70話 被験体
「ベネ…?」
少女は不思議そうに名前を反芻し、小首を傾げた。まるでそれが誰の名前であるか知らないかのように。
「君の名前でしょ?」
そう聞くと少女はブンブンと首を横に振った。
「違う。私はマレ。」
「え?マレ…?」
おれは予想外の返答に驚き、ガブリエラと視線を交錯させた。珍しく彼女も事態に困惑しているらしく、口を噤んでしまっている。おれは改めてマレと名乗る少女に向かい合った。
「ベネじゃなくて、マレ?」
「うん。」
「じゃあ、マレ。一つ聞きたいんだけどお姉さんや妹はいる?」
「いない。」
「なるほど…。これはどういうことだろう。」
「…?」
何がだろう、とまじまじと見つめ返してくるマレ。その姿は紛れもなくベネのものだった。あの優しい街の、気さくで明るい少女。他人の空似とかそんな次元の話ではない。どこからどう見てもベネ本人としか思えなかった。
一方で冷静に考えると彼女がベネではないとする根拠もいくつか思い当たる。
例えば移動距離。前の村からここまでは馬を使っても一日以上かかる。クールの頑張りもあってこの村には最短で到着しているにも関わらず、見送ってくれた彼女に先を越されていたとは考えづらい。
それにマレが見せたあの行動はどうにもベネとは結びつかないのだ。
「答えてくれてありがとう。マレはいい子だね。だから、お店の物を勝手に持ってきちゃダメだよ。」
実は彼女、周囲の視線が店先で始まった喧嘩に向かっているとき、視線をかいくぐるように鮮やかな手際で店の商品を無断で持ち去っていた。おれはその時見えた横顔がどうしてもベネに見えて、こうしてここまで追ってきたというわけだ。
一瞬、マレはびっくりした顔を見せたが、徐々に平静さを取り戻した。
「持ってきちゃダメ?」
「うん。お店の物だからちゃんとお金を払わないと。」
「でも、お金がないときは見つからないように取ってこればいいってパパとママが言ってたの。」
彼女は少し困ったような表情をしているが、悪事がバレたとき特有の動揺ではなかった。嘘をついているというよりは、なぜ自分が叱られているのか分からず戸惑っているように見える。
もしそうだとしたら、娘にとんでもない教育をする親がいるものだ。いくら貧しかろうが人の物は盗むべからず。これは人としての道理だ。
「そっか…。ダメなんだ。」
マレは店から盗んできた果実をがっかりした顔で見て肩を落とす。そして、控えめに主張するようにキュルキュルと空腹の音を鳴らした。
そんな姿を見せられて同情を抱かない人はもはや人ではない。おれはそれがなんの解決にもならないとはわかっていながら、とにかく放ってはおけなかった。
おれは彼女と一緒に先ほどの店に戻り、店主に事情を説明して値札に提示された額通りの金を渡した。
「ふん、物好きな坊主だな。」
店主はぶっきらぼうに唸った。お金を払った人間に『物好きな』とはいかがなものかと思うが言葉にはしなかった。
「いえ、当然のことなので。」
「……それもそうか。」
店主はチラッとマレを見てから、見てはいけないものを見てしまったかのように顔をしかめ口を開いた。
「そんなお人好しの坊主に一つ忠告だ。これ以上そいつに関わるのは止めておけ。」
「なぜですか?」
「ちょっと来い。」
マレに聞かれてはまずいことなのか、おれだけを呼びつけると顔を近づけて小さく答えた。
「原因はわからんが、あいつに関わった奴らが何人も消えている。お前も何か起こる前にさっさと離れることだ。」
「…。ご忠告、覚えておきます。」
素直に言葉を聞き入れるつもりはない。店主もそれを察したのか、複雑な顔をするだけでそれ以上追及することはなかった。
おれは何食わぬ顔でマレの元に戻り、その小さな手を引いて通りを抜けた。初めこそ気づいてはいなかったが、どうにもマレに注がれる周囲の視線が気になり自然と足早になっていた。
「なるほど。そんなことが…。」
エリスらと再度合流し店主からの忠告に伝えると、ガブリエラは十秒にも満たない思案の末、一つの提案を口にした。
