「考えうる最強の攻撃ってなんですか!」
そんな大雑把な指示がこれまでにあっただろうか、と愚痴を溢したいところではあるが止む無く自分の記憶を漁る。
記憶にある攻撃の中で最も手応えがあったものは戦槌による打撃だが、あれは魔力を質量に換える特別な素材ありきだ。形だけ真似たところで意味はない。
かと言って地系魔法は拘束や防御に適したものがほとんど。考えうると言っても選択肢は多くない。
「イメージだよ、リュート。最も強いと思ったものを形にすればいい!」
「適当!そんなこと言ったって…ん?」
地系魔法の真髄は造形。他のどの属性よりも強固に、靭やかに形を作ることができる。故に汎用性は高く、想像できる形ならある程度再現は可能…。長大な剣でも、広大な盾でもだ。
その中で自分が最強だと思う攻撃を地系魔法で再現しろと言う。
一つの完成系が閃いた。馬鹿げた想像かもしれないが可能性はゼロじゃない。試せるものなら試してみたい。そう思ってしまったおれはもう手遅れなのだろう。
「探求心って伝染るんだなあ。」
「それが人間の性ってやつさ。」
「ぐぬぬ…。せめて少し時間をください!」
おれは最強の形をイメージする。それは二百六の骨からなり、百四十四の関節を成し、およそ六百の筋肉に支えられた人の像。べーモットに匹敵する丈を備えた紛れもない巨人の姿。
「素晴らしい!『形成』や『泥人形』とは別次元の代物だ。もはや新種の魔法だよ、それは!」
出来上がったのがただのオブジェでは意味がない。おれはその場で何もない空間に向かってジャブを入れた。その動きに合わせて棒立ちしていたはずの巨人が全く同じフォームで大気を揺らす。
「それに名をつけるなら…そうだな、『従順なる巨像』というのはどうだろうか!」
メタンフォードが勝手に命名していることはさておいて、おれは動作のチェックをする。全身に重りをつけられたように動きにくい。だが、動きは完璧に同期していた。
仕組みは至ってシンプルだ。メタンフォードが指の形で魔法を自在に操っていたことからヒントを得た。構造物の動きは本人のイメージ次第。だから人体の構造を模倣し、自分の動作イメージをそのまま巨像に反映させることができるとふんだのだ。
「いきます!」
おれは泥の中を走るような抵抗に抗いながらべーモットに向かって走り出した。巨像も関節を軋ませながら動き出す。あとは間合いを見切って腕を全力で振り抜くだけ。いつだって最強のイメージは拳なのだ。
「よいっしょおお!」
巨像の重いパンチが炸裂した瞬間、べーモットの体は大きくのけ反った。これまでのどの攻撃よりもダメージを与えた実感がある。
代償に巨像の右腕は肩まで砕け散ったものの、そこは地系魔法の利点がカバーする。魔力が続く限り、この巨像は再生を繰り返す不死身の巨人兵と化すのだ。
べーモットは内に生ずる奇妙な感覚を覚えていた。それは自然界の頂点に君臨する獣が本来抱くはずのなかった感情。
喉を食い千切った。四肢をもいだ。上半身を吹き飛ばした。それなのに巨人は瞬く間に再生して食らいついてくる。べーモットは生まれて初めて、破壊し尽くせない未知の存在を前に恐怖したのだ。
だが、時として恐怖は生存への執念を呼び覚ます。敗北に瀕した獣は強敵を前により本能を研ぎ澄ましていく。いくら破壊しても倒れない巨人兵の弱点を探る。五感を超えて、全ての感覚を総動員して敵の心臓を探し出す。
べーモットが不死身の仕組みに気づくまでさほど時間を要しなかった。獣の直感は敵の心臓が体の内部にないことを悟った。
その小さくも力強い心臓は巨人の後ろから自分を見据えている。
『そこかああああああ!』
そんな咆哮だった。既にべーモットの眼には巨人の姿も煩わしい騎士の姿も映ってはいない。ただ一人の人間に向かって持てる力全てを費やし突き進む。
「僕を忘れてもらっては困るな。」
その声がべーモットに届いたかはわからない。ただ猛突進をせんがために地面を蹴った後ろ脚が、最も力の抜けるタイミングで土の蔦に絡め取られた。つんのめるように勢いを失った巨体は地面に叩きつけられる。
「チェックメイトだ。リュート!」
「了解!」
べーモットが最後の力を振り絞って首をもたげたところに巨人の拳が炸裂する。獣の王はその慣性に逆らうことなく地べたを転がり、そのまま動かなくなった。
「死んだ…のでしょうか?」
「いや、これくらいで死ぬほど獣の王はやわではないさ。まぁ、向こう百年は目を覚まさないだろうね。」
「トドメは?」
「いや、よしておこう。べーモットは眠っている間に自然界で溢れてしまった魔力を吸収し、時折それを発散すべく活動している…とも言われている。諸説あるがね。」
「こいつが死ねば自然の法則を歪めかねない?」
「真実はわからないが、僕はそれを否定しない。」
「フォードさんがそう言うなら。」
メタンフォードは黙って頷くとべーモットを地中奥深くの誰の手も届かない領域で静かな眠りにつかせた。今後、この地は特別警戒地域として記録されることになりそうだ。
ひとまずの安寧を手に入れた矢先、おれとメタンフォードからふっと力が抜ける。二人揃って魂が抜けたように仰向けに倒れた。視線の先には吸い込まれてしまいそうな星空が広がる。
「とりあえずお疲れ様と言いたいところだが…この感覚は…なんだ…?」
「疲れてるだけですよ、きっと。そんなことより…まだ…何か忘れているような…。」
「ああ、心配ないさ。あとのことはきっと…。」
二人の声は次第に薄れ、ある時を境にプツンと意識が切れた。