67話 モルトケカミナ
「まさかフォードさん、本当に帰ったんじゃ…。」
ミロワール村で調査を開始して三日目。メタンフォードは「後は任せた。」とだけ残して忽然と消えたまま。
あれからベネの勧めもあり、彼女の家を活動拠点として、言伝通り一応はミロワール村での調査を進めたのだが…。
「調査はこれにて完了ですね。」
「あの人、最後まで戻ってこなかったんですがっ!?」
「聡明な方です。何かしらの考えがあってのことかと。」
「だといいんですが…!」
ガブリエラは気が立ったチワワを宥めるようにおれの頭を弄った。的確に気持ちの良いツボを押され、メタンフォードに向きかけたフラストレーションが跡形もなく霧散する。
メイドに頭を撫で回される少年の図。傍から見たら明らかに異様な光景にも関わらず、道行く人の目には留まらない。まるで自分たちが透明人間にでもなったかのように錯覚した。
「エリスは大丈夫?疲れてない?」
戦闘に比べれば何てことないとでも言うようにエリスはコクコクと頷いた。
今更だが、エリスとガブリエラは表情をあまり表に出さないと言う点で似ている。お互い何か通じ合うものがあるのか、調査の合間、時折視線で語り合っていたように思う。
ともすれば、この三日間の最大の収穫は二人が仲良くなったことかもしれない。
「って、和んでる場合か!」
結局、三人の調査は徒労に終わっていた。ついぞベネと母親以外の口から、モルトケカミナの名前を聞くことはなかったのだ。
もしかするとモルトケカミナというのはベネが森へ行かないように生み出された嘘の存在なのではないか。森にいた何者かは、襲うタイミングを見計らっていた単なる魔物だったのではないか。そう思えてならなかった。
「唯一得られた手がかりは、森にモルトケカミナという人を食らう魔物がいるかもしれないということだけ。しかも、その存在自体、どこまで確かなのかも分からない…か。」
ベネの母親が言うにはモルトケカミナは実在する。亡くなった母から語り継いだ逸話だと。だが、今のところそれを証明するものは何一つないのも事実。
見たことがあるのか問うと、彼女もまたその姿は目にしていないらしい。
「モルトケカミナ…。何を由来とした名前かもわかりませんね。」
「いえ、一つ心当たりはあります。」
「あるの!?」
本当は口にしたくない、とガブリエラは珍しく表情を歪めるが、すぐさま元の真顔に戻る。
「恐らく本来の発音はモルト・ケ・カッミーナ…『生ける屍』を意味する言葉です。」
「それって…。」
「はい。報告にあったゾンビを連想させる言葉です…。」
この奇妙な一致は偶然か。そんな話を聞けば余計に無関係だと切り捨てることはできないが、詳細な情報を得られない以上、この村に留まる意味もない。
おれたちはメタンフォードを不在にしたまま、もう一つの村、デルニエールに向かうことにした。
彼から与えられた命令は一つ。『任せた』だ。その意味はメタンフォードの合流を待って停滞することではない。
ベネと彼女の母にお礼代わりの食料を差し入れ、日が高い内にミロワールを出た。出発の直前、ベネの顔には明らかに影が差していたが、この件が解決したらミロワールに立ち寄ることを約束した。そして、最後には再び笑顔を見せてくれた。
「穏やかな村でしたね。」
馬車を走らせてはや小一時間。暇を持て余しているのか、ガブリエラは馬車の御者席から背中越しに語りかける。
「ええ、みんないい人たちでした。」
そう答えた時、頭に思い浮かんだのはベネの母親だった。栄養が足りずに痩せ細っていたように見えた。裕福ではないにしろ、生活に困窮しているようでもなかったはず。
それなのに彼女はおれたちに野菜のスープや蒸かした穀物をご馳走してくれる中、自分だけは乾いたパンと水で食事を終えようとしていた。それがいつものことだと言って。
その時の彼女からは何も感じなかった。饗すつもりでも、自己犠牲のつもりでもなく。自分だけがその質素な食事になることを自明の理であるかのように平然と受け入れていた。
おれはその時、言葉では表しづらい衝動に駆られた。自分に出された食事を彼女に突き返し、パンと水を奪い取ると口に押し込んだ。無味でパサパサした食感は、綿でも食べているかのようであまりいい気持ちはしなかった。