「では、こうしましょう。マレ様を監…見守る役を一人。残った二人で聞き取り調査を続行します。この場合、一人になるのは私で構いません。こういった仕事は慣れておりますので。」
明らかに不穏な言葉を口走りそうになったが、思い直してくれたようなのでスルーを決め込むことにした。それよりも、ただでさえ少ない人員を二手に分ける提案に快諾することはでなかなかった。
彼女の言いたいこともわかる。村の被害がないことを考えると、最も警戒すべきモルトケカミナによる危険は少ない。かつ、ガブリエラに危害を加えられる実力者がそこいらを闊歩しているとは到底思えない。
実に論理的で現実的な案ではあるが、だからと言って…。
「いえ、マレにはおれがつきます。あなたにはエリスと調査の続行をお願いしたい。」
「…かしこまりました。」
迷ったと表現するほどではないにせよ、僅かに躊躇う間があった。
「大丈夫ですよ。逃げ足には定評がありますので。」
「ええ。存じております。」
そう言う彼女の顔は口角を上げ、聖母のごとき微笑を浮かべた…ようにも見えた。訂正、やっぱり気のせいかも。よくよく見ると無表情に変わりない。
「では、リュート。ご健闘を。」
「お互い様です。」
ふと目が合ったエリスは心配そうな素振りを見せたが、大丈夫だと頷いてやると『わかった』とでも言うように頷き返した。
「じゃあ、マレ。お家へ帰ろうか。家の前まで送るよ。」
「い、いい。」
マレは困惑気味に断った。いきなり見知らぬ男が家まで送ると言い寄ってこれば、この反応も無理はない。
だが、ここはひと目で治安が悪いとわかるような村。こちらとしては幼い少女を一人帰らせるなんてできるはずもなく。ガブリエラたちと別れたあと、マレには気づかれないように無事に帰宅できるまで見守った。
決して勘違いしてほしくはないのだが、これは巷で聞くストーカーなどでは決してなく、99パーセント善意の慈善活動であることを主張したい。
「さて、残りの1パーセントなんだけど…。そこにいるのは誰だ!姿を表わせ!」
マレと接触したときからずっと、誰かに見られている気はしていた。勘違いだと言われれば否定できない、確証のないただの直感。だが、おれは自分の直感を信じている。
叫んだ声が夜の闇に消えていった。しばらく構えていたが、ふっとなにかの拍子に粘着質な気配が消えた。
「退いたのかな?」
何者かの正体を突き止めたいところではあるが、残念ながら気配は察知できても明確な場所まではわからない。
「こんなときフォードさんがいてくれれば…。まったく。あの人は何を考えてるんだろう。」
急に姿を消したメタンフォードの真意も気になる。だが、彼の思考はおれの理解の範疇を超えている。真剣に考えたところでたぶん正解にはたどり着けないだろう。あるいはそこまで見越して、彼は姿を消したのかもしれない。
何はともあれ、とりあえずはマレの周囲を見張ってみるしかなさそうだ。そうすれば再びあの監視者と接触することもあるだろう。
☆
「勘のいい小僧だ…。そう簡単には捕らえられぬか。」
とある場所の地下施設。マレに接触した少年一行を監視していた中老の男は年甲斐もなく顔の皺を増やして喜んだ。
「特異体質と獣人の被験者か。願ってもない。しかし、なぜ今になって。ようやく新たな魔法が完成するというときに…ああ、そうか。そういうことか!まさに天啓!グッフッフ。」
男は久しぶりに感情の昂りを感じ、久しく口にしていなかった酒を気分良くグラスに注いだ。
「う゛う゛う゛…」
男はグラスに口をつけながら、ガラスの向こうにいる唸り声の主たちを見て愉快そうに笑った。
『北の森にはゾンビがいる。』いつの頃からか村の外ではそんな噂が広まっているらしい。その実状を知っている男からしてみれば、そんな非論理的な噂が立つことが滑稽に思えてならなかった。
「ゾンビなどと馬鹿なことを。愚かな人間が多くてしょうがない。嘆かわしいことだ。」
それにしても、と男は思う。
「一体どこから情報が漏れたことやら。目撃者は一人残らず消してきたはずなのだがな。まぁ、今となっては好都合。貴重な被験体を運んできてくれたのだからな!」