おれがあまりに大胆な行動をとったものだから、その時ばかりは彼女も驚きで目を丸くしていた。
その驚いた顔もおれにとっては印象的で、今でもはっきりと思い出すことができる。
「本当にいい人たちでした。不気味なくらいに…。」
ぼそっと付け加えた言葉は馬車の揺れる音に掻き消された。
第二の村デルミエールに到着する前に、おれたちは一晩森で過ごさなければいけなくなった。理由は単純。メタンフォードが馬車を引いていた馬を一頭連れて行ったおかげで、進行速度が落ちたのだ。
合わせて、今回の野営には彼の魔法による簡易建屋もない。幸いガブリエラが火をおこす魔道具を準備していたため、光のない夜を過ごさずには済む。だが、幸か不幸か空は雲に覆われ、おれたちの囲む火がこの森で唯一の光源になっていた。
ラビを合わせた、三人と一匹は不自然なほどに一箇所に密集していた。ラビは頭の上に、エリスは脚の間、ガブリエラは肩が触れ合うほど近くに腰をおろしていた。
「あの…みんな、近くない?」
「そうでしょうか?」
「だって、肩とか当たってますし…エリスもほら、なんでそんなとこに座ってるのさ。」
ガブリエラは体の側面がほとんど密着しているにも関わらず、その対応だけは事務的だった。脚の間に座るエリスもおれが何を言っているのか分からなさそうにおれを見上げる。ラビは鼻でため息をつくだけ。
「私が隣に居ては不快ですか?」
ガブリエラは美人だ。そんな人が顔を赤らめながらそんなことを言えば多少なりとも揺れるものはあるのだが、残念なことに彼女の表情筋はピクリとも動いていない。能面でもつけているかのようだった。
それでも、寄り添っているだけで年頃の男を惑わせるくらいの美貌はあるのだ。
「いえ、これっぽっちも!ただ…」
「ただ?」
「ただ…白状すると、緊張します。」
「奇遇ですね。私もです。」
「ガブリエラも?」と聞き返しそうになるが声にはならなかった。急な展開に頭が追いついていけない。
もしかしておれは誘われているのか?いやいや、ガブリエラから見たらおれなんて十も離れた子どもだろう。何を考えているんだ。だけど、考えてみて欲しい。女性が寄り添いながら、「緊張している」だなんて…。
ダメだダメだダメだ。おれにはハル姉という心に決めた人がいて…
そんな葛藤に苛まれる中、ふとエリスの視線を感じて我に返った。
「リュート、揺れてる。」
「いや!断じて揺れてなんかないぞ!おれはハル姉しか見ていない!」
心外だ。ハル姉というものがありながら、他の女性に気を取られるなどあるはずがない。おれが女性として愛しているのは、ハル姉を置いて他にいないのだから。
だが、エリスの表情が明らかに困惑したものになった。
「ハル姉、じゃなくて、現実を見て。」
「おれには無理だって言うつもりか!」
「そうじゃなくて。」
「んがっ!」
勢いよく立ち上がるエリスの頭が顎下を強打した。脳が揺らされ危うく意識が飛びかけた。
「なんでいきなり…!」
痛みで涙が出る。顎を抑えながら立ち上がるエリスの顔を見ると、その視線は森の奥の暗闇を睨んでいた。その視線の先、はっきりとは見えないが暗闇の中で何かが蠢いている。
おれは遅ればせながら状況を把握した。野営のための火を中心に無数の微弱な魔力に取り囲まれていた。その反応があまりに微弱過ぎてここまで接近されるまでに存在に気づきもしなかった。
と同時に先程までの間抜けな勘違いを恥ずかしく思うが、今はそれどころではない。
「来る…。」
エリスの言葉に応えるように、暗闇で蠢く何かがゆらゆらと近づいてくる。
「あ゛あ゛あ゛。」
暗闇の奥から喉を絞り上げたような掠れた声にガブリエラの体がビクっと反応した。彼女は全く表情を変えないまま、おれの腕にしがみついてくる。
落ち葉を踏みしめるいくつもの音が周囲から迫って来る。ちょうどそれを見計らったかのように雲の隙間から月が姿を表し、おれたちの周りを月明かりが照らした。
血走った眼。青白い皮膚。ボロボロの服。毟り取られたように髪が抜け落ちた頭…
唸りを上げる亡者の群れがおれたちを包囲していた